それきり、メールは来なくなった。
業務の連絡、取引先からの私用メール、分厚いセキュリティを突破して稀に届く釣りメールの中に、馬岱からのメールを確認することはなかった。
本当に終わったのだという実感は薄い。
最後に、と入ったホテルはありきたりなラブホテルで、シャワーもそこそこに二回した。
やることにも特別なものがあった訳ではなく、いつも通りと言えばいつも通り、長年連れ添った夫婦並に淡々と済ませた。
感極まって泣き出すことも、この世の最後とばかりに力強く抱き締めあうこともない。
汗は掻いたけれどそれだけの、スポーツ感覚のセックスだった。
終わった後にもう一度シャワーを浴びて、別々にタクシーに乗って帰宅した。
別れの言葉さえ淡白に、互いに『じゃあ』の一言のみだった。
ある意味、自分と馬岱の別れ方としてはもっとも相応しかったかもしれない。
有難うくらい、言っておけば良かったかと、それだけは後悔した。
一番しんどいと思う時期を無償で支えてくれた男だった。
本人が否定したがるのは、案外芯から尽くすタイプに他ならなくて、それが嫌で仕方なかったからかもしれない。
とて、もう少し可愛げのある性格だったらと、何度も考えたことがある。
変えられなかったのは、どうしても違和感があったからで、それをいいとも悪いとも感じている。
平均的なステレオタイプにはなれない。
なれないからこそ辛い目にも遭うし、ならなかったからこそ嬉しいこともあった。
人なんて、千差万別でいい。
その人生が幸せかそうでないかなんて、誰にも口を出して欲しくない。
口出しするだけ暇な時間を持て余している証拠のように思う。こんな風に生きればいいのに、こういう風にすればいいのにと説教する連中の、一体何パーセントが充実して幸せだと満足しているのやらと思う。
他人と自分を比較することは、結局、比べることでしか幸せを自覚できないのと一緒ではないだろうか。
自身の幸せを噛み締める出汁にされるのは真っ平だ。
私は、幸せだけど不幸せだし、不幸せだけど幸せだ。
それでいいとは考えている。
純度百パーセントの幸せなんて、ぞっとしない。
多少の不幸せは、幸せを噛み締めるエッセンスになってくれる。
今は、とにかく仕事をしたい。
苦労は多いけれど、ようやく人脈らしい人脈も作れて、覚えた仕事をこなすこと、新しい仕事を覚えることが楽しくなってきた。
孫策も、の主張を甘んじて受け入れてくれた。
納得はし難かったようだが、それでも応じてくれた。
孫策、それに馬岱という並々ならぬいい男と恋愛できたことを、は一生の誇りとするだろう。
求めても、こればかりは早々できるものではない。
運命の廻り合わせに感謝して、これきり恋愛できなくても後悔するつもりはなかった。
今日も一日、あっという間に時が過ぎた。
目まぐるしい一日に、いつかは疲れを覚えるかもしれない。
けれど、今は満ち足りていた。
ならばそれで構わない。
手元の書類を見遣り、この打ち込みが済んだら上がりにしようと決める。
今日の食事は何処でしようか。
新しいバーが開業すると聞いていたが、あれはいつだったろうか。
名刺をもらってあった筈だから、後で探しておこう。
考えながらもブラウザに打ち込まれる文字の速さは変わらない。
ENTERを打ち込み、本日の業務は終了した。
パソコンを落としている間、書類を纏める。
フォルダに挟んで引き出しに仕舞い込むと、鍵を掛けて確認する。
ブラウザの画面が消えたのを確認して立ち上がると、業務終了の開放感から大きく伸びを一つした。
フロアには、誰も残っていない。
仕事の無事終了の喜びを分かち合う仲間が居ないのは難だったが、文句を言っても限がない。
時刻は既に九時を回っていたが、これでも早く済んだ方だ。
良い良い、とバッグを取り出して椅子を引く。
「」
一瞬呼吸が止まりかける。
単に驚いたせいだ。別に理由がある訳ではない。
顔を合わせれば挨拶ぐらいはしていたのだし、この時間に残っていることも珍しくない相手だ。
「何か?」
振り返ると、馬岱は息せき切っている。
走ってきたのだろう、酷く呼吸が乱れていた。
「……何? 何か、トラブル?」
冷静沈着を旨としている男だけに、こんな風に慌てているのは珍しかった。
「すみ、ません……ちょっと、どうしても今日中に、確認を取っておかなければならなくて」
やはりトラブルかと眉間に皺が寄る。
業務終了の開放感が、一転して緊急召喚の臨戦態勢に早変わりした。
「何? 取引先の話? それとも生産ラインの方?」
この間の新工場の現地ストライキの件か、賄賂の請求に劉備専務辺りがキレたのかと見当を付けながら、急ぎパソコンの電源を入れようとする。
データのほとんどすべてはここに入っているのだ。
その手を、馬岱が押さえる。
「そう、じゃなくて……」
未だ呼吸が落ち着かなく、ぜいぜい言っている。
何事か言い立てているのだが、耳障りな呼吸音に妨げられて良く聞き取れない。
「え、何? いいから、落ち着いて。何言ってるか分からない」
それでも、馬岱は落ち着けないのか慌てて言い募ろうとする。
やむなくが耳を近付けると、馬岱の腕が素早く伸びての体を巻き締めた。
何事か。
間近に見上げる馬岱の顔は、いつも通りの穏やかな、それで居て人を食ったような笑みを浮かべている。
置いた手から伝わる肺の動きは滑らかで、無論呼吸そのものも落ち着いた静かなものだ。
「騙した」
ぼそりと口にして、改めて理解する。
呼吸困難に陥る程泡を食った振りをして、こうなるとトラブルそのものも偽りだった可能性が高い。
否、嘘だったのだろう。
詰ろうと眉間に力を篭めるに、絶妙のタイミングで馬岱が口を開く。
「騙したのは、さんでしょう?」
そのまま口付けられて、舌を捉われて絡ませられる。
顔を反らせて逃れようとしても、馬岱の手がの頭をしっかり固定していて許さない。
唇が離れた頃には、の呼吸が荒くなっている始末だった。
「……色気、ないですね」
ぜぇはぁと肩で息をするに、馬岱はぼそりと感想を漏らす。
「あんた、ねぇ!」
怒鳴りつけてやろうとして、じっと見詰める目に怯んでしまう。
「……何よ」
唇を尖らせて威嚇を試みるも、馬岱相手ではどうにも不利だった。
馬岱はそっとを引き寄せ、緩く抱き締める。
「騙したくせに」
「だから……何を、よ」
馬岱が言いたいことに心当たりがない訳ではない。むしろ、それ以外に馬岱がを『騙した』と詰る理由はなかった。
騙したのではなく言わなかっただけ、と言っても、馬岱には通用しないだろう。
馬岱は恨みがましくを見下ろし、溜まらなくなったように抱いた腕に力を篭めた。
「孫策常務と、別れたって……どうして、教えてくれなかったんです」
あぁ、やっぱり。
接点のない二人だったから、分かる訳はないと踏んで、敢えて何の工作もしてこなかった。
何処で話が漏れたのだろうと、埒もない思索に耽る。
「現実逃避、したら駄目ですよ。ちゃんと答えて下さい」
言い当てられて退路を塞がれ、は苦い笑みを浮かべる。
「……別れた訳じゃ、ないし」
「四十になっても一人身だったらより戻そうって、それの何処が別れてないって言うんです」
どうも、すっかりばれてしまっているらしい。
何処でどのように、と詮索している暇はなかった。
「私があんたと別れたの、別にその話とは関係ないじゃない」
話を打ち切ろうとするのだが、馬岱はの意を汲もうともしない。
「関係なくはないでしょう、私は」
馬岱の言葉が途切れる。
「……私、は、貴女があの人を選んだと思ったから身を引いたんですよ。貴女が一人になると分かっていたら」
「それは、あんたの勝手でしょう? 私と伯符がどうなろうと、あんたに関係ないじゃない」
が選んだのは、孫策でも馬岱でもなく、仕事だった。
両立できないと踏んだからこそ、踏ん切りを付けたのだ。
孫策には大喬が居る、馬岱には自分でなくていい、だがこの仕事は、自分以上の適任は居ない。
苦渋の、等と格好付けるつもりはない。
は極あっさりと決心を固めて仕事を選択した。
馬岱は溜息を吐く。
それはもう、深々と溜息を吐く。
「……下手に恋愛に浸っている女よりも性質が悪いな、貴女と言う人は」
「うるさいな、一緒にしないでよ」
「一緒にしてません、もっと悪いと言ってるんです」
屁理屈だとがごねると、馬岱はまたも溜息を吐く。
まるで犬か猫のように頭をかいぐりと撫で回されて、はじたばたともがくのだが、馬岱は細身の割に力強くを戒めて、決して逃そうとはしなかった。
「……仕事、したいのよ」
「すればいい」
ようやく観念して告白したを、馬岱は言葉で容赦なく打ち据えた。
「して下さい、その方がうちのTEAMの為にもなりますし? 但し、それを理由に別れると言われたって、私は納得しませんから」
仕事の為に別れたのは孫策との場合で、馬岱と別れる理由は別だ。
しかし、馬岱は聞く耳を持たなかった。
「貴女が生活不能者だってことは、骨身に染みて理解しているんです。孫策常務と別れて大喬殿のサポートを失った貴女が、この先業務に支障が出ない程度の健全な私生活を過ごせる訳がないでしょう」
だから別れない、別れたとしても諦めない、と馬岱はやたらに力強い。
こんな強気な馬岱を、は見たことがない、こともない。
馬超だ。
あの、有能な割に何処か抜けていて、言うことも強気且つ突拍子もない、あの男の手綱を上手に取っている時の馬岱が此処に居た。
塔に閉じこもっていたお姫様が、閉じ込められていた厚い壁をぶち破って出てきたと思ったら、とんだ小姑に早変わりしている。
「……あんた、馬超係長の嫁になりゃいいのよ」
「生憎、この国の憲法では男同士の婚姻は認められていないんですよ。無論、貴女を迎えることには何の障害もない訳ですが」
突拍子もない台詞をあっさりとかわされ、毒の篭もった言葉で返される。
馬岱の本領発揮というところで、その分本気で腹を立てているのだろうとも知れた。
「だって」
は半ば追い詰められたような気持ちになって、喚く。
「……だって、私四十になったら伯符んとこに行くんだから」
「その時点で一人だったら、でしょう?」
が孫策に仕掛けた言葉のあやを、馬岱は上手に盗用した。
「渡しません。……少なくとも、今、貴女を一人にさせたりなど、決してしませんよ」
どうやって逃れよう。
慌てて上手い理由を探すも、相応しいものが該当しない。
孫策に対して有効だった『仕事』は、先程無効にされてしまったばかりだ。
かと言って、束縛されると弱くなるなどという理由で馬岱が引いてくれるとは思えなかった。
「一人で居たいのよ……一人で、仕事のことだけ考えてたいの!」
鼻先で笑われる。
「恋愛するの、怖いだけでしょう、さんは」
むっとする。
胸がずきんと痛んだ。
「仕事は、心変わりしませんからね。だけど、貴女を支えてはくれないんですよ?」
鼠が滑車を回すように、しゃかりきに駆けている間はいい。けれど、が休みたくなって足を止めた時、仕事はを受け止め休ませるものに転じたりはしない。
そういうものでは、ないからだ。
「違う種類のものを同列で見るから、貴女は破綻するんです。仕事は、貴女のとっ散らかした部屋の掃除もしてくれないし、風呂場に湧いた黒かびも退治してくれないでしょう?」
「……あんただって、別にそんなことしなくったっていいんだから。する必要、ないでしょう?」
なくはないです、と馬岱は神妙に頷いた。
「それでが私のものになってくれて、可愛げもなく馬鹿なことをぽんぽん言ってくれていたら、それでいいんです」
あやすように背中を叩かれ、はぐっと唇を噛み締める。
不利だ。
退路がどうしても見出せず、それでもただ降伏するのは我慢が出来ず、は握り拳を握った。
「馬超係長が、女だったらさ、あんただって」
思わぬ方向への八つ当たりに、馬岱は苦笑を滲ませた。
「でも、あの人は男ですから」
そして、と続ける。
「は、俺の、可愛い女の子だから」
臭い台詞にが暴れ出し、しかし予想通りの反応に馬岱は声を立てて笑う。
初めて追い掛け、捕えた『獲物』を手にして、馬岱は込み上げる感情にひたすら照れ臭くなってを抱き締める。
「苦しい、ったら」
耳元に吹き込まれる声が掠れている。厄介な程体を熱くするのを、馬岱は衝動にかまけて腕に力を篭めた。
馬鹿で、突拍子もなくて、可愛げがなくて、愛おしかったのだ。
終