違和感を感じた。
夏侯惇はを見詰める。
は振り返らない。
たいしたことではない。いつもはそれだけで振り返るというだけだ。
後頭部に目でも付いているのかと思うほど、は人の視線に敏感だった。
夏侯惇相手だからと言うこともない。
曹操がそう言っていた。
フロアを見渡していると、どれだけ忙しい最中でも、だけは顔を上げ、ふっと目を合わせてくる。
自ら逸らすことはまずないらしい。
ビー玉みたいな目で、じぃっと曹操の目を見返してくるそうだ。
言葉だけならそれは何と言うこともない話だ。
だが、夏侯惇やなど、曹操に近しい人間だったらまず驚くに違いない。
曹操の目の力強さは異様だ。人を射抜くような鋭さがある。
大抵の人間は、底まで見定められるようなその視線の強さにたじろぐか不快になるかのどちらかしかない。
はどちらでもない。ただ見返す。曹操が別のことに気を取られるまで、ずっと見ている。
面白い娘だと言って曹操は笑う。
元譲が、まずもって選びそうにないにも関わらず選んだ娘と言うのがまた面白い、とも言っていた。
夏侯惇自身も、何故を魏に誘ったのか覚えていない。何の気なしだったような気がする。理由などなかったのかもしれない。
とにかく、は敏かった。
視線にも気付くが、気配にも敏い。
夏侯惇が喉が渇いた頃に茶を淹れてくると声を掛けてくる。
小腹が空いたな、と思うとうまい棒たら言う菓子を食えと差し出してくる。
機嫌が悪い時は放置してくれる。
担当した仕事の状況を考えていると、そう言えばと切り出して話をする。
万事がこの調子だ。
がを重宝していたという噂だが、あながち嘘でもないらしい。
一見おちゃらけて見えるだが、殊サポートと言う面においてはこれほど有能な者も居るまい、と思わせる。仕事は早い方ではないが、ミスもほとんどない。
何より、この娘は裏切るまいな、という不可思議な安心感があった。
根拠はない。ただ、そう思う。
取り上げてしまったには悪いが、あれほど難渋していた仕事の進行も、今はだいぶ軽減した。
気分によるものも大きいだろう。とりあえず一人ではなく、そこそこ仕事のわかる娘が不平不満も言わずに残業してくれる。
今やっている業務は、が改正したらどうかと薦めてきたデータの入力と確認が主だったから、それさえなければ実に数年ぶりに残業なしで帰れそうだ。
大事な部下だ、という気持ちもここ最近とみに増してきている。
何か悩みでもあるなら、聞いてやろうかと夏侯惇は決心した。
「…おい」
声がけるが、は振り返らない。
これはますますおかしいと、夏侯惇は席を立った。キャスター付きの椅子が、がたんと小さな音を立てた。
の肩が弾けたように飛び上がり、驚いて見開かれた目が夏侯惇を見詰める。
こんなに驚くは珍しい。
いつも浅く笑んで人を見上げているが、まるで怯えたような表情を見せたことに夏侯惇は不安を感じた。
一瞬で掻き消えた表情は鮮烈で、逆に夏侯惇の不安を煽る。
「なぁに、惇さん」
お前こそ何だ。
胸の内で囁くが言葉にはしない。
椅子から立ち上がっただけであんな反応を見せたに、無碍な扱いをしてはいけないと察した。
「お前、最近様子がおかしいな」
は、瞬きにも満たない間固まってから、ゆるゆると首を傾げて見せた。
誤魔化そうとしている。
すぐにわかった。
何故わかるかよくわからない。
だが、このままにしておいては良くないと思った。
に歩み寄ると、いつもの笑顔に引き攣りを感じた。外面上は何の変化もない。
俺は何故わかるのだろうな、と思いながら、の脇に立ちデスクにもたれた。
「何かあったのか」
できるだけ平静な、落ち着いた声で話しかける。
何かって、と小首を傾げるのが、何処か芝居じみていた。
「嫌なこととか。誰かに嫌がらせされてるとか、そういう、お前が嫌な思いをさせられることがあったんじゃないかと聞いている」
の表情はいつもと変わらない。
だが、何故か泣き出しそうだなと感じた。
「…嫌なわけ、ないデスよ?」
だって、勝手にやって、嫌になられて当たり前で、こっちが嫌になるなんて、そんなのおかしい。
謎掛けのような言葉だ。
しかし、はそれきり口を閉ざしてしまった。肩を落として、膝の上に手を揃えて、何か堪えているようなの背中は酷く小さく見えた。
「俺に、できることはあるか」
夏侯惇の言葉に、は首を横に振って答えた。
ない。
確かに、夏侯惇に出来そうなことはない。
はなりに、自分が話せるだけ話したのだろう。ならば、この先は言うまい。
こんなにやわそうな体の癖に、は異様にプライドが高い。
普通の、そこら辺にいる娘であれば、愚痴って悪口雑言三昧で盛り上がりもしようが、は愚痴も文句も垂れようとしない。
本当は言っていて、単に見たことがないだけかと思いもしたが、たぶんそうではないだろうと感じていた。
理由も詳細も定かでないが、それらはがしてはいけないと己に律した行為なのだ。決してやってはいけない、だからしない。
そう感じた。
だから、もう何も言わないだろう。
夏侯惇にできることは、何もないのだ。
「少し、出てくる」
夏侯惇はを置いて、廊下に出た。
が無心に打ち込み作業をしていると、背後から人の気配を感じた。
夏侯惇ではない。
けれど、会いたかった人の気配とあまりに良く似ていた。
「?」
の横に、その人がしゃがみこんだ。を見詰めている。
「どうした? 元気、ないって?」
の目から、突然涙が零れた。
唇を噛み締め、ぎゅっと目を瞑ってみたが、の意志に反して涙は止まろうとはしてくれなかった。
「どうしたの。何か、嫌なことあった?」
膝の上でぎゅっと握り締めた拳の上に、の手が重なった。
「センパイ、ごめんなさい、勝手なことしちゃって、ごめんなさい」
の目が丸く見開かれる。
困惑するまま、泣き続けるを抱き締め、軽く背中を叩いてやった。
の手がの背中に回り、まるで振り落とされるのを恐れるかのように、しっかりとブラウスを掴んでいた。
次の日。
夏侯惇が視線を遣れば、がひょいと振り返る。
「…喧嘩してたのか?」
「してないデスよ?」
の目が、きょろんと夏侯惇を見詰める。
夏侯惇には事の成り行きがまったく見えず、また教えてももらえなかった為に事情が飲み込めていない。
がを孫策に売ったこと、を裏切った自分への罰として、から離れようとしていたことなど、当然知りようもない。
馬鹿ねぇ、とが笑い、そういうところは私にそっくりだわ、と呆れていたことも勿論知らずにいる。
夏侯惇が知り得るのは、ただ、が元に戻ったということだけだ。
と、がそそっと夏侯惇の前に走り寄ってきた。
「惇さん、あの、お願いがあるデスよ」
珍しくもじもじと切り出したに、夏侯惇は無言で続きを促す。
「今日、残業、お休みしたらダメです?」
「構わんが…」
訝しげな夏侯惇を他所に、は文字通り小躍りする。
私用電話を掛けてもいいかと訊いてきて、本当はダメだが何となく許可してしまった。
「…あ、先輩! 惇さんいいって!」
と出かけるのか、と何となく納得して、書類を読んでいると、はすぐに電話を切って夏侯惇の許に駆け戻ってきた。私用電話を許可した礼を言われるが、時間にして実に三十秒も掛かっていない電話に、いちいち目くじらを立てる気にもなれない。
軽くいなすと、はにっこりと笑った。
「楽しみだね!」
わーい、と浮かれてパソコンに戻っていくに、夏侯惇はやれやれと苦笑を漏らした。
出かけるのが、の二人に加えて夏侯惇自身も入るのだと知ったのは、が帰り支度をぎっちり整えて迎えに来てからのことだった。
終