唇に触れた感触に目を見張る。
 一つしかない眼が二つある眼の見え方とどう違ってしまったか、夏侯惇はもう思い出せずにいる。
 とにかくその一つしかない眼いっぱいに映っているのは、薄い皮膚下に流れる血の色が透ける、暖かな肌色だった。
 は屈んだ体をすぐに起こし、いつもと同じ無邪気な笑みを浮かべた。
 呆然として声もない夏侯惇に、はいたいけな小鳥のように小首を傾げる。
「……お、前、今……」
 うん? と小さな声でが聞き返してくる。
 その表情に戸惑いは欠片もない。
 夏侯惇は、焦っている自分の方が馬鹿に思えて眉を顰めた。
「こういうことは、好きな男としろ」
「惇さん、大好き」
 間髪入れずにっこり笑って返してくるに、夏侯惇は頭を抱えたくなった。
 違う、そうじゃないと言ったところで、が理解してくれるとは到底思えなかった。
 好きだ、だから、したのだ。
 理屈の上では合っている。
 だからこそ、その『好き』の種類と言うか度合いと言うかがこの際重要なのだが、それを如何にして理解させるかの手立てが思いつかない。
 微かに呻き声を上げる夏侯惇の前で、はただ夏侯惇を見詰めている。
「だから……、だからこういうことはな、こういうことは、お互い同じ気持ちですることだ、そうだろう」
 考え考えのもどかしい口調だったが、何とか説明したい内容に近い言葉を探し出すことが出来た。
 の顔が、見る見る内に沈んでいく(傍から見ると何の変わりもないのだが、夏侯惇には何故かそれとわかる)。
 理解したか、とほっとしたのも束の間、いやこれは違うと夏侯惇の勘が叫んだ。
 とぼとぼと肩を落として去ろうとする後姿は、かつてに別れを告げようとしていた時とぴったりと重なる。
 誤解をした、と察するに十分だった。
 何を誤解することがある、と立ち上がり、やはり瞬時に察した。
 互いの気持ちが同じなら。
――0か1かしかないのか、お前は!
 怒鳴っても仕方ないことではある。の感覚はあまりに特殊だ。常人のそれとはあまりに違う。
 けれど、鋭いなら鋭い、鈍いなら鈍いで統一されていないでは困るではないか。
 主に、夏侯惇が。
 常の速度を装う早足に何とか追いつく。
 捕らえられたことに疑問の眼差しを向けてくるこの娘に、説明をしてやらなければならない。
 夏侯惇は口を開きかけ、しかし何と言って説明したものだか苦悩した。
 結局、取った手段は非常に短絡的と言わざるを得なかった。
 先程とまったく同じ光景の再現、今度は役を入れ替えて、ご丁寧には夏侯惇と同じように目を見張っている。
 違うことと言えば、先程よりもずいぶん長い時間そうしていたというくらいだった。

「その」
 離れた途端、夏侯惇は何をどう言ったものかわからなくなり、口篭った。
 そのせいで口付けが長かったとも言える。勢いで触れたまでは良かったが、その後の対応を苦慮していたのだ。
「……こういうことは、手順を踏め」
「テジュン?」
 が首を傾げる。
 聞き返すところじゃないだろう、とイラつきながら、夏侯惇はおざなりに頷いた。
「惇さん」
「うん?」
「大好き」
 言うなり、は夏侯惇に唇を重ねた。
 そうじゃないだろう。
 思いながら、しかし夏侯惇はの頬に己の手を添えた。
 フロアの隅で捕まえて良かった、と思った。

  終

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