は、乳白色の光を見ていた。
 優しい色だ。
 肌に直接温もりを感じる。
 暑くも寒くもない、ちょうどいい暖かさだ。
 幸せだなぁと、意味もなく感じていた。
 ずっとこうしていたいような気もするが、そうもいかないということもよく分かっている。
 今の自分は、目を覚ます直前なのだとは気付いていた。
 平日の出勤前には味わうことの出来ない、休日ならではの蕩けるような至福の時だ。
 どのみち、もうすぐ意識は覚醒するだろう。
 そうなったら、空腹からベッドを抜け出すことになるに違いない。
 休日の遅めのブランチは、営業マンたるの楽しみの一つである。
 であれば、当然メニューは厳選されなければならない。下手な選択で、人生の限られた至福の時間を不意にすることは許されない。
 にしてみれば、そんな些細なことだからこそ、後悔することは耐えられなかったのだ。
 食べ物のことを考えていたせいか、何だかいい匂いがしてきた。
 焼き立てのパンに、バターが溶ける匂いだ。ブランチに最高にふさわしいメニューの一つと言っていいだろう。
 ならば、付け合わせはグリーンサラダにスクランブルエッグ、コーヒーよりは紅茶が気分に添う。
 それにしても、匂い付きの夢とは珍しい。
 極彩色の夢なら見ることもないではないが、食欲をそそるリアルな匂いを感じる夢は少ないのではないだろうか。
 そう言えば、子供の頃に母親の作る朝食の匂いを嗅ぎながら目が覚めたことがある。
 あの場合、匂いの源はあくまで現実のものだった。
 決して匂い付きの夢だと誤認しなかったのは、が未だ子供で、母親と離れて暮らす生活を知らなかったからかもしれない。
 ともあれ、これは匂い付きの夢だ。
 何故なら、は一人暮らしであるし、住んでいるマンションは新しくはないが、さすがに匂いが漏れてくる程には雑な作りはしていない。
 その点、はかなり頑張って部屋探しに励んだ。
 もし問題があるとすれば、そのマンションは今月末で契約が切れるという点だろう。
――それ、まずいじゃない!
 はっとして目を開けると、見慣れない色の天井が目に入る。
 半ばパニックを起こし、跳び起きようとした体は痛みと重さで思うようにはならなかった。
 ついでに、裸のままだ。暖かな布団の中から飛び出た手足が、妙に寒々しい。
 手足を引っ込め、ついでに露わになった胸元を隠すと、視線の先にあるドアが開いた。
「お、起きたか」
 夏侯淵が入ってきた。手には、大きなトレーを持っている。
 トレーには、山盛りになったクロワッサン、オムレツにパプリカとオニオンを載せたグリーンサラダ、パセリと胡椒を散らしたコンソメスープが二人分ぎっしり並べられている。
 夏侯淵は片手でトレーを維持したまま、ベッドの脇に収納してあるテーブルを引っ張り出した。横幅の広いテーブルは、ベッドの上で書き物やお茶が出来るようにセット販売されていたものだ。
 このベッドを選んだのは夏侯淵だったが、やけにこだわると思ったらどうもこの機能のせいだったらしい。
 正直、要らないんじゃないかと思っていたが、早速の初使用と相成ったようだ。
 のんきに考え事に勤しむだったが、うっかり裸のままで居た。
 夏侯淵は気にする風もなく、淡々と『優雅なベッドでの朝食』を設えている。
「コーヒー、今んとこインスタントしかねぇんでな」
「あ」
 別に構わないと言い掛けたを放って、夏侯淵はドアの向こうに姿を消した。
 すぐに戻ってきたが、今度は円い盆を携えている。載っているのは、色鮮やかな紅茶のサーバーだ。
「おっし、時間ちょうどだな」
 盆の上には、角度的に隠れて見えなかった砂時計があった。少し濃いにしても、青い砂の色は珍しくないかもしれないが、濡れたように黒い石で枠を作った砂時計は珍しいように思う。百均で見掛けるそれにはない高級感だ。
「これな、殿がTEAM魏を立ち上げた時に作った特別製でな」
 だから、夏侯淵の他は夏侯惇や曹仁などの数名しか持っていないのだそうだ。
「使わないってのも、もったいなくてなー。使い道探して、結局コレが一番いいかって思い至ってな」
 今では紅茶を淹れるのが、夏侯淵の隠れた趣味になったとのことだ。夏侯惇の趣味にコーヒーを淹れるというのがあって、ダブらないようにしたのも大きいという。
「旨いコーヒーが飲みたけりゃ惇兄のとこ、紅茶なら俺ってな」
「……夏侯惇部長って、紅茶飲むんですか」
 何となくイメージにそぐわなくて、思わず突っ込んでしまう。
「うんにゃ、惇兄は、紅茶はほとんど飲まねぇな」
 飲むのは殿、の一言で、至極納得できた。
 ともあれ、夏侯淵の淹れた紅茶に口を付ける。
「美味しい」
 素直に漏れ出た言葉に、夏侯淵の顔が緩む。
「でもな、俺が紅茶淹れてるなんて話は、内緒だからな。イメージが壊れちまうだろ」
 そうして、二人で笑い合う。
 ひとしきり笑った後、夏侯淵がクローゼットからガウンを出してきての肩に掛けてくれた。
 特段意識してやっているようには見えず、あくまで普通のこととしてやっているように見える。
 ふと、この朝食はどうしたのか気になった。
 夏侯淵に訊ねると、当たり前のように自分が用意したと返ってくる。
「す、すいません」
 思わず謝ってしまうに対し、夏侯淵は却って不思議そうに首を傾げた。
「何で。お前、まだ動くの辛いだろーに。それに、こんなもん大したもんじゃないだろ?」
 指摘自体が的を射たもので、は二重の意味で赤面する。
 の沈黙を夏侯淵は同意と受け止めたのか、なし崩しに食事に突入した。
 ためらいながら、は夏侯淵を真似てふっくら膨らんだオムレツにフォークを刺す。
 と、滑らかな表面が切り割かれて、中から半熟の卵がとろりと溢れ出した。
 そのまま口に運ぶと、微かな塩気が卵のねっとりとしたコクとあいまって絶妙だ。
 プレーンオムレツには付き物のケチャップは掛かっていなかったが、むしろ必要なかった。
 コンソメスープはまろやかで、振られた胡椒のとげとげしさはなく刺激的という言葉が最も相応しいレベルにどっしり落ち着いている。
 サラダは勿論しゃきしゃきで、そのくせ余分な水気は一切なかった。ドレッシングの酸味も程良く、食が進む。
 クロワッサンは、ほんのり温かい。練り込んだバターの甘みに偽りなく感動してしまうくらいだ。
「これ、全部夏侯淵部長が……?」
「んにゃ」
 平然と否定されて、しかしすぐ後に続く言葉には引っ繰り返りそうになった。
「コンソメは作り置きだし、パンは、スクーター回して買いに行ってきた。ここのが、俺は好きなんでな。今度、一緒に連れてってやる。そこのモーニングも、結構イケるかんなー」
 サラダには言及しなかったが、口振りからして当然夏侯淵の自作だろう。
「……ドレッシングは……」
「あー、なかったから作った。ちょっと酸っぱかったか? 悪い」
 とんでもございません、とは大仰に首を振る。
 半ば本気で青ざめていた。
 そも、パンを『作る』という思考自体がにない。
 パンはあくまで『買う』ものだ。
 だからと言って、思い付きだけでわざわざスクーターで乗り付けたりすることもないだろう。近所で買えば手間も時間も掛からない。
 無論、買いに行った夏侯淵が、が目を覚ます気配がなくて暇だったとか、自分が食べたかったから行って来ただけだという可能性も、なくもない。
 けれども、何となくそうではないだろうと思えた。
 夏侯淵は、が起きた時に美味しいものを食べさせて喜ばせようとしたに違いない。
 車でなくスクーターを選んだのも、小回りが利いて時間を短縮できるからではないか。乗り心地や荷物の手間を考えれば、車の方が圧倒的に便利だ。
 他の料理にしたって、品数は少ないとは言え、どれも店で出して恥ずかしくない出来だと思う。手間暇が掛かっているといういい証拠だ。
 それらをすんなり用意できる腕と行動力、そうすることに何の押し付けも気負いもない夏侯淵に、は嬉しさよりも畏怖めいたものを感じていた。
 あまりにも完璧な献身振りではないか。
 完璧過ぎて、怖いのだ。
 夏侯淵は、容易に女を堕落させるという決して喜ばしくない才覚の持ち主なのかもしれない。うっかりすれば、至れり尽くせりの生活に慣れ、いつしかそれが当たり前となり、とんでもない勘違いをしかねなかった。
 裏切りに伴うリスクの高さも忘れて、だ。
 もしもが夏侯淵を裏切れば、夏侯淵は真由子をあっさり切り捨てるだろう。
 憤怒からではなく、悲しみ故にだ。
 そして、二度と許してはくれない。
 必ず、必ずそうなるに違いないという確信がある。
 それだけは嫌だ。
 だからと言って、ただ浮気しなければいいとは思えない。
 愛されたのなら同じだけ、尽くされたのならやはり同じだけ、出来ればそれ以上を返したい。
 そうでなければならないと、は生真面目に思い詰めた。
 だが、一口に返すと言っても、夏侯淵自身はすべて無意識にしていることで、しかもやっていることのレベルは半端なものではなかった。
 の家事の腕はそこそこだし、現状、仕事をこなすだけで精一杯というのが正直なところだ。
 返す報いるどころの騒ぎでない。
 どうしようかと青ざめるものの、引き返せる領域はとっくに踏み越えていた。
 とにかく、やるしかない。
――あたし、部長のこと愛してるものっ!
 恥ずかしい言葉を、声に出さないながら芝居掛かった体で叫ぶ。
 そうでもしないと挫けそうだった。とりあえず、暇を見付けて料理教室には通おうと決意する。
 それで間に合えばいいけどね、と、もう一人のが悪態を吐く。
「……頑張りますから!」
 涙を堪えて、は悲痛に叫んだ。
「おう?」
 夏侯淵はの気持ちも知らず、ただ笑っている。
 結婚はゴールでないと、は改めて思い知らされていた。

  終

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