は一人、ひっそりと静まったフロアに居残っていた。
 今日の残務を終え、自販機で買った缶コーヒーを片手にモニターを見ている。
 帰宅前にこうして缶コーヒーを飲むことは少なくない。
 旨いと思って飲んでいる訳ではない。
 区切りが着いたことを自分に知らしめる儀式のようなものだった。
 ただ、いつもと一つ違っていることがある。
 コーヒーを飲む時はすべての片付けを済ませ、帰り支度を整えてからと段取りを着けているのを、敢えてパソコンの電源を落とさずにいることだ。
 ブラウザは一通のメールを表示している。
 差出人の名は『teamshoku_batai』となっている。会社で割り振られたメルアドなのだろう。
 メールそのものには何も記していない。空メールだった。
 その手前にあるウィンドウには、添付されていた動画ファイルが表示されている。
 映っているのはだ。
 コーヒーを啜る。
 微糖なのに甘い。
 だらしなく開いた口から涎が垂れた。
 は無意識に自分の口の端を指先で押さえる。
 画像の中の自分の話で、今の自分がそうである訳ではない。
 ほとんど顔のアップだが、していることは容易に想像が付いた。
 耐えかねたように身を捩ると、悪意のように露出させられた剥き出しの乳房が大きく揺れる。
 男の骨ばった手がを『定位置』に引き摺り戻した。
 馬岱の手だろう。
 コーヒーを啜る。
 音のないフロアに、ズーッと下品な音が響き渡った。
 最初から消音設定になっている。
 ビープ音ですらうざったく感じるが、パソコンで音楽を聴く習慣はない。調べ物の為にネットサーフィンしている折に音楽が鳴り出すことがあって、その対策のためだった。
 声が入っているかは定かでないが、確かめようとは思わない。
 動画は未だ続いている。
 コーヒーは空になった。
 デスクの端に缶を置く。
 硬質な音は、スイッチの音に酷似していた。

 次の日もメールは届けられた。
 その次の日も、次の日も、更にその次の日も、メールは律儀に届けられる。
 届く時間にはわずかなズレがあって、自動配信とは思えなかった。馬岱本人が自身の仕事の合間を縫って送ってきているのだろう。
 午後7時半と言う時間帯は、残業でもしていなければとっくに帰社している時間だ。
 世のサラリーマンOL諸氏の平均がどうかは知らないが、会社の規定で定刻は5時と定められている。
 ノー残業デーでも居残ることがあるでも、帰る日は帰る。顧客や会社の付き合いで、呑みに出ることもある。
 馬岱とて知っているだろう。
 同時刻に送ってくることに、然したる意味はないのかもしれない。
 用件に当たる文言は常になく、ただ同じ動画が送られてくる。
 がそのメールに返事を出したことはない。
 水面に石を投げ込んでいるようだ。
 水泡は立ってもすぐに消え行く。もメールを保存することはない。動画の中身は確かめるものの、すぐにメールごと廃棄してしまう。
 一つきりの波紋が描かれるのを、じっと見詰める馬岱を想像する。
 がモニターを見詰めているように、馬岱も同じようにモニターを見詰めているのだろうか。
「こんばんは」
 声掛けられても、は振り向かなかった。
 耳がその声を鼓膜に通した途端、無意識かつ全力で反射神経を封じ込めた。
「……驚かないんですね」
 驚いてみせるのが嫌だからだとは言いたくなかった。たぶん、喜ぶ。
 驚かずに居るだけで十分喜ぶだろうと想像しながら、けれどそれだけはどうしても譲ってやることが出来ないまま、は面倒臭げに振り返る。
 馬岱が佇んでいた。
 いつもの、穏やかな笑みを浮かべている。
「メール、読んでないのかと思いまして」
「読んではないね」
 の投遣りな返事に、馬岱の笑みは深くなる。
「……そうですね、失礼しました。見て、いただけましたか」
 確認するまでもなく、のパソコンは今、音のない動画を映し出している。
 背後に馬岱が回り込み、嫌がらせのようにわざわざモニターを覗き込んだ。
「反応がまったくないから、見てないのかと思いましたよ。さん、うちのフロアに来ても変わった様子もなかったようですし」
「何で言い切れるのよ」
さんに何かあれば、さんが騒ぐでしょう」
 他の誰が気付かずとも、だけは別だと馬岱は断じた。
「よく分かってるじゃないの」
「付き合ってましたからね」
 一日だけの癖に、という言葉をは飲み込んだ。
 問題はそんなところではなく、馬岱とが似過ぎていることにある。
 そして、二人はそれを互いに理解して、別れた。気付き過ぎる程気付けてしまうから、まるでひびの入った鏡に触れるような痛々しさがあったそうだ。
「じゃあ、あんたがおかしいってことも分かってんじゃないの」
「おかしくはないですよ。……これが普通ですから」
 普通であるのを普通でないと断じることは出来ない。だからは何も気付いてないだろうと馬岱は笑った。
「こんなメール送ってきて?」
「思い出の印ですよ」
 馬岱の体温を背中に感じて、は視線をブラウザから背けた。
 体温から、その熱が感じ取れるのも嫌な話だ。
 馬岱はの言葉を待っている。
 は馬岱に言葉を与えたくないでいる。
 譲歩されない交渉は平行線を辿り、交わることもない代わりに終わりも見えずに居た。
「どうして何も言ってくれないんですか」
 若い馬岱が焦れて動く。
 元よりそれも計算尽くのようで、を辟易させた。
「どうさせたいのよ」
 吐き捨てるの背後から、絡め取ろうとするかのように腕が伸ばされた。
 抱き締めるでもなくデスクに置かれた手は、馬岱の体をに押し付ける格好になる。
は、どうしたい?」
 耳元で囁かれる声は、毒を含んでの肌に鳥肌を作る。
 空メールの意図も、こうして執拗に質問のない返答を強請るのも、すべては一つのくだらない目的の為だと察しが付いた。
 どうしたらいい。
「……ここでは、嫌だから」
 考えても答えは出ず、は自分でも愚かしいと思う選択をした。
「どういうことですか」
 馬岱の声に表情はない。
 振り返ることもないから顔の表情は伺えない。
 淡々とした声は、何故かこの場にそぐわず酷く冷めていた。
「フロアの警備にあんたの入室記録が残ってて、一時間だか二時間だか、二人きりで何してたって痛くもない腹探られるのは嫌だって言ってんのよ」
 マウスをスクロールして、動画を消す。
「一時間だか二時間、何をするつもりだと?」
「言葉遊びをするつもりはないの。変な弱み捏造されて上司にお持ち帰りされるなんて、冗談じゃないからね。あんた、私が睨まれてるの知らないとは言わさないわよ」
 メールを閉じる。
 受信フォルダに入っているメールを削除し、削除済みのフォルダも廃棄する。
 パソコンの終了を選択し、馬岱の手を指先で叩く。
「退いてよ。立てないでしょ」
 馬岱の手は緩々と上がり、そして、突然弾かれたようにに襲い掛かった。
 ブラウスのボタンが弾ける。
 ベルトの留め具が、甲高い耳障りな音を立てた。
 壊れたな、と舌打ちしたい気持ちに駆られる。
 大きく開いた襟元から馬岱の手が侵入し、ブラをたくし上げて乳房を鷲掴みにする。
 強い力で握り込まれて、走った痛みに眉を顰めた。
「隠しカメラに映っても、知らないわよ」
 の言葉に乱雑に蠢いていた手が止まる。
「……そんなもの、あるんですか」
「あってもおかしくないって話よ」
 知っているなら隠しカメラとは言うまい。ももう少しは本気で抵抗する。
 半ば本気で密かに流れる『統括室の隠しカメラ』の噂は、董卓が部下を見張る為だのTEAM魏が密かに監視を行っているだのと生々しい現実味を帯びて、完全否定するを許さない。
 馬岱がメールで送り付けてくるのとは訳が違う。どんなルートでどんな風に使われるか知れたものではなく、それこそ犯罪紛いの事件に発展してもおかしくなかった。
「だから、こーいうことがしたけりゃラブホに行きゃあいいでしょって」
「……さん」
「そういうとこでなら、別に文句も言わないし抵抗もしないわよ」
さん」
「とにかく、着替えてこなきゃ。もうこれ、着れないじゃない。結構気に入ってたのに」

 馬岱の声が詰まったようになって、そこで初めては口を閉ざす。
 見ないように努めていた馬岱の顔は、泣き出しそうだった。
「……怒らないんですか」
「何を?」
 冷たいな、とは他人事のように判じた。
 馬岱がを怒らせようとしているのは分かっていた。が嫌う、下劣なやり方で必死に挑発しているのも分かっていた。
 腸が煮えくり返るような気持ちを堪えてきたのは、馬岱がそうしてを繋ぎ止めようとしているのが分かっていたからだ。
 読みやすい男だ。
 だからこそ、馬岱が今まで付き合ってきた女の子達は却って馬岱を読み損なってきたのだろう。
 まさかこれ程単純で繊細な『男の子』だとは思わないだろうから。
 単純を自覚するが故に自分を飾り、繊細を認識するに及び傷付かぬよう、分厚く高い壁を築いてきたのだろう。
 いつかその壁を乗り越えて来てくれる女の子が居ることを願って。
 けれど、そんな凛々しい女の子は現れなかった。
 現れたのは、短気で暴力的に馬岱の作った壁を蹴り上げる無礼者だった。
 それでもいい、きっともう二度と会えない。
 そんな風に思い込んでしまう程、失望を繰り返し味わってきたのだろう。
――知ってる? それ、『お姫様願望』って言うんだよ。
 胸の内でこっそりと吐露する。
 あまりに自分勝手で倒錯的な我がままに、反吐が出そうだ。
――だけども。
 相手はそこいらの女の子ではなく、何度も肌を許した男だった。
 が弱っている時に、図々しさを装って抱き締めてくれた相手だった。
 振り払わなくてはいけないと思いつつ、たったそれだけのことが酷く辛い。
「……私は、あんたと付き合えないよ。ホントはもう分かってるんでしょ」
 返事をしない馬岱に、はぶらりと垂れ下がった手を引き寄せて顔を覗きこむ。
「……さん」
「違うよ。勘違いしないで。あんた、別に私じゃなくったって構わないんだから。ただ、あんたにべったり甘え掛からないって、たったそれだけの条件を満たしてるだけ。こんな条件、別に私じゃなくったって、世の中にいっぱい居るんだからね」
 拘らないで、引き摺らないで、次の恋に向かうべきだ。
 の言葉は、馬岱の苦笑を誘った。
「ただそれだけって……」
 馬岱は、自分が破いたのブラウスを摘んで合わせる。
 肝心のボタンが飛んでしまっていたから留めることは出来ないが、露になっていた胸は隠された。
 は今更ながらに自分の状態に気付き、乳房の上に来ているブラをずり下げながら、四苦八苦して収まりを付ける。
「なかなか、居ないんですよ。それだけの人が」
「運が悪かったんじゃないの」
 ふ、と暖かな息が前髪を揺らし、は上目遣いに馬岱を見上げる。
「あっさり、言うんですねぇ……」
 それは違う。
 そうとしか言えないことがあるのだと、自身が諦めた経験があるからそう言っているだけだ。
 あっさり言ってる訳ではない。
「呑みにでも、行く?」
 の誘いに、馬岱はしばらく考え込んだ。
「……ホテルに、行きましょう?」
「するつもりか」
 呆れて問い返すに、馬岱が笑う。
「あの画像データ、俺が持ってるんですよ」
「脅迫する気」
 違いますよ、と馬岱は肩をすくめる。
「持ってる、と事実を述べているまでです。それをどう受け止めるかは、さんの勝手ですけど」
「脅迫じゃないのよ」
「違うって言ってるじゃないですか。メールだって、一っ言も打たなかったでしょう、私は」
 の目が揺れたのを、馬岱は見逃さない。
「何か?」
「……あー、うん。つか、『私』って言ったなって、思って」
 の指摘に馬岱は口を閉ざす。
 やはり言ってはまずかったかと複雑な思いに駆られた時、馬岱が再び口を開いた。
「自分のこと、『俺』って言うの、結構憧れだったんですよね。気が付いたら、もう『私』だったもので。……普通は、男は『俺』って言うでしょう?」
「いいよ、別に」
 はデスクの下に置いておいた鞄を肩に掛ける。
 馬岱がじっと視線を送ってくるのを見て、肩をすくめた。
「あんた、普通じゃないじゃない」
「……さんに比べたら、全然普通だと思いますけど」
「あんたと比べられたかないわよ」
 毎日きっちり同じ時間に脅迫メール送ってくるような変質者と一緒にされたくない。
 そう言って眉を吊り上げたに、馬岱は苦く苦く笑った。
「私が変質者なら、さんは卑怯者ですよ」
 やっぱりここで抱いてしまおうかなと呟いて圧し掛かってきた馬岱を、は拳固で応対した。

 続

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