の気持ちが夏侯淵にばれた。
 だが、何も変わらなかった。
 呆気に取られてしまう程、いつも通りに忙しく充実した日々が続いている。
 夏侯淵もまたいつも通りで、あの夜のことが明け方の夢のように酷く空虚に思えてならない。
 それ程に、の生活は変わりなかった。
 こうなると、おかしいと思う気持ちと良かったと安堵する気持ちの間で揺り動く。
 おかしいと思うのは、通例通りとは言い難いものの、自身の恋愛感情を悟り悟られて互いに意識しないで済むものかということであり、にも関わらずそれで済んでいる事実に対してだった。
 安堵しているのは、何も変わらない日常に、何も失わなかったと示されている平穏に対してだ。
 意識した視線も、妙に甘ったるいときめきもない代わり、平穏な日常、自分を切磋琢磨する喜びが戻った。
 そして、恐らくは後者の方の比重が高い。
 このままなら、本当に何もなかったで済ませることが出来るかも知れない。
 心にわずかに引っ掛かった正体不明の棘さえ抜けてしまえば、本当にそうなりそうだ。
「どうした、
 はっとして顔を上げれば、不思議顔の夏侯淵がを見下ろしていた。
「いっ……いえ、何でも……」
 夏侯淵は、ふーんと鼻を鳴らすのみで、後は然したる興味もなさそうに背を向ける。
 いつものことだ。
 多くも少なくも、余りも足りもしない、繰り返されてきた会話の一つだ。
 の胸の内に、小さな波紋が広がっていく。
 音もなく静かに広がって、そして消える。
 こんな波紋も、最近はとみに小さくなっていた。
 最初の頃は、それこそ表情に出して小首を傾げるようなこともあったけれど、今はもう胸の内一つで納まってしまう。
 恋って、こんなものだろうか。
 色々分からないが、一番分からないのは自分の気持ちだった。
 確かに好きだと思った。
 そうなのだと自覚した。
 だが、だとするのなら、音もなく風化していくこの感情が理解できない。
 例え夏侯淵が普通を装おうとしたとしても、恋をしている筈の自分の心が、こんな風に鎮まっていってしまうものなのだろうか。
 一番分からないのは、夏侯淵の態度より、自分の中の静けさだった。
 本当に恋をしているのだったら、当の相手すらも目に入れられなくなって、猛烈にヒートアップしていくものにのではないのだろうか。
 恋って、こんなものなのだろうか。
 は時折、そんな風に考え込んでいた。

「煙草はやめたか」
 ふと顔を上げると、そこには夏侯惇が居た。
 ぎょっとして身を引くと、背もたれがぎっと低く唸る。
 夏侯惇も、わずかに怯んだようだった。片目しかない目を、大きく見開いている。
「……あ、仕事……」
 長い間呆けていたことに気付き、赤面してデスクを漁る。
 夏侯惇が訝しげに眉を寄せた。
「書類なら、さっき仕上げたのを淵が持っていったろう。お前も返事をしていたと思ったが」
 胡乱にデスクをまさぐっていたの手が止まる。
 溜息が、深々と漏れた。
 よくよく見てみれば、パソコンには打ち込み途中のデータが表示されており、カーソルがちかちかと点滅している。
 何とも言えず不安げなその明滅に、は気持ちが塞いでいくのを感じた。
 打ち込んでいたのは、の意識が残っていた時のものとは別のデータだったから、無意識でも仕事はしていたらしい。
 自分は案外器用だったのだと、訳もなく感心した。
「……?」
 夏侯惇に再度呼び掛けられて、はまた顔を赤くした。
「あ、すいません。何でしたっけ」
「いや……だから、お前、煙草をやめたのかと思ってな」
 やめた覚えはない。
 むしろ、夏侯惇が何故そんなことを聞いてくるのか不思議だ。
 が問い返すと、夏侯惇はばつ悪そうに軽く唇を突き出した。
「いや、最近お前の姿を見なくなったしな……」
 噂を気にしたくはないが、あまり夏侯惇とべたべたした関係に見られるのは嫌だった。
 かと言って、わざわざ夏侯惇を避けるつもりもなく、そもそも仕事の合間に喫煙しようと思ったら、喫煙室に向かうしかない。
 喫煙者ばかりが休憩をしてと陰口叩かれるのも癪なので、の煙草休憩は必然的におおよその時間が定まっている。
 良くも悪くも、夏侯惇はと似た性質らしい。
 そんな次第で、二人の煙草休憩時間は重なりがちだった。
 夏侯惇は外回りすることもあるから、必ずではない。が、それでも一〜二週間に一度はだいたい顔を合わせる。
 けれど、確かにここのところ、が夏侯惇を見た覚えがなかった。
 そのことを、夏侯惇は言っているのだろう。
 ただ、に言わせれば、それこそ偶然の産物である。何せは煙草をやめてはいないのだ。
「吸ってますよー。こればっかりは、早々やめられそうもないですしねー」
 やめようかと思うことがない訳ではない。
 けれど、思うばかりでまったく実行に移せていなかった。
 ひとえに、昨今の健康並びに嫌煙ブームが、の癇に障るからかも知れない。元々の本数がたいしたこともないし、多少高級品になろうと、他にやめられないような嗜好品を持たないには、それ程の痛手とはならない。
 夏侯惇は、何事か言い難そうに口をもごもご動かしていたが、やがて意を決したように開いた。
「……すまん、煙草を切らしてな。一本、もらえるか」
 何だ、とは笑うと、引き出しを開けて煙草ケースを引っ張り出した。
「どうぞ。封切っちゃってますけど、何なら箱ごと」
「いや、一本で良い」
 悪いな、と苦笑いしつつ、どこか嬉しげに去っていく夏侯惇の背中を見送る。
 パソコンに向き直り、打ち込んでいたと思しき書類を手にとって、確認した。
 数字の羅列を読み込んでいる内、何となく思い出してきた。昨日から整理していたデータだ。
 急ぎの書類が持ち込まれ、それで中断してあったのを再開していたらしい(自分のしていたことに『らしい』もないものだが)。
 書類を頼んできたのは、夏侯淵だ。
 は、唇を噛んでいた。
 自分でなくとも、この書類は作れる。
 もしも夏侯淵が気まずいと思っていたら、に頼むことはあるまい。
 幾らの仕事が急ぎでなかったとしても、他に頼める相手がいない訳ではない。否、営業の補佐を担う係として営業事務という部署がちゃんとあるのだから、むしろそちらに頼むのが筋だと言える。
 に頼んだのは、頼みやすかったからだ。
 熱意のある部下、それ故に可愛がっている、信頼のおける部下だからだ。
 気まずくなど、ない。
 つまり夏侯淵は、の気持ちを認めていない。認識もしていない。しないようにしている。
 そういうことなのだ。
 諦めてしまおうか。
 そんな気持ちにさせられる。
 諦めてしまったら、夏侯淵は今まで通りにと接してくれるに違いない。
 有難いではないか。
 別に、告白したのではないのだから。本当に取り返しが付かない事態には、至ってないのだから。
 いっそ、泣きたくなるくらいだ。

 びくっと腰が浮き上がる。
 再び夏侯惇の姿を見出し、は細く深い溜息を吐き出した。
 夏侯惇は、不思議そうな顔をしている。
 それはそうだろう、今のは、が夏侯惇でも訳が分からない反応だったと思う。
 頭を下げて詫び、改めて用件を尋ねる。
「……う、む……その、な」
 やけに言い難そうに顔をしかめる夏侯惇に、は首を傾げた。
 沈黙が落ち、根負けした夏侯惇が、渋々口を開く。
「これを」
 差し出されたのは、封も切られていない煙草の箱だった。
 意味が分からない。
 先程の礼と言うにしても、タイミングが早過ぎるのではないだろうか。
 がきょとんとしていると、説明が加わる。
「……その、さっきの煙草だが……湿気っていたので、な」
「え」
 そんな筈は、と思い返し、煙草を吸った記憶が酷く曖昧なことに愕然とする。
 習慣になっていた喫煙が、記憶の刷り込みとなって、吸わずにいたのを吸っていたものと誤認していたのだ。
 しかも、記憶があやふやなのは昨日今日のことではない。
「げ」
 理解した瞬間、およそ女らしくもない嘆声が漏れる。
「……何かあったか」
 夏侯惇が心配そうにを見遣る。
 微妙に引き攣りつつも無理矢理笑みを浮かべ、誤魔化す。
 禁止されている訳ではないが歓迎はしないという空気のTEAMの中で、恋愛沙汰で悩んでますとはなかなか言い難い。
 夏侯惇も、敢えて追求することはなかった。
「まぁ、話したくなれば、話すといい。聞くぐらいは出来よう」
 ぽん、と肩を叩かれる。
「あ」
 はっと気付く。
 引っ掛かっていた『棘』の正体が、ぱっと頭の中に閃いた。
 密かにうろたえている夏侯惇にすら構えず、はわなわなと体を震わせる。
 何が日常か。何が元通りか。
 ちっとも、そんなことはない。
 何故なら、夏侯淵が触れていない。
 元々気さくな性格が、仕草にも率直に現れる夏侯淵は、ボディタッチもそこそこに多い。
 あまりに気が置けない態度のせいか、セクハラと捉えられることもなく、また契約が取れる御利益があるとかいういわくも手伝って、文句を言うものは誰一人として居ない。
 の肩やら頭やらも、当然夏侯淵のタッチポイントになっていた。
 それが、例の日以来ぱったりと止んでいる。
 どうして気が付かなかったのか、分からない。それ程気鬱になっていた証拠だろうか。
 全然、元通りなんかじゃない。
 揺れていた心も一気に吹き飛んだ。
「……部長。私、きちんと仕事してました?」
 正直に言ってくれ、と低く唸るの様に気圧されたのか、夏侯惇はすぐに口を割った。
「はっきり言えば、仕事になっていない有様だったな……もしも淵が補佐していなければ、異動対象になって間違いなかったろう」
 夏侯惇の話によれば、の仕事量が減った分、夏侯淵が居残り残業をしているのだという。
 今、は少しおかしい。不調なのだ。いずれ治るだろうから、それまでは目零ししてやってくれ。
 夏侯淵は、そう言って周囲の不満を黙らせ、黙々と残業をこなしているそうだ。
「お前も、何があったか知らんが、早く立ち直れ。淵は、お前にずいぶん期待しているようだしな」
 夏侯惇がしみじみと呟く。
――それって屑の定番台詞だから、諦めないんなら覚悟しろ?
 不意に、の言葉が蘇った。
 心の底から愕然とする。
「……?」
 硬直するに、夏侯惇の不審が募る。
 だが、は既に夏侯惇に構えなくなっていた。
 何も見えなくなっていた。
――あの、野郎ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
 周到に、まったく何の抜かりもなく、夏侯淵はに『諦めさせる』べく動いていたのだ。
 認めていなかったのではなく、それこそ単純に、ただを排除するのではなく『元の』に戻すという厄介な方法を選んで、実行していた。
 が後悔と共に元通りの関係を選択するのでも気の迷いだったと覚醒するでも構わない、今まで通りの関係を自身が選ぶよう、『捨ててしまうには惜しい充実した日常』を演出し、補佐していた。
 手の込みようには感心もしようが、直接振るより酷い仕打ちではないか。
 嫌なら、振ってくれればいいのだ。
 きちんと断ってくれさえすれば、とていつまでもうじうじしたりしない。
 中途半端に放置しておいて、これはないだろう。
「……許っさん……!」
 言うなり、は席を蹴ってフロアを後にした。
 取り残された夏侯惇が表情も露に困惑するのを見た者は、と夏侯惇の遣り取りを知らず、ただ物珍しく見物するのみだった。

  終

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