夏侯惇が珍しく名指しで人を欲した。
それも、目の上の瘤である統括室からの引き抜きだというから、曹操は上機嫌だ。
新人に毛が生えた程度の人材という触れだったが、構いはしない。
多少強引な手を使うことにはなったが、悔いもない。
何時になく満足顔の曹操に、も笑みを零した。
の服装は、TEAM魏の中でも割と目立つ。
扱う商品対象が若干高めの年齢層だったから、TEAMの人間もそれなり落ち着いた服装の者が多い。
は違う。
今日の服装は、異動初日にも関わらずラフ中のラフだった。
上は鮮やかなオレンジのパーカーに白の長T、膝丈のジーンズは明るい青で、相変わらずの素足だ。靴下は上着と同系のオレンジで、グレー地に赤のラインのスニーカーを履いている。
紺やグレーのスーツが行きかう中、の服装は目立たない方がおかしい。
ところが、は気にした様子もなく、大きめの目を見開いて夏侯惇を見上げている。
「何したら良いですかね?」
仕事をくれと言わんばかりに両手を差し出す。
「……今日のところは、デスクの整理だ。自分の机に座って周りを見ていろ」
「あーい」
気楽に返事をすると、夏侯惇の脇に置かれたデスクに腰掛ける。
夏侯惇付きの事務員というのが、に与えられた立場だった。
のことだから、持ってきた私物も大量になろうと心配したのだが、実際にが持ってきたのは小さなダンボール一つにも満たない量だった。
まず出てきたのはうまい棒の袋で、デスクの下にあるキャスター付きの引き出しに仕舞われる。
次に出てきたのは大き目のペンたてとマーカーが数色、ボールペンや鉛筆などの筆記類だった。
それから、何も仕舞われていない大型のファイルと薄めのファイルが数冊、卓上用のメモ帳が一冊、新しいオレンジ色のノートパッドが二冊、それでダンボールは空になった。
夏侯惇の視線に気が付いたのか、は小首を傾げて夏侯惇を見詰める。
「……備品なら、こちらで揃えるものを」
誤魔化すように指摘すると、はにっこりと笑った。
「先輩が、会社のは使いにくいからってくれたんです。ここのも、統括室と同じ奴だからって」
確かに、K.A.Nで一括購入したのをそれぞれのTEAMの備品倉庫に配っているから、何処のTEAMも同じものを使っているはずだ。よくよく見れば、のペン立てに刺さっているのも会社のものとは種類が違うようだ。
文具一つにそれほど差があるとは思えず、使えればいい主義の夏侯惇には理解できなかった。
は、フロアの人間をじっと見渡している。
挨拶の時も物怖じしない娘だとは思ったが、遠慮会釈もない視線に思わず見入る。
が振り返り、小首を傾げる。
延々と繰り返しになりそうだ。夏侯惇は脇に置いてあった書類の束とCDケースを取ると、を呼びつけた。
「入力作業、しといてくれ」
は嫌な顔一つ見せずに受け取ると、すぐにデスクのパソコンを起動させた。
しばらく静かに仕事が出来ると思って書類を書き付けていると、が戻ってきた。手に、プリントアウトした紙が握られている。
「ここのとこなんですけど、枠増やしてここのデータも入力した方が、後で便利かもって思ったんですけど」
渡した書類を並べて提示される。
夏侯惇はやや面倒そうに眉を顰めた。
「……それは、統括室のやり方か?」
唐突な夏侯惇の言葉に、しかしは数瞬考え込んだ後、素直に頷いた。
「魏には魏のやり方と言うものがある。作られたデータベースに添って入力していけばいい」
が、不思議そうに夏侯惇の目を覗きこむ。
顔を近付けられたわけではないから、としてはただ見ただけだったかもしれない。
夏侯惇は何となく気圧されるものを感じて顔を背けた。
用は済んだ。もう、言うこともない。
はおとなしく席に戻っていったが、夏侯惇は落ち着きを取り戻せずに居た。
渡したのは、TEAM魏の中でも最もベースとなる形式の入力データだ。これ一つを変えれば、イコールで全データ、全資料を変えなければいけなくなる。計算式を付加させればいいというものでもないから、作業量は膨大なものになるだろう。
ただでさえ忙しいのに、そんな余計な仕事まで背負い込みたくはない。
とて、新人ではないとは言っても、統括室からTEAMに異動となったのだ。業務内容一つ取っても、天と地ほどの差があるに違いない。まずは慣れるのが先決だ。
かちゃかちゃと、決して早いとは言い難いキーの音が聞こえる。
夏侯惇は頬杖を突き、その音に苛々と髪をかきむしった。
「……おい」
声を掛けると、は椅子を回転させてくりっとこちらを振り返る。
名前も呼ばないのによくわかるなと感心しつつ、手招きして呼び寄せた。
「……お前が今言った奴。やれば、ここの資料全部を変えなくてはならなくなるぞ。それは膨大な量になる。それに、変えるからには出来うる限り短時間で変えなくてはならん。お前、できるのか?」
「でも、単純作業ですから」
「……他の仕事をやりながら、だぞ。俺は何も、お前にデータベースを改良させる為に異動させた訳ではない」
はただ笑うだけだ。
「やった方がいいんなら、やった方がいいと思いますけど、やらない方がいいんならやらない方がいいと思います」
どちらでもいい、とは言っている。
変えれば、幾ら便利だといっても違和感に喚く奴も出るだろうし、自分の作業に影響が出ると苦情を申し立ててくる奴も出るだろう。
結果的には、プラスになるとしても、だ。
「……ならば」
夏侯惇はちらりと横目でを睨めつける。
「……やれ」
「あーい」
は、来た時と同じ顔でデスクに帰っていく。
当分は残業を免れなくなったというのに、気楽なものだ。
それでも、何故か口元に笑みが浮かぶのを夏侯惇は止められなかった。
「」
「あい?」
がくりっと振り返る。
「昼飯、一緒に食うか。ついでに仕事の内容の打ち合わせをしたい」
珍しく即答せず、何故か電話を掛けていいかと問うてくる。
面食らった夏侯惇が許可を出すと、二つ折りの携帯を広げて耳に当てた。
「……あ、先輩デスか? ッス。あのぅ、お昼なんですけど、仕事はいっちゃったんでまた今度とかでもいいデスか?」
何処かで聞いた名前に、夏侯惇は記憶を手繰る。
と、目の前にが立ち、携帯を差し出してくる。
「先輩が、部長に代わって下さいって」
訳がわからぬながらも受け取ると、耳に当てる。
『……お久し振りです、夏侯惇部長』
うふふふふ、と地の底から這い上がるような笑い声は、忘れようとしても忘れられないものだった。
『、私が手塩に掛けて育ててた途中で横取りして下さって有難うございますぅ〜。この件に関しては、また改めてじっくりとご弁明していただきたいと存じますから、覚悟しておいて下さいねっ! きゃっ! ……それじゃ、に戻して下さい』
夏侯惇の様子を訝しみつつ、携帯を返されたは二言三言話して携帯を切った。
「……お前、の後輩だったのか」
迂闊だったと呟く夏侯惇の目は、どこか遠くを見ている。
何があったのかわからぬまま、しかし詮索することもなくはにこにこと笑った。
終