コーヒーの染みの付いたスーツは下着ごとクリーニングに出され、柔らかいシルク地のドレスを身に纏っている。
 時間は既に、星の瞬く頃合いだった。
 服を脱いでドレスを着ただけで、これだけ時間が経ってしまった訳では勿論ない。
 移動にやたらと時間が掛かった、という訳でもない。
 ハイヤーに押し込まれた後、は都心の某ホテルの一室に連れて来られた。
 良からぬ妄想にざっと青ざめるのも束の間、室内で待機していた女性スタッフに引き渡され、気付けば曹操はどこかへ姿を消している。
 服を脱がされた時は、さすがに悲鳴を上げるべきかと思ったが、出来なかった。
 恥の概念が先行したのだ。
 結果的にはそれが正しかった。女性スタッフは痴女でなく、エステティシャンだったからだ
 何故か念入りにエステを受け、不本意ながら身も心も蕩ける極楽気分を味わわされ、ふわふわした心持ちの間に着せられていたのが絹のドレスという訳だ。
 首に金属のひやっとした感触があるまで、恥ずかしながら放心状態だったは、己の現状にまったく気付いていなかった。
 否、気付いてはいたものの、認識できていなかったというのが正しいかもしれない。
 我に返ったが、まず最初に見たものは自分が映った姿見の鏡であり、次いで思ったことはと言えば、『スカート短っ!』であったのだ。
 は、鳩胸のせいもあり胸の辺りでやや布地の面積を取ってしまう。ただでさえ短めのスカートが、かなり短く見えていた。
「如何でしょうか?」
 メイクから着付けを担当してくれたスタッフも、少々気懸かりなのか、姿見の中のと現実のを見比べている。
「……いやあの……」
 スカート短い、と言い掛けたの声を、別の年配のスタッフが打ち消す。
「あら、貴女。いいのよ、曹操様が直々に、こちらを、と御指定ですから」
 ねぇ、と話を振られても、何と答えていいか分からない。
 とにかく、に選択権は与えられてないことが判明しただけだ。どれだけスカート丈が短かいとて、曹操の選んだドレスを嫌だとは言えない。
 ご丁寧に用意されていたパンプスを履き、案内されるままにふかふかの絨毯を踏み締めた。

 結構な距離を歩かされた後、は最上階のレストラン、更にその奥の個室に通された。
 広い室内の中央に取り残されたように置かれたテーブルの向こうには、巨大な板ガラス越しに煌びやかなネオンが、それこそ砂金を散らしたように瞬いている。
 曹操は、一人テーブルに着いて外の景色を眺めていたようだが、の到着と同時に席を立った。
「あのっ……」
 焦るを無視するかのように隣に立つと、慣れた手付きで腰に手を回す。
 拒否することも出来ず、はぎくしゃくしながら曹操の先導に従った。
「……そう、固くなるな」
 曹操に引いてもらった椅子に腰掛けた途端、剥き出しの肩を鷲掴みにされる。
 その場で飛び上がりそうになるのを軽く押さえ込まれ、予想外に温かい手がぐにぐにと肩の筋肉を解していった。
「……ふわっ……」
 鼻から妙な声が漏れ、は思わず両手で口を押さえる。
 塗られたグロスが手のひらに移り、独特の感触に二重の意味で眉を顰めた。
 背後から曹操の指が伸びて来て、の顎を捕らえるとくいっと上向かせる。
「問題ない」
 グロスの具合を確認すると、曹操はテーブルの紙ナプキンを取り、に渡す。
 自分の席に戻る曹操を赤面して見送り、気を落ち着かせる為に手に付いたグロスをごしごし擦る振りをする。
 こっそり深呼吸を繰り返し、無理矢理平静を取り戻した。
「あの……わ、私にこんな、その……曹操様、今、付き合ってらっしゃる方は……」
 三高(身長についてはやや怪しい)の遥か上を行く曹操は、常に女性の影が付き纏う。
 誰と付き合って居るかまではの埒外だが、その人に悪いような気がした。
「別れた」
 取り戻した平静が、最高速度を維持したステルス機のように音速で逃げ去った。
「……えっ……ど、どうして……」
 しまったとは思うものの、勢いで零れた言葉は取り戻せない。
 しかし、曹操は酷くあっさり答えてくれた。
「会社でセックスがしたいから、仕事を辞めたくないと言われてな」
 曹操としてはどうでもいいことなのだろうが、は絶句してしまった。
 ありとあらゆる意味で想定外であり、言語道断である。
 わなわなと震えているに、曹操は口の端を歪めて笑った。
 またも我に返り、は顔を真っ赤にして俯く。
「申し訳、ありません」
 何に謝っているのかも、よく分からない。
 膝の上で短いドレスの裾を握り込むに、曹操は声もなく笑い続けた。
「良い。お前が正しかろう」
 曹操がテーブルをコツコツと小さく叩くと、どこに控えていたのかウェイターがやって来た。
 の前に、カラフルな野菜のマリネと薄造りの魚の切り身を添えた前菜が並べられ、曹操の前にも同じものが置かれる。
 細身のグラスには薄い金色のシャンパンが注がれ、細かな泡が立っては浮いて弾けた。
 なし崩しに食事が始まり、も曹操に倣ってナイフとフォークを手にする。
 無言とあって、他に何をすることもなく、皿はあっという間に空になった。
 フォークを置いてしばらくすると、スープが出された。コンソメのジュレの下にムースが仕込まれている。濃厚なムースをあっさりとしたジュレが程良く中和した。
 それが終わると、今度は彩鮮やかなブロック状のものが出て来る。何かと思いつつ一口食べてみると、ほんのり甘い塩気が口に広がった。蟹の身を解したものを、野菜のパテと一緒に食べられるようにブロック状に象ってあるのだ。上に飾られたキャビアのねっとりとした食感が、出しゃばることなく蟹の旨味と相まって、絶妙な幸福感を引き出してくれる。
 ここで、グラニテが出た。何のグラニテか、残念ながらには分からなかったのだが、薄い金色の氷を舌に乗せると、それだけで口の中がさっぱりする。
 披露宴で出されるような、本格的なコースらしい。
 どれも美味で、食べ歩くことを趣味にしているは、自然に頬を緩ませていた。
 立て続けに料理が出されていたが、ここで少し間が空いた。
「何故別れた、と訊いたな」
「は?」
 料理を堪能するあまり、ほんの少し前に自分が発した言葉すら忘れ切っていた。
 慌てて姿勢を正すに対し、曹操は逆に寛いだ風に足を組む。
「一言で言って、飽きた」
「……あきた……」
 曹操らしいと言えば曹操らしいのかもしれないが、酷く薄情なような気もする。
 困ったように首を捻るに、曹操はくつくつと笑う。
「恋情は、職務ではない。職務と混濁させて良いものでもない。分かるか」
「……何となく……ですが……」
 それで良いと、曹操は頷いた。
「その辺りの分別が付かぬ女だった。儂の手に余る。余って尚、抱きたい女ではなかった。そういうことだ」
「はぁ……それは……」
 話を総合するに、曹操配下であり、ということはTEAM魏の人間であり、仕事をしていても自分の感情がまったく抑えられないような女性だったのだろう。
 意味もなく、もしと同じ課の人間だったらと考えたら、ぞっとした。
 どう取り繕ってみても、仕事にならない。
 現在進行形で夏侯淵に恋をしている立場のが言っていいことではないかもしれないが、そもそも仕事に影響する恋愛自体に抵抗があるから、想像だけでも拒絶反応が出た。
「……女らしいって、思う人もいるかもしれませんけど……私は、駄目ですね」
 受け入れられなかった。
 曹操が笑いながら頷く。
「何に付け、行き過ぎは良くないと言うことだ。儂もそう思う。その点、夏侯淵は真逆と言えよう」
「は?」
 突然夏侯淵の名が出されるに及び、は素に戻って素っ頓狂な声を上げてしまった。
 慌てて口を抑え掛けて、また慌てて引き剥がす。
 ぎりぎりで留まった筈の手のひらに、薄らと艶やかな脂が光を弾いているのが見えた。
「分かるか?」
 そも、何と比較しているのか量り辛い。
 曹操とか?
 それとも、曹操が付き合っていたと言う、女とだろうか。
「儂ではない」
 不安げな顔で窺ったせいか、曹操は他愛なくの迷いに答えを与えた。
――そのひとと、真逆。
 当たり前と言えばそれまでだが、曹操の言葉には含みがあるように感じられる。
 何とはなしに、昼間デスクで作成していた資料を思い出していた。
 比較をする際には、当然比較に値する対象同士でなければならないと思う。
 例えば、老年の男性と幼年の女子の生活を比較することに、大した意義は見い出せない。比較する条件が違い過ぎるからだ。
 曹操の女と、夏侯淵を比較するのも同じと言えないか。
 比較する為に、両者に共通する項目がなくてはならないとしたら、それは何か。
 話の流れとしては、恋情、だろうか。
 しかし、恋情だけで比較するとしても、共通項目としては未だ弱い気がする。
 仕事に対する取り組み方か。
 だが、恋情と混ぜて考えるべきでないと、先程曹操から言われたばかりだ。
 あるいは、混ぜて云々に限っては、比較に関することではないのだろうか。
 聞き流せば『そうですね』で流せる話なだけに、曹操の謎掛けは、却って深淵のように意味深に思えてならない。
「……夏侯淵部長も、行き過ぎてる、とか……」
 当たり障りのない言葉、根拠も自信もない取り繕うような言葉は、曹操が嫌う類のものだった。
 だが、どうしても思い付かない。
 お叱りでも何でも甘んじて頂戴して、とにかく話を先に進めた方がマシ、というところまで追い詰められていた。
 恐る恐る呟いた言葉に、曹操の手がすぅっと上がる。
 考えるより先に、首が縮こまっていた。
 ぱちぱち、と、乾いた音が響く。
 あれ、と顔を上げたの前で、無表情に拍手する曹操の姿があった。
 どっと脂汗が滲む。
 絶対に、感心してのことではないような気がする。
 取り返しようがない『やっちまった』感が、の腹の底を冷たく重く凍えさせていった。
「……珍しく元譲に相談されてみれば、何のことはない。分かって居るではないか」
 褒めているようにも聞こえるが、褒めてないようにも聞こえる。
 どっち、と考えても、答えは出なかった。
 うむうむ、と一人で勝手に納得している風な曹操に、は掛ける言葉が何もない。
 あるにはあるが、凍えた腹がの声帯をも縮こめて、ただの一音すら発声するを許さないような有様だった。やむなく、敢えて手を着けずに居たシャンパングラスを一気に煽り、強制フリーズ解除を試みる。
「……あのっ!」
 試みが成功したかと思われたら、今度は閉ざされていたドアが大きく開かれた。
「本日の、メインディッシュでございます」
 大きなワゴンをウェイターがいそいそと押して来る後ろから、太目のシェフが胸を張って意気揚々と現れた。
「これはこれは曹操様、いつも御贔屓に預かりまして」
「うむ、お前の料理が楽しみで、つい足を向けてしまうのだ」
 朗らかな曹操の表情に、は目を丸く見張る。
 シェフはシェフで、曹操の言葉を聞いた瞬間大きく息を飲み、何と目に一杯の涙を溜めた。
「……感無量、感無量でございます、曹操様……!!」
 ウェイターも深々とお辞儀をして、曹操の言葉に頬を紅潮させている(ように見えた)。
「これは、失礼をばいたしました」
 涙を胸元のハンカチで拭ったシェフは、ワゴンを覆っていた大きな銀盆を外すと、その上に置かれた肉の固まりを乗せた皿を恭しく取り出す。
 まず曹操に見せ、無言の許可を頂くと、今度はに『いい笑顔』を向けながら、見せびらかすように肉を差し出した。
 どうでもいいんだけど、どうしてそんなポーズ決めながら歩くんだろう、張郃チーフ思い出すじゃないかと考え始めると、けったいな歩行様態を見せているシェフが、どうにも太った張郃にしか見えなくなって来た。
「では!」
 皿が置かれていたのは実は焼けた鉄板だったらしく、シェフが肉の影に置かれていた脂身を放り投げると、鉄板の上に落ちて勢いよく弾け始めた。
「はいやー!」
 ウェイターと、肉の皿と金属製のターナー二本をジャグリングのように投げて交換すると、シェフは脂身相手に挑発ポーズを取る。
 冗談抜きで、その後は本当に脂身相手に戦闘開始したとしか見えない。
 両手で構えたのがターナーでなければ、どうみても敵を前にした太っちょブルース・リーだった。
 掛け声も、の耳がおかしくなったのでなければ『ほぁた』あるいは『チョー』である。
 肉の固まりが投入されてからは、更に『酷い』としか言えなくなってきた。曹操が至極愉しそうなのがもう、絶望的である。
 突然始まってしまった小芝居空間に度肝を抜かれ、また、爆発に近いフランぺに止めを刺され、は曹操との問答を続けるきっかけを見失ってしまった。
 けれども、供された肉は尋常でなく美味かった。
 納得がいかなかった。

  終

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