食事が済むと、はそのままの格好で再びハイヤーに詰められた。
「あの、着替え……」
「どのみち、まだ仕上がっては居るまい」
 そう言われては、に返す言葉はなかった。
 エステだ食事だと時間こそそれなり経過してはいたが、ホテルのクリーニングサービスにどの程度の時間が掛かるものなのか。利用経験があまりないには、測り難い。
「……あの、結局……何だったんでしょう……」
 エステは満悦、食事は堪能したが、このような接待じみた扱いを受けるいわれはなかった。
 まして、接待しているのは君主曹操ときている。
 分からないにも程があった。
「何だ、夏侯惇から聞いておらなんだか」
 呆れた顔で頬杖を突く曹操に、は首を横に振るしかできない。
 夏侯惇が曹操に何を相談したかは知らないが、と言うことは、夏侯惇にさえの気持ちが漏れ伝わっているということだろうか。
 気付いた瞬間、顔から火が吹きそうになった。
「……元譲ならば、何も知らんぞ」
「は?」
「あれが儂に持ち掛けたは、夏侯淵の様子がおかしい故、何とかならんかという一点のみだ」
 話が更に読めなくなった。
「……えっと……それは、どういう……」
 恐る恐る切り出すと、曹操は片頬を引き上げてにやりと笑った。
 正直、怖い。
「お前が分かっているのであれば、問題ない」
「いえ、あの、私が何を分かっていると仰っているのか、そこからしてもう……」
 曹操の顔から笑みが消えた。
 怖い。
 結局、何をしていても怖くなるんじゃなかろうかと思い始めた時、車が見慣れた所で止まった。
 K.A.N社屋の正面玄関前だ。
 毎朝ここを通ってTEAMのフロアに向かう場所であり、夜独特の異質な空気はあったが、間違いようがない。
「え?」
 理解できていないを余所に、曹操はさっさと車を降りた。
 訳が分からないながら、も続いて車を降りる。
「お前は、タイムカードを押して居らぬだろう」
 そう言えばそうだった。
 ゲートを通る際、社員証を読み込ませるシステムだったから、が会社に居ないのはパソコンで調べればすぐに分かる。
 だが、タイムカードを押さない限り、帰宅した扱いにはならないのだ。
 タイムカードの名称は便宜上で、専用のカードリーダーに社員証を通すシステムなのだが、とにかくその処理をしなければ帰宅したことにならない。
 直帰の場合、直属の上司(の場合は夏侯淵だ)に連絡して、退社処理を代行してもらう。
 けれど、今回の場合、通常の営業時間を連絡なしに大きくオーバーしてしまっている。TEAM魏における『終業時間厳守』のルールを鑑みれば、夏侯淵が未だ会社に残ってくれている可能性は、限りなくゼロに近い。
 であれば、が自分で退社の記録処理をしておかなくてはならなかった。
 忘れる者も居ないではないが、その場合、総務の司馬懿に延々と嫌みを言われ続けるという苦行がおまけに付いてくる。
 これは、営業職に就いている者にとっては、相当厳しいロスに該当する。
 何しろ、司馬懿は怒ると話が長い上に要領を得ず、一人であちらの世界に行って遂に返ってこないことも多いのだ。
 ちら、と曹操を盗み見る。
 素知らぬ風な曹操に、連絡してくれなかったんですかと訪ねる勇気はない。
 を連れ出したのは曹操なのだし、元々ホテルに寄る予定で居たのなら連絡してくれてもいいのではないかとも思うのだが、そこまで至れり尽くせりしてもらえると考える方が甘いだろう。
「……あ、でしたら曹操様はどうぞここで……後は私一人で」
「社員証を持っているのか」
 思考が止まる。
「……持ってません」
 社員証どころか、携帯も財布も定期もない。
 ドレスに着替えさせられた際に、手持ちの荷物は全部持って行かれていた。
「ならば、儂が先に帰ってはお前が困ろう」
 それは困る。
 だがしかし、恐らく曹操自身もうっかりしていたに違いない。
 恐らくとしつつも絶対の自信を以て断言できるの視線を、わざとか無意識か分からなかったが、曹操はついっと避けた。
 路傍の石とも認識されていないに違いないと思ってしまう、完璧なまでの無視の仕方だ。
 曹操が歩き出し、は追従する形で社屋に入った。

 フロアに戻ると、夏侯淵が居た。
 以前言い争った時と同じに、フロアの灯りがすべて落とされる中、夏侯淵の居る場所のみが一際明るい。
 故に、目立つ。
 気のせいでなければ、酷く焦れた顔だった。
「…………?」
 気配に気付いたらしい夏侯淵が、の名を呼んだ。
 その声にもやはり、隠しようのない苛立ちが滲んでいる。
「部長、残ってらしたんですか!?」
 疾っくに帰っているものと思い込んでいただけに、暗闇に浮かぶ夏侯淵の姿はを驚愕させた。
 のその様が、夏侯淵を煽ってしまったようだ。夏侯淵にしては珍しく、怒気も露に乱雑に椅子を蹴る。
 怒鳴られる、とが無意識に首を竦めた瞬間だった。
「妙才」
「とっ、……殿!?」
 吐き出そうとした言葉を飲み込んだせいか、夏侯淵の声が引っ繰り返る。
 周囲が明るいせいで、夏侯淵からはの背後に居た曹操の姿が見えなかったようだ。
 途端、夏侯淵の表情から怒りの色が消え失せ、代わりにばつの悪さが一気に広がっていく。
 怒鳴られなかったことには安堵したが、同時に不安にもなる。
 君主に連れられてとは言え、帰社報告さえ入れずにこんな時間まで連絡が付かなかった部下を、叱らない夏侯淵ではない筈だ。曹操が相手としても、言うべきことはきちっと言うのが夏侯淵という男だからだ。
 それを、苦いものでも飲み込んだような顔をして、言いたいことも言わずに無言で奥歯を噛み締めている。
 らしくないにも程があった。
「妙才。を、儂にくれ」
 一人うろたえるを余所に、曹操はとんでもないことを言い出す。
 本当に、今日はいったい何なのだろう。
 目の前で立て続けに起きる不測の事態に、の頭は完全に置いてけぼりを食らって強制終了をし掛けていた。
 夏侯淵も、曹操の言葉に唖然としている。
 そして、『らしくなさ』はの期待を裏切り、尚も続行された。
「……そりゃあ、殿がお好きになさるべきことでしょう。俺には、口出しできることじゃあない」
 頭を殴り付けられるような衝撃とは、きっとこういうことだ。
 一気に血の気が引く音を、は幻でなく確かに聞いた。
 目の前が、真っ暗になる。
 貧血を起こして倒れなかったのは、辛うじて残されていたプライドのお陰かもしれない。
 しばらくの間、誰も口を開かずにいた。
 そうして、沈黙の支配する空間を打ち破ったのは、やはり沈黙の原因たる曹操だった。
「妙才。何故、お前が関係ないと言える」
 弾かれるように、夏侯淵はデスクを殴り付けた。
 大きな音がしたが、息を飲んだのはだけで、曹操はぴくりともせず夏侯淵を見詰めている。
 音の併せ持つ衝撃に、むしろ夏侯淵自身が打ちのめされているようにも見えた。
 ぐったりとした面持ちで、夏侯淵は乱雑に頭を掻く。
「……関係ないでしょう、俺には。が、自分で決めるこってす」
 その一言は、の胸にぐっさりと突き刺さった。
――関係ないって……。
 気が遠くなりそうになったり、涙が干上がったりしたかと思えば、今度はどす黒い熱が一気に噴き出しそうだ。
 忙しない感情の渦を、けれど、曹操は元より夏侯淵にすら叩き付けたいとは思えない。
 むしろ、このまま孤独に穴にすっぽり落ち込んで、頭から埋もれてしまいたい、というのが、今のの正直な気持ちだった。
「……妙才」
 ろくでもない熱に浮足立っている二人とは裏腹に、曹操はまったく別の場所に取り残されたような、酷く冷めた表情をしている。
は、お前の部下であろう。その人事に、『関係ない』はあるまい」
 ぽかん、と、実に間抜けな音が聞こえたような錯覚を覚える。
 あるいは、夏侯淵の顎が外れ掛かった音だったのかもしれない。
 これもまた本当に珍しく、夏侯淵が素の顔を晒していた。
 豪胆で、あの張郃の奇行にすら滅多に驚愕しない夏侯淵が、本気中の本気で真っ白に燃え尽きている。
 もまた、本日何度目になるか知れない驚愕に固まった。
 まさか、人事の話だとは思わないではないか。
「秘書が一人、辞したのでな。『これ』で良いから、回せと言ったつもりだったのだが……妙才」
「う、うっス」
 落ち着かなげな視線を彷徨わせている夏侯淵は、主の姿を見失ったムク犬そっくりだ。
 うろうろとあちらこちらに目を向けていたが、その一端がに合わさった途端、勢い良く逸らす。
 明後日の方向を向いた顔のラインが、一気にかぁっと赤くなった。
 釣られて、も赤くなる。
 曹操一人が、盛大に呆れていた。
「……常のお前であれば、そのように先走りはすまい。元譲の言う通り、最近のお前はらしくもない」
「惇兄が?」
 浮き立っていた夏侯淵の表情が、夢から覚めたかのように一転した。
 夏侯淵は夏侯惇と親族関係にあると聞いているが、その関係はの想像も付かない程、深く固いのかもしれない。
 同じく親族関係にあり、そのトップに位置する曹操は、それ以上に協力な人心掌握術を備えているのだろう。夏侯淵が平静に戻ったと見るや、堰を切ったように一気に畳み掛けた。
「あの元譲ですら、お前の異常を察している。お前は、己がどうすべきか、もう覚っているのだろう。ならば、早々にけりを付け、早々に常のお前に戻れ。良いな」
「いや、あの、殿。いつもの俺にと言われましても……」
 不意に、の背中がぐんと押される。
 しゃちほこ状に背を逸らした体勢で押し出されたは、危うく転倒し掛けたところを夏侯淵に助けられた。抱えられ、礼を言うより早く曹操の追撃が襲う。
「ホテルに、それの荷物が置いてある」
 指すら差されず、『それ』呼ばわりされたの目が丸くなる。
「お前が付き添って、取りに行ってやれ。フロントには、お前が出向けば通じるようになって居る」
「あの」
 言うだけ言って背を向けた曹操に、夏侯淵との声が重なった。
 曹操は足を止めたが、向けたのは視線のみだ。
「儂に、共に付き添え、居残れとてか」
 剣呑な声音に、だけでなく夏侯淵も返す言葉がない。
 応えがないのを三秒の間確認し、曹操は再び歩き出す。
 それこそ、フロアを出るまで振り返りもしない。
 否、帰宅するまで歩みも止めないに違いない。
 曹操にとっては、これで『仕舞い』の事項なのだ。
 ここで仕舞いにすることが出来なくなった二人は、どちらからともなく視線を交わした。
「……どう、する」
 喉奥に何か引っ掛かっているような夏侯淵の問いに、は半泣きで答える。
「……すみません……お財布も携帯も、ないんです……」
 ひたすら夏侯淵に申し訳ない。
 一人で行けるからと大見得切りたくとも、一人ではどうにもならないようセッティングされてしまった訳で、本気で顔も上げられない。
 曹操がそうしたと言うのであれば、逆に夏侯淵なしでは話が通じないようにされているに決まっている。付き添ってもらうより他に、荷物を取り戻す方法はなさそうだった。
 仮に、小金を借りてこの場を凌いだとしても、携帯と社員証なしには日常業務に差し障りが出てしまうだろう。容易く再発行が出来るものではないのだ。
 挙句、再発行手続きには司馬懿の説教地獄がセットに加わる。退社記録のうっかりミスなど比するべくもない、正に地獄を形容するに相応しい厭味と毒舌に責め抜かれる次第だ。
 そして、この説教地獄はお目付け役たる上司も巻き込まれる。
 だからこそ、に選択の余地は残されていなかった。
 しょげるの前髪を、夏侯淵の溜息が盛大に揺らす。
「いいって。お前も俺も、殿に嵌められたみたいなもんだしなぁ……殿の奇計に掛かっちゃ、俺達なんざ赤子の手を捻るようなもんよ」
 頭をがしがし撫でられる。
 いつもの夏侯淵だ。
 けれど、いつもの夏侯淵に限りなく近いように振舞っているのが、何故だか分かってしまう。
 好きになるって、何でこんなに大変なんだろう。
 は、無性に泣きたくなるのを必死に堪えていた。

  終

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