携帯の向こうから、やや呆れたような溜息が聞こえてきた。
溜息を吐きたいのはむしろの方だったが、聞かされる身としたら溜まったものではないだろうという想像もまた容易く付くから、とても文句は言えない。
「……いや、一応、この件では色々面倒掛けちゃったからさ……」
言い訳がましく呟くと、が苦笑する気配が伝わってきた。
『それは有り難いけど、何もこんな夜中に掛けてくることでもないんじゃない?』
ごもっともである。
面倒事ならまだしも、色恋沙汰の成就の報告だけだと言うなら、午前二時を回った時点で翌日に回して差し支えなかろう。
とは言え、が敢えてこの時間にと連絡を取ろうと思い立った経緯には、若干同情すべき点もないではない。
『……何? 何か相談?』
は、他人事には何故か敏い。
水を向けられたことに感謝しつつ、しかしいざとなると言葉が出てこなかった。
「ん、いや……夜遅いし、またにする。ごめんね、起こしちゃって」
『いや、寝てはいないんだけど』
どこか訝しげなの、無言の追求を振り切るように携帯を切った。
帰宅直後、熱に浮かされる勢いでに電話してしまったことを後悔してしまう。
せめて、近所迷惑覚悟でシャワーを浴びるなりして落ち着いてからにすれば良かったと、は自己嫌悪の渦に頭を垂れた。
何度目かの口付けの後、無言に陥った夏侯淵は不意にから離れた。なだれ込んできた冷気が、の意識のピントを絞り込む。
「……部長?」
茹だるような熱の残滓のせいで、体が酷く重い。
気だるさが見えないロープのように四肢に絡み付くのを感じながら、はもそもそと起き上がる。
止めないで欲しかった。
既に潤いは満ちて、夏侯淵の侵入を待ち焦がれているような状態だ。蛇の生殺しを体感させられているのと変わらない。
夏侯淵は、立ち尽くしたまま窓の外を見ているようだった。
表情が見えず、心細くなってくる。
何かまずいことをしてしまっただろうか。
思い出そうとしてみるのだが、何しろ無我夢中だったもので、つい今し方の記憶ですらぼんやりと霞んでいる。
半ば放心状態で夏侯淵の背中を見つめていると、夏侯淵がくるりと振り返った。
顔が赤い。
これまで見たこともない赤面振りに、の意識も今度こそしっかり覚醒した。
「……今日は、この辺で……ってことにしたら、マズいか?」
「ええー」
思わず不平の声が漏れる。
夏侯淵は、先程のと同じように、ぴょんと身軽にベッドの上に飛び乗ってきた。
膝を揃えていたせいか、自然正座で座り込む夏侯淵に、も釣られて正座に直る。
「いや、あのな、俺も、正直こんなとこで止めるってのは気まずい」
「はぁ」
何と答えていいか分からず、は気の抜けた相槌を打つしかない。
だが、夏侯淵にとってはそれで十分だったらしく、我が意を得たりと大きくこっくり頷いた。
「お前の気持ちも分かる。ような、気がする。……けどなぁ、ちっとばかし、キツい」
「え」
キツいの一言に、やはり自分に何か非があったのかとの顔が強張る。
けれども、その可能性は、夏侯淵本人の口からすぐさま否定された。
「違う違う。そーじゃなくって、あのな……例えば、ここのホテル、うちの殿やら重役の行き着けなんだわ」
そう言えば、と、夏侯淵がホテルの玄関でドアマンと親しげに話していたのが思い出された。
つまり顔見知りが多い、ということだ。
「……あー」
夏侯淵は『例えば』と切り出してきたが、その一点のみでも十分気まずかろう。あくまで客とホテルマンの立場だとしても、女連れで部屋を取った事実に変わりはない。
変わるとしたら、『確かに女連れでホテルに入ったが、ちょっと話を(話以外も軽くしているが)しただけ』という『自負』のみ、である。
それでも、夏侯淵にとっては厳然たる事実に違いない。
後ろめたいことは何もしていないと、事実(ちょっとしか)していないのだから胸も張り放題だ。
「後、な。……悪ぃ、その服、殿の顔を思い出しちまう」
言われて、は自分の今の格好を見下ろす。
適度に乱れたドレスは、確実にの趣味ではない。
夏侯淵がの服の趣味を知っているかどうかは定かでないが、スーツで出掛けたが出先でドレスを購入したとは思わないだろう。
買ったとしたら曹操だと、付き合いの長い夏侯淵には当たり前に察しが付く話だ。
他の男が、ましてや曹操が着せたドレスという認識が、夏侯淵の集中を乱しているらしい。
これも、理解できない話ではない。
でもなぁと、恥ずかしながら未練がましく考え込んでいると、夏侯淵が突然がばっと土下座して、の目が点になる。
「だから、今日のとこはここまでってことで……頼む! 悪い!」
何を謝っているのかと思ったら、要するに『じゃあ続きは余所で』というのもナシ、ということで詫びているらしい。
「……はぁ」
溜息のような返事しか出来ない。
は土下座する夏侯淵の姿を繁々見詰める。
謝って済む問題ではないというか、謝るようなことでもないのではないだろうか。
確かにいい気はしないのだけれど、と、むーんと唸っていると、夏侯淵が顔を上げる。
真っ赤だ真っ赤だと思っていた顔が、更に真っ赤になっている。
「……俺も、こんなこと言えた義理じゃねぇのは分かってるけどよ……俺も、あれから結構色々考えて、何となくだがお前のこと、好き、なんじゃねぇかなって思い始めてよ……気付いたら、風俗もあんま行かなくなってて、行ってもあんまり良くなくってな。マジで、こんなんなるの初めてなんだわ」
告白、なんだろうか。
は、スルメのような、一々噛み砕かなくては飲み込めない夏侯淵の言葉を吟味した。
ところどころ失礼な話が混じっているような気もするが、たぶん告白だと結論付ける。
のんきに考えていると、夏侯淵の膝が時代劇のそれよろしくずずいと前に進んでくる。
正座で座っていると、前進はともかく後退するのは難しいのだと、は生まれて初めて認識した。
「……俺は、たぶん、お前のことが好きだと思うわ。だから、こんな勢いで済ませちまいたく、ない。お前にも悪いし、何かこう、尻の座りが悪いからな」
「あ、はい……」
これも、告白なんだろうなと思う。
もの凄く真摯に告白されているのだろうとは分かるのだが、何故だかどうしていいか分からない。あまりの超展開に、いい加減神経が麻痺しているのかもしれない。
救いは、夏侯淵がの様子に気付いていないらしいことだ。
顔が赤いなぁ、目が必死だなぁと見詰め続ける内、はふと、腹の底が再び熱くなるのを感じた。
――わ、やだ。
顔が熱くなる。
夏侯淵の表情を間近で見て、その顔に欲情していたようだ。
改めて、自分はこの人が好きなんだなあと自覚した。
途端、顔と腹の底がますます熱くなる。
「あの……本当に? 本当に、私でいいですか?」
我ながらしつこいと自己嫌悪しつつ、どうしても確かめたくて仕方がなかった。
夏侯淵が、の執念に根負けして譲歩しただけだとしたら、例え受け入れてくれたとしても意味がない。
しかし、夏侯淵はそんなの不安を軽く吹き飛ばす。
「つか、お前じゃないと、駄目だ。……たぶん」
たぶんは要らないだろう。
ツッコミたい衝動に駆られながら、は笑った。
笑いながら、泣いた。
「嬉しい、です。今までで一番、嬉しいかもしれない」
「……かもしれないは、要らないんじゃねーか?」
が堪えたツッコミを、夏侯淵は即座に突っ込んでくる。
笑いながら手を伸ばし、夏侯淵にしがみついた。
夏侯淵は、を抱き留めながらその片方の手を取る。
「……分かるか?」
先程腰の辺りに感じていた凝った肉の感触が、手のひらに押し付けられる。
背筋がぞくぞくする。
指から感じることもあるのだと、初めて知った。
「ここ最近で、こんなになったこたぁねぇ。な? 固ぇだろ?」
喉が詰まって、言葉が出ない。
夏侯淵の手に導かれるまま、はゆっくり指を這わせる。
耳元に夏侯淵の息が掛かる。
荒く熱い吐息に、の指で感じているのだと知らしめられた。
「……あ、の……」
掠れた、音を伴わない声で夏侯淵を導く。
短いドレスの裾の下へ夏侯淵の手を招き入れると、夏侯淵の指がすっと秘裂へ伸びる。
「お」
短い感嘆の声が、の羞恥を煽った。
すっかり濡れてしまったショーツは、夏侯淵の体温を直にに伝えて寄越す。
どころか、蜜はますます溢れ、ショーツ越しの夏侯淵の指先までも濡らしていった。
「……すげぇ……」
の耳の中で、夏侯淵の生唾を飲む音が響く。
煽られ、秘裂はさらに潤いを増す。
「あっ」
夏侯淵は指を軽く動かしただけだ。
それだけで、小さくない声を上げてしまう。
秘裂に添えられただけの指が、形をなぞるようにゆっくり動き始めた。
は声を止められない。
徐々に大きく、悩ましくなる声に合わせ、夏侯淵の指の動きは大胆に、乱雑になる。
ショーツ越しに秘裂を割られ、秘められていた朱の粒をこねくり回された。
「あぁっ! そ、こ、あ、あっ……」
声は快楽を素直に映す。
頭の中を雷光が駆け巡って、の理性は吹き飛んでいた。
腰が引けるのを、夏侯淵が掴んで引き戻す。
くにくにと指の腹で擦られ、失神しそうになる。
触れられるだけでこんなになってしまうなら、挿れられたらどんなことになってしまうんだろう。
怯えがの正気をわずかに引き戻した。
同時に、夏侯淵がの腕を引き、斜めに倒す。
目と目が合った。
顔と顔が近い。
寸の間、二人は極間近で見詰め合った。
の体が、ベッドに落ちる。
夏侯淵の顔が、ベッドに伏せられる。
「うあああああ、やっぱ駄目だああああああ」
再び土下座体勢で頭を抱える夏侯淵を、は気だるさにベッドに横たわったまま、顔だけ上げて静かに見守る。
夏侯淵の中では、人間の三大欲の一つである性欲よりも尚、曹操の存在は大きいらしい。
いいような悪いようなである。
これを見越して着せたんじゃなかろうなと、は脳裏に浮かぶ曹操の顔に愚痴垂れた。
結局事には至らぬまま、身支度だけ整えた二人はタクシーにて帰路に着いた。
一応マンション前まで送ってくれた夏侯淵も、照れ臭そうなまたばつ悪そうな複雑な笑みを浮かべ、早々に帰ってしまった。
一人悶々とした気持ちを抑えられぬまま、部屋に入って鍵を掛けるなり携帯を取り出していた次第である。
に何を訊こうとしていたのか、自身も定かでない。
訊ねようにも、口に出すのは憚られる話が多過ぎる。
もう寝ようとドレスを脱いで、皺にならないようにハンガーに掛ける。
夏侯淵の前で服を脱ぐという行為がはばかられ、つい着たままで帰ってきたのだが、よくよく見てみるともう幾らか皺が付いている。返すにしてもクリーニングが必要だ。
この手のクリーニングには、それなりの金額が必要だろうと察しは付く。慌てて丸めたスーツも然りであろう。
思わぬ出費の確定に、の溜息が漏れた。
それにしても、である。
――また最後までしなかったな……。
これまで、何だかんだで処女喪失の機を逸してきただったが、またしても最後に至らなかった訳である。
何にせよ、今度こそと思わなくもない。
その顔、仕草を思い出すだけで赤面する相手など、夏侯淵が初めてだった。
無性に恥ずかしくなって、もう寝てしまおうとベッドに横たわってから、また起きる。
濡れた下着の始末を忘れていたのを思い出したのだ。
気持ち悪さに辟易しながら、は取り急ぎ風呂場に向かう。
御近所の苦情は届いてから処理しようなどと、営業マンらしからぬ怠慢を発揮していた。
どうも、ドラマのように格好良くは出来ない質らしい。
終