夏侯淵は一人、書類とパソコンに向かっていた。
フロア全体の照明は落とされ、夏侯淵の座す一角のみが煌々と照らされている。
スポットライトに照らされているようなその姿は、正しく舞台の様相を醸していた。
止まっていた夏侯淵が、不意に顔を上げる。
視線の先は暗闇だ。
灯りに慣らしてしまった目で、何を捉えられよう筈もない。
だが、夏侯淵は闇の中に、確実にある気配を見取っていた。
「どーした。まだ、帰んねーのか」
帰ってなかったのか、ではなく、帰らないのかと夏侯淵は訊ねた。
苦笑いが口の端に滲む。
そして、は遂に舞台に上がる決意を固めた。
スポットライトの中に、ずいと足を踏み入れる。
聖域を穢すような心境に陥る。が、ここで怯んでいてはお話にならない。
二歩、三歩と前に進み、夏侯淵のテリトリーを犯す。
夏侯淵が相手をせざるを得ないように、本心を引き出す為に、はありったけの勇気を振り絞らなくてはならなかった。
例えそれが蛮勇であろうと、はしなければならない。
膝が細かに震えているのに気が付けない程、は緊張していた。
「……何だよ。何か、忘れ物でもしたか」
顔も向けず、夏侯淵は忙しく指を閃かせる。
太い、ごつい指には似つかわしくない、軽やかなキータッチだ。
うっかりすれば、聞き流してしまいそうな、それは明らかな変化だった。
常の、本来の夏侯淵だったら、こんな風ではなかった筈だ。
まず、の震えを見逃すことはない。
の顔が、強張っていることに気が付かぬ筈はない。
疑問を感じ、を案じ、必ずその理由を追及してくる筈だ。
好きになってしまったら、好きになったと気付かれてしまったら、何もなかったことには絶対に出来ない。それを出来ると思ってしまう、ひょっとしたら心の底から信じ切って行動に移している夏侯淵は、の言う通り『屑』なのかもしれない。
事なかれ主義と同義だ。
なまじ能力が高いだけに、誰も『不幸』にしないように『配置』する夏侯淵の能力は凄まじいとは思うが、そも根本的に間違っている。
夏侯淵が作ろうとしてるのは、誰も不幸だと気付かない不幸だ。
そんなものを、は望まない。
「夏侯淵部長が、好きです」
想いは言葉となって、声に転じていた。
夏侯淵の指が一瞬止まり、けれどすぐに忙しく動き出す。
「貴方が、好きです」
今度は、止まらなかった。だが、その音は酷く乱雑で、耳触りの良くないテンポを刻む。
すぐに乱れて止まってしまった。
夏侯淵が、書類をデスクに弾き飛ばす。
端ぎりぎりのところで止まった書類を見遣って、夏侯淵は深々と溜息を吐いた。
「……お前は俺に、何をさせたいってんだ?」
不貞腐れながらも、おどけた口調が見え隠れしている。
未だ、余裕がある。
夏侯淵と会話しながら、は不思議に頭が冷えていくのを感じていた。
同時に、胸の奥が熱く凝っていくのを感じる。
不思議な感覚だった。
目の前に居るこの男が好きだ、と思うのと同じくらい、目の前に居るこの男を追い詰めたい、滅茶苦茶にしてやりたい、苦しめてやりたいと思ってしまう。
「答えを、出して下さい」
戸惑うこともなく、は夏侯淵に求めた。
「好きでも嫌いでもいいんです。答えを下さい」
させたいことというなら、それ以外にはなかった。
夏侯淵は大袈裟に頭を掻き、顔を上げる。
表情が少し険しくなっていることに、は自分でも不思議なくらい興奮していた。
「その、答えって奴を出して、どうなるってんだ」
「出さなくちゃ、分かりません」
馬鹿なことを言う、と可笑しくなってしまう。
答えがどんなものであれ、出されなければは反応できない。
未知の感情が如何な変化を遂げるのかは、夏侯淵が実際に行動してからでなければ分かりようもなかった。
夏侯淵は唸り声を上げる。
「……ありゃあ、嘘か。俺みたいな営業出来るようになりますって俺に啖呵切ったんは、ただの冗談だったってか」
「なりますよ。嘘じゃ、ありません」
本当に可笑しくなってきて、は口元に柔らかい笑みを漏らす。
話している内容が内容でなければ、誰が見ても単なる雑談だっただろう。
「そんなら、出せねぇな」
夏侯淵は、つっけんどんに吐き捨てた。
「出してくれなきゃ、私はなれません」
は淡々と、はっきりと言い切った。
「夏侯淵部長に答えをもらえなかったら、私は足場固められないんです。今のまんまじゃ足首まで沈んだみたいになって、前に進めないんです」
だから答えが欲しい。
穏やかに囁くに、夏侯淵の顔は険しいままだ。
「……出して、どーなるってんだよ。うっかり揉めでもして、お前がここ出てく羽目にでもなったらどうするつもりだ」
「出ていくつもりはありません。でも、出ることになったら、それはそれで仕方がないと思います」
こだわるべきは、場所ではない。あくまで成長を止めない己であると、は覚ったのだ。
「俺は、お前に期待してんだぜ」
「有り難うございます」
礼の言葉は、心の底から素直に出た。
それで、夏侯淵は遂に諦めたようだった。
「どうも、こうも。俺がお前に望んでるなぁ、出来のいい部下になって欲しいって、それだけのこった」
「駄目って、ことですね? 私、受け入れてもらえないってことなんですね?」
は、自分の声が震えているのを自覚する。
情けないことだと思うが、これが精一杯だった。
夏侯淵が、不意に頭を掻きむしる。
あまりの激しさに、思い詰めていたも思わず呆気に取られてしまった。
しばらくして、夏侯淵は息を荒げながら手を止める。
肩で息をしている。
ただ見ているしか出来ないに、夏侯淵はぼさぼさに乱れた髪もそのままに向き直った。
「お前、それ、わがままだと思わねぇのかよ」
「……部長だって、わがままだと思います」
が自分の想いを貫こうとしているのがわがままだと言うなら、夏侯淵もまた、自身の環境を変えたくないというわがままを貫こうとしていると言える。
どちらもわがままで、相容れないというなら、どちらかが突き通しどちらかが譲るより他ない。
「私が残るか残らないか、正直今はどうとも言えません。でも、こんな宙ぶらりんな状態で居るなら、私、ここを出ます……出なくちゃ、駄目だと思います」
元より、仕事の出来ない者は残れない、社内でも最も厳しいTEAMである。
今のが残っていい道理はないし、の誇りが許さない。
「だから……俺が穴埋めしてやってる間に、さっさと立ち直れってんだよ」
「部長がそんなことしてたら、いつまで経ったって立ち直れませんよ、私」
結論が欲しいのだ。
結論を出して、前に進みたかった。
「だから、それがわがままだってんだろが……お前、人の話聞いてんのかよ、ホントに」
「だから、部長もわがままだって言ってるんです。好きでも嫌いでも構いません。答えを下さい。考えられないから駄目とか、待ってろとか、そんなんでいいんです。答えを、下さい」
わがままだと言われれば、確かにそうかもしれない。
それでもいいから、答えが欲しい。
人の気持ちを、宙に浮かせた状態でいつの間にか風化させるような、そんな惨いことはして欲しくなかった。
夏侯淵が幾らそれを望んでいようと、にとってはそれだけは嫌なのだ。
平行線を保ったまま、交わることがない。
沈黙が落ちた。
夏侯淵に譲る気はなかろうが、とて譲ろうなどとは更々考えられない。
いつもであれば自分を諫めるだろうに、本当に不思議だ。
恋というにはやや単純かもしれない。
あるいは、夏侯淵を『屑』にしたくないというの『わがまま』なのか。
夏侯淵が、小さく舌打ちした。
「……んーなこと言われたって、考えらんねぇよ」
「じゃあ……駄目、てことですね」
静かに幕を引き掛けたを制止したのは、他ならぬ夏侯淵だった。
「勝手に決めんなって!」
天を仰いで嘆息する夏侯淵に、も焦れる。
延々とループする会話は、生煮えにされているのと変わらない。
互いに互いを傷付けるのに、一向に致命傷が与えられない、終わりのない苦痛に気が遠くなりそうだった。
けれど、そんな思いは夏侯淵も同じように感じていたらしい。
「試すか」
何をだ。
降って沸いたような唐突な言葉に、は黙り込む。
夏侯淵の表情が苦く歪む。
「……俺はな、こう見えて、女を好きになったことがねぇんだ」
「はぁ!?」
思い掛けない告白だった。
夏侯淵から恋ばななど聞いたことはなかったが、まさか恋愛経験ゼロだとは思いも寄らない。
「気になる女が居なかったって訳じゃねぇぞ。でもなぁ、通りすがりに、『おっいい女』なんつって振り返ったとか、んなもんまで数に入れちまったらキリがねぇだろ?」
「……はぁ。っていうか、誰かと付き合ったことがないってことですか?」
夏侯淵が頷くのを、はぼんやり見届ける。
信じられなかった。
でさえ、何度か付き合ったことがあるというのに、正に青天の霹靂だ。
「いいか?」
何をですか、と聞き返しそうになって、慌てて口を噤む。
試す、と夏侯淵は言った。
そして今、夏侯淵の顔が近付きつつある。
何となく察せられるものがあって、は目を閉じた。
心臓がばくばく言っているが、思った程には緊張していない。女性と付き合ったことがないという夏侯淵が、意外にウブで可愛らしく思えた。
「……んっ」
唇が触れ、はぎょっとして目を開けそうになる。
噛み締めた歯列に夏侯淵の舌が押し付けられ、絶妙な強さでまさぐるのを、ただ為されるがままに受け止めていた。
あれ、あれ、と焦っている内に、夏侯淵が離れ、はほっと息を吐く。
けれども、実は終ってはいなかった。
「おい、口開けろ」
夏侯淵が無表情に呟くのを、訊き返そうとしての口が開く。
間髪入れずに夏侯淵が乗り出し、合わせた唇から舌が侵入した。
「……っ…………っ、……!」
声にならない声が鼻から抜けていく。
夏侯淵の舌は自在にを翻弄し、苛め、煽る。
女性と付き合ったことがなかったのではなかったか。
の混乱は次第に白に溶けて埋没し、体の中の熱が脳の中枢を焼いて何も考えられなくなる。
足に力が入らなくなって、もたもたと腿の内側を擦り付けて耐えるが、とうとう腰から崩れてちょうど良く夏侯淵の椅子に座り込む形になった。
「……ん、成程なぁ。きっちり勃つもんだ」
俯き加減になったの間近に、夏侯淵の股間が在る。
スラックスを押し上げて盛り上がるそれに、は生唾を呑み込んだ。
「」
「は、はい」
何やらぶつぶつと一人言を言っていた夏侯淵は、不意にを振り返る。
期待している自分が恥ずかしくなりながらも、は夏侯淵と視線を合わせた。
「じゃ、帰っか」
がくん、と肩が落ちた。
夏侯淵は気付かなげにデスクの上を片し、パソコンを落としている。
会社で、しかもデスクで事に及ぶ訳がない。
実に当たり前のことに、は我に返って不埒な妄想を仕掛けた自分を諌めた。
「」
「は、はい」
ひょい、と視線が高くなる。
「か、か、夏侯淵部長!?」
「ん?」
夏侯淵に抱きかかえられ、はパニックに陥る。
「腰、抜けてんだろ?」
「そっ……それは、そうですけど……!」
だからと言って、これはない。
嬉しいような気もするが、本気でこれはないと思った。
スポットライトから退場する二人の姿は、ある意味教会の新郎新婦と重なって見えなくもなかったが、現状はまるで違うことをはしっかり自覚している。
決死の覚悟で登った舞台から、喜劇的なオチで降りる羽目になってしまった。
観客がいたら、投げ込むのは怒声かそれともアンコールの声か。
舞台となったデスクのスポットライトは、らの退場に合わせてぱちんと消えた。
終