は、予定にない外回りを終えて社に戻ってきたところだった。
 不調に加えて気もそぞろとあり、まともな営業が出来るとも思えず、仕方なしに得意先に新しいカタログを届けに行くという『無駄』な仕事に就いていたのだ。
 夏侯淵に言わせれば、営業に無駄な仕事など一つもないらしいのだが、メール便を使えば時間も費用も削減できるだろう仕事である。
 挨拶がてらの顔出しを兼ねてはいても、の気持ちは重かった。
 なまじ、という八つ当たり対象を得てしまったことが、の不調を加速させる。
 ホラーは嫌いではなかったが、実体験するのはまた訳が違う。
 積もりに積もった鬱憤が、得体の知れないという存在に向けて放たれそうで、しかしもしそれをしたとすれば、の自己嫌悪は取り返しの付かないところまで達してしまうに違いなかった。
 それだけは嫌だ。
 歩きながらも段々と前のめりになっていくの背を、誰だかが盛大にど突く。
「ちょっ……!」
 勢い良く振り返った先に見出した顔に、は固まった。
「何、誰と間違えた?」
 察しのいい同僚の思わせぶりな笑みに、はごにょごにょと口ごもる。
 は、腰に手を当てて背中をぴんと伸ばすと、猫背がちなを見下ろした。
「呑みに行っか!」
 の返事など待たない、ある意味清々しい程身勝手な決定だった。

 半地下に繋がる背の低い扉を潜ると、ランプの暖かくも玄妙な光がの目を刺した。
 ずらりと逆さ吊りされたグラスの奥に、不機嫌そうな顔をした魔女が腕組みして立っている。
「あんたは、また」
 魔女の小言に、は目を丸くした。
「え、は初めてじゃないでしょ」
 の行きつけと聞くこの店には、も何度か足を運んだことがある。
 ただ、この店のどうにもいい加減なシステムや横柄な女主人の態度に馴染めず、抜きで呑みに来た試しがない。
 前回の訪問からかなりの時間が経ってしまっているから、女主人がのことを忘れてしまったとしても仕方がないと思えた。
 女主人は、不機嫌そうに目を細めての顔をじっと見つめる。
 その仕草が、誰かのそれと重なって見えた。
――あれ。
 何かが引っ掛かった。
 だが、その引っ掛かりが何かを見極める前に、女主人の視線はへと流れてしまう。
「……奥から三番目」
 からすれば訳が分からない謎の指示も、常連のには当たり前のことなのか、の肘を掴むとすたすたと奥に進む。
 引っ張られながらもが振り返ると、女主人はこちらに背を向けて何かに手を伸ばしているところだった。
 やはり、どうしても引っ掛かる。
 何がどうして引っ掛かるのかまったく分からないのだが、それでもは、飲み込めない魚の小骨のような疑問に胸焼けすら感じていた。
「どしたのよ」
 狭い二人席に引っ張り込むと、は不思議そうにを見遣る。
「どうしたっていうか……」
 言い差し、言葉に詰まった。
 この店には何度か来ているのだが、各テーブルが小分けに仕切られた個室か半個室になっているのはも知っている。
 けれど、まさかこんな個室があるとは、想像も付かなかったのだ。
 まず、明るい。
 ランプの暖かな色、言い換えれば暗い炎の色彩から打って変わり、黄色っぽくはあるけれど、電気の生み出す鮮やかな明るさがを包む。
 薄茶色の分厚い素朴なテーブルと、同系統の椅子が二つ、背もたれには生成りの柔らかなリネンのクッションが置かれて座す者を歓待しているようだ。壁には何故か同系色の大きな棚がテーブルを囲うように置かれ、ガラス戸越しに分厚い英字タイトルの本が並び、一部はお勧めとばかりにこちらに向けて立てられている。その横には可愛らしいテディ・ベアが置かれ、目線を向けた人から話し掛けてもらえれば、すぐにも答えてくれそうな風情で寄り添っていた。
 わずかに覗く壁には、細やかに編まれたレース飾りが上品に飾られている。
 小さな白い花瓶にこれまた可愛らしく花が活けられていたり、ビーズ細工のアクセサリが置かれていたりと、全体的に『夢見がちな文学少女』をテーマにしたといわんばかりなインテリアなのだ。
 まさか薄暗い半地下の、どちらかと言えばいかがわしい雰囲気すらする店の中とは、想像も付かないだろう。
「あぁ、は、この部屋初めてだよねぇ」
 部屋と呼称するには幾らか差し障りがあると思うが、初めてなことには変わりない。
 は不承不承ながら頷いた。
 と、の口元が『にやり』としか言いようがない形に歪んだ。
「うん、まぁ、この部屋に入るってことは、まぁ、そういうことだよねぇ」
 勿体ぶった言い回しに、はげんなりと眉尻を下げる。
「何、その意味深な言い方。キモい」
 吐き捨てると、は気にした様子もなく明るく笑った。
「ごめん、いや、やっぱりなぁって思ってさ」
 だからどういうことなのだとが訊ねようとした時、間仕切り代わりのぶ厚いカーテン(このカーテンも、外は深い青だが内は薄いセピア色という手の込みようだ)をまくり上げ、女主人が現れた。
 片手に携えた盆には、濃い緑色の瓶と細長いグラスが二つ乗っている。
 ラベルは愛らしいピンク地に、細く金色の文字が刻まれていた。
「ま、こんなもんだろ」
 それだけ言い捨て立ち去っていく女主人を見送り、はテーブルに置かれたグラスを見下ろす。
 グラスに仕込まれた苺が、勢いよく注がれた薄い金色のシャンパンにくるくる舞い踊った。
 これではまるで、何かのお祝いではないか。
 に何か祝い事でもあったのだろうか。
 誕生日におめでとうと言い合うくらいはするが、奢っての奢られてのはしたことがない。
 それでも、恐らく祝い事の当人に呑み屋に連れて来られた挙句の手ぶらというのは、あまり尻の座りがいい話ではない。
 いささかもじもじしながら、うやむやにするよりはと思い切って口を開く。
「あの……ごめん、これ、何?」
 がきょとんとしている。
 まずったか、とは顔を真っ赤にした。
「何って……えー」
 も困惑したように小首を傾げる。
 が知らなければならないことだったのだろうか。
 うろたえているを、は思案げに眺める。
 しばらく考えていたようだったが、浮き上がった苺がシャンパングラスに沈むと同時に、うん、と軽く頷いた。
「恋してるでしょ?」
 の思考が吹っ飛ぶ。
「………………はあぁぁぁぁ!?」
 たっぷり二十秒は沈黙してから、は抗議めいた叫び声を上げた。
 こい、という音が恋という意味に繋がらず、繋がった後も自分に何の関連があるのか理解できずにパニックを起こす。
 一人百面相して悶えるを、はへらへら笑いながら眺めていた。
「あぁ、あぁ、自覚してなかったか。成程ねぇー」
 妙に悟った風なの態度が、やたらとの癇に障る。
「何、勝手に決め付けてんのよ」
「イヤ、決め付けてるって言うか、そもそも疑ってたのは私じゃないし」
 ではない。
 では、誰なのか。
「夏侯部長」
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
 絶叫した。
「か、か、夏侯淵部長!? 何で!? 何で!?」
 うろたえるあまり席を蹴って立ち上がったに、の目が点になる。
 動揺の激しさ、その醜態に呆れて、ではない。
「誰が夏侯淵部長か。夏侯惇部長の方だって」
 はっと息を飲む。
 それからの顔は、紅潮した等という言葉では生温い程、これ以上はなく真っ赤になった。
「……はぁ、夏侯淵部長か」
「え」
 涙まで滲ませて、は自分の頬を押さえる。
「な、な、何、が、夏侯淵部長……?」
「あんたが好きな男」
 途端、ひぃっと甲高い悲鳴を上げては顔を伏せた。
 は遠い目をしながら、『恋しちゃったんだ』と鼻歌を歌い出す。
「やめてやめてマジやめて」
 涙が溢れそうになる。
 悲しい訳ではないのに、胸がぐっと締め付けられた。
「……そんな訳、ないよぉ……」
 泣き言混じりにうめくのだが、は容赦しない。
「何でそんな訳ないのよ」
 が必死に考え出した抗弁を、オウム返しにすることであっさり突き崩してしまう。
「誰が誰に恋しようと、恋されようと、『そんな訳ない』ってことはないのよ」
 の言葉は変に実感が篭もっていて、に口答えを許さない。
 はあうあうともどかしく口を開閉させていたが、仕舞には力なく閉じてしまった。
「恋、とか、でも、あり得ないよぉ……」
「あり得ないってことがあり得ないっての」
 もがくように吐き出した一人言すら封じ込められ、は完全に撃沈した。
 はシャンペンを啜りながら、時折白熱灯の灯りに翳してその色合いを楽しんでいる。
 しばらく沈黙が落ちた後、もシャンペングラスを手に取った。
「つか、さ」
 それを合図にしたかのように、は話を再開させる。
「あの、夏侯惇部長がさ。、男のことで悩んでんじゃないかってさ、気が付いてんだぜ。そりゃあ、気が付かない奴の方がおかしいって」
 言っては何だが、夏侯惇は鈍いので有名だ。
 鈍いと言うより、仕事と曹操の動向だけで頭がいっぱいになっているのだろうとなどは思うのだが、周囲から露骨に向けられる好意に気が付かないでいられる辺り、大した差もなかっただろう。
 夏侯惇が気付いたのであれば、の噂はTEAM魏中に広まっているのかと思いきや、そうではないらしい。
 あくまで一部が気付いたのみで、夏侯惇が気付いたのは煙草の話からだということだ。
 も、それで一応安心した。
 煙草の話は、夏侯惇にしかしていない。
 こんな話をフロア全体に知られているとしたら、もう死ぬしかないとまで思えていた。
「……悩んでるように、見えてたのかなぁ」
「見えてたんでしょ」
 もっとも、問題はそれ以前であり、故に深刻だった訳だ。
「ま、気が付いたんだったら、対策の立てようもあるでしょ」
「……そうかな……」
 一人ごち、そして考える。
 悩んでいることにすら気が付いていなかったにせよ、とにかく悩んでいたことは露呈した。
 ならば、悩みを解決するべく動く算段は付いた訳だ。
「……そうかも」
 うん、と頷き、否定し続けていた気持ちを受け入れる。
 すると、不思議なくらい気持ちが穏やかになった。
 暖かく、くすぐったくさえ感じられて、自分でも自分がよく分からなくなる。
 けれど、悪い気はしなかった。
「じゃ、呑むか」
 いつの間にか一杯目のシャンパンを飲み干していたは、手酌で二杯目を注ぎに掛かる。
「ちょ、飲み過ぎないでよ?」
「何でよ」
 至極当たり前に答えるに、は黙り込んだ。
「……ちょっと、まさか相談乗ってくれないつもり?」
「乗ってくれないつもり」
 ぱっきり断られる。それぐらい手前一人で考えろと投げ捨てられ、はあんぐりと顎を落とした。
「色恋沙汰なんてクソ面倒くさいもん、一切関わり合いになりたかないのよ!」
 力強い拒絶に、直後から、部屋の装飾に似合わぬけたたましい論争が始まるのだった。

  終

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