ここのところ、の元気がない。
 硝子のような目を、何処かに向けているだけにも見える。
 そうしてじっと中空を見ている様は、猫のようでもある。
 何を見ているのだろうと埒もない不安に駆られるのだ。
 曹操曰く、は一度壊れたことがあるのではないかと言っていた。
 壊れて、壊れたことに誰も、本人すらも気が付かないまま成長を続け、見えないものを見てしまうようになったのではないかと。
 だから遠くを見ているように見えるのではないかと。
 それは、生と死の境にある幽玄に住まうも同じこと。
 夏侯惇に言わせれば、曹操とてその幽玄とやらの住人だ。見えぬものを見て、知らぬことを知る、地に足を着け天を仰ぎ見る夏侯惇とはまったく異質のものだ。
 けれど、異質だと自覚が出来るからこそ、夏侯惇は曹操やの価値を素直に見出せたのかもしれない。
 人は異質なものに対し、強烈な憎悪と憧れを併せ持つ。
 嫌悪すると同時に己もまた異質な、特別なものでありたいと固執する。
 意識的であれ無意識的であれ、人は大概その傾向にある。
 夏侯惇は、どちらとも言い難い。
 なりたいとは思わない。
 その代わり、異様に固執する。傍に居たくて、置いておきたくて堪らなくなる。
 曹操は男で、だから隣に居ることを選んだ。
 は女で、だから組み敷くことを選んだ。
 二人とも夏侯惇を自然に受け入れてくれたが、はてそれはどのような心理作用の結果なのか。
 想像しても分からないが、分からないからと言って不便がある訳でもない。
「惇さん」
 身動ぎ一つせず置物然としていたが、突然口を開いた。
「うまいぼーが食べたいデス」
 何を言い出すやら、と目を遣る。
 夏侯惇の視線に合わせ、もくるりと顔を向けて寄越した。
「うまいぼー」
「そんな菓子より、飯を食え」
 昼前に来たの為に、夏侯惇は昼飯を用意した。
 しかし、箸を持ったままぼうっとしているを見かね、昼飯はそのまま冷蔵庫に下げてある。
 食べる時は物凄い量を平らげるくせに、食べない時はまったく食べない。
 どういう体の構造だと叱ったこともあるが、は首を傾げるだけで答えはしなかった。
 霞でも食ってるんだろうかと心配になる。
 仙女にでもなって空に飛び立っていかれたら困るなと、何故だかそんなことを考えた。
 夏侯惇は、窓の外を見遣る。
 今日はいい天気だから、出掛けても良かった。
 時期柄、早い桜はもう開花している頃だろう。
 が乗り気にならないので、なし崩しに自宅で油を売っている。
「惇さんのうまいぼーが食べたいデス」
「……そのネタは、もういい」
 何するでなく油を売るのも嫌なものだが、昼日中から『いかがわしい』行為に耽るにも抵抗がある。
 曹操がからかって、夏侯惇も自前のうまい棒を持っているぞとけしかけてから、は何かにつけて『夏侯惇のうまい棒』を欲しがった。
 菓子などではないと分かってからも、何かにつけて食べたい食べたいと繰り返す。
 本気なのか冗談なのか計りかねて、だから夏侯惇は拒絶する。
 大抵の場合はそれで諦めるのが常なのだが、この日は違った。夏侯惇の傍にてくてく近付いてくると、スラックスのファスナーを下ろそうと手を伸ばしてくる。
 軽く頭を叩いて、窓の外に連れ出した。
 煙ってはいるが、何処までも青空が広がっている。
 高層マンションの最上階だから、眺めは相応に良かった。
「な」
 まだ明るい。
 未だ昼間なのだと確実に二人に知らしめる。
 けれど、は夏侯惇の手をすり抜け、その足元にひざまずいた。
 取り押さえるより早く、布地越しにざらりと舐め上げられる。
 ぞくっとした。
 早くも反応を返す夏侯惇の愚息に、は甘く歯を立てる。
 次第に充血していく肉が、の唇に食まれて形を成していった。
「いいお天気ですね」
 ぎょっとして振り返ると、隣室の奥方がにこにことしてこちらを見ている。
 よくあるマンションの作りと違い、プライバシーの厳守を旨とするベランダの間はやや離れている。
 柵も、夏侯惇の胸の下まである高さで、コンクリの上にアルミの横柵が隙間なく幾何学的に並んでいる。
 夏侯惇が今現在どんな目に遭っているかなど、隣室の奥方が知る由もない。
 ないが、だからと言って落ち着けるものではない。
「……あ、あぁ、そうです、な」
 脂汗を掻きつつ、いつ勘付かれるかと冷や冷やしながら応対する。
 は状況が見えてないのか、夏侯惇のファスナーを下ろして凝った肉を引きずり出してしまった。
 直接咥えられて、呻き声を殺すのにかなりの忍耐を要する。
「どうか、されました?」
「え、う?」
 勘付かれたかと慌てるも、隣室の奥方は至って呑気だ。
「ベランダに出ておられるの、珍しいから……あ、ほら、うちはガーデニングが趣味で、しょっちゅうベランダに出てるんですよ。下手の横好きなんですけど……あら、嫌ね、ごめんなさい。見張ってる訳じゃ、ないんですよ?」
 訊かれてもいないことを、奥方はべらべらと話す。
 この世代の婦人にはありがちなことで、だから特段文句はないが、この状況では勘弁願いたかった。
「し、仕事で……モニタを見ていたもので、目を休めようかと」
 四苦八苦しながら言い訳すると、隣室の奥方はおざなりな褒め言葉と慰めを述べ、にこやかに一礼して戻っていった。
 ほっと溜息を吐いて下を向くと、は未だ夏侯惇の肉へ一心に舌を這わせているところだった。
 幼げな表情と淫猥な肉の色が相反し、妙に背徳的だ。
 明るい日差しが二人の行為を空々しく映し出し、夏侯惇は今一度溜息を吐いた。

 目だけ向けてくるの頭を撫でる。
「寝室に移るぞ」
 最大譲歩だった。
 昼日中、青空の下でどうこうする程、夏侯惇の理性はイカレている訳ではない。
 も場所に拘りがある訳ではないらしく、素直に頷いて立ち上がる。
 何事か考え込んでいたかと思えば、不意に擦り寄ってきた。
「……どうした」
 夏侯惇が訊ねると、は視線を逸らしたままぽつりと呟く。
「ごめんなさい」
「……謝られる理由に心当たりがない」
 は夏侯惇の腰に手を回し、しがみついた。
 見るからにしょげている。こんなは珍しかった。
「どうした」
 重ねて問いつつも、またのことだろうかと察しをつけていた。
 は、あの女のことになると酷く神経を使いナーバスになる。
 腹立たしくもあり、虚しくもなる。縛って、繋いでしまおうかと不穏なことさえ考えてしまう。
 それらの感情が夏侯惇のへの固執の表れであり、己に何かあった時、果たしては同じように反応してくれるのか思い悩み、焦燥する。
 堂々と地を行き己を見失うこともない夏侯惇には、それを確かめる術はない。
 わざと大地に平伏し泥に塗れる醜態は、己の矜持が許さないのだ。
 けれど、そんな夏侯惇の焦燥を、の言葉は極めて簡単に風のように吹き飛ばしてしまう。
「惇さんが嫌がってることしちゃって、でも、嫌われたくないデス」
 嫌われたくない。
 さしたる言葉ではない。
 重ねて使われれば鬱陶しさすら感じる、自己弁護的な言葉だ。
 それをが口にする新鮮さを、他ならぬ夏侯惇が一番よく分かっていた。
 自分の感情を吐露することも、我がままを言うことも少ない娘だ。自我を押し通すことも放棄しているような、押し通す以前にとっとと逃げ出してしまうような、だから捕らえて保護しておきたいと思わせる娘だった。
 には、この俺が必要なのだ。
 唐突にそう思った。
 必要とされていることに、喜びを感じる。
 それは、相手がだからに他ならない。求める相手も求められる相手も、他の誰でもなく互いであるからこそ、純粋に嬉しいのだ。
 夏侯惇はを抱き寄せ、耳元で囁く。
「俺の方こそ、お前に嫌われるやもしれん」
 の腰を抱き、押し付けるようにして教える。
 夏侯惇の肉は今にも弾けそうな程、熱く滾ってを欲していた。
「……いいか?」
 は動じもせずこくりと頷き、夏侯惇に寄り添う。
 それを抱きかかえるようにして寝室に向かう夏侯惇には、隣室の奥方が二人の様子を目を丸くして見ていることなど、気付くことすら出来なかった。

  終

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