が夏侯淵の唇を奪ってから数ヶ月が経った。
 あれだけしたのだから、何らかの変化が訪れていてもおかしくない。
 だが、実際は、何ら変わらぬ日常が待ち受けているのみだった。
 本当に、何も変わらない。
 朝起きて、出社して、仕事して、昼食を取って、また仕事をして、帰宅して、寝る。
 飽きず繰り返している。
 飽きても、繰り返している。
 繰り返さざるを得ないのだ。何も、本当に何もないのだから。
 そしては、いい加減に嫌になってきていた。
 情けない。
 自分も、夏侯淵も、何もかもだ。
 短期とは言え、仕事のプロジェクトに参加したせいも、確かにあるとは思う。
 けれども、一分の隙もなく仕事に没頭してきた訳ではない。
 出来る限り仕事に情熱を回すのは当然としても、夏侯淵が抱えた案件の中に、との関係というタイトルがないらしいことは、端から見ていても分かる。
 寂しい。
 片思いでも構わないと見栄を張ってみたりもするのだが、すぐに虚しさに駆られて撃沈しているような有様だった。
 何に付け、一つの感情を継続する為には大変な根気と努力と、他方面からの影響が重要になるらしい。の恋心は、今、儚く萎れかけていた。
「どうした」
 ちょうどその時、喫煙ルームに夏侯惇が入ってきた。
 一時期は禁煙も夢ではなかった筈のに、はまたここに戻っている。夏侯惇とも、再びヤニ仲間に戻っていた。
 懐からシガーケースを出そうとする夏侯惇を手で制し、はカウンターに置いていた自分の煙草を差し出す。
 夏侯惇は、無言で煙草を抜き取ると、口に咥える。貰い煙草の時、火は、自分で点けるのが二人の暗黙の了解になっていた。
 しばらくの間、二筋の紫煙が気怠げに揺れる。
「……呑みにでも行くか」
 ぽつりと夏侯惇が漏らし、は、沈黙の後に頷いた。
 未だ長い煙草を押し潰して、夏侯惇が背を向ける。
 軽く掲げた手に向け、は頭を下げた。
 そして溜息を漏らす。
 無言で勧める煙草が相談の合図、煙草一本が相談料、という新しい暗黙の了解が出来ていた。
 女子職員達が、またも要らぬ妄想に駆られて大騒ぎする算段は高い。
 それでもは、誰かに吐き出さずには居られなかったのだった。

 店は、夏侯惇の知っている店とやらに連れて行かれた。
 昔馴染みだという小さなスナックは、間口が狭い割にやたらと長い。
 カウンターの奥には更に細い通路が続いており、灯りもほとんど見えないその向こうに、何が潜んでいるのか想像するのも不気味だ。
「……すまんな、小汚い店で」
「申し訳ないね、小汚くて」
 マスターが軽口で応じ、水割りの入ったグラスを二つ置いていく。
「おい、注文してないぞ」
「奢りだよ。あんたが妙齢の女性を連れてくるのは、珍しいからな……孟徳ならともかく」
 言い捨て、そのまま立ち去っていく。
 夏侯惇が渋い顔をしているのが、妙に滑稽だった。
「笑うな」
「笑ってません」
「笑いそうな顔をしていた」
 渋面のまま水割りを煽る夏侯惇に、は堪え切れなくなって吹き出した。
 ずいぶん前から入り浸っていたのかもしれない。
 店に入ってから、夏侯惇の表情はどこか柔らかかった。
 も水割りに手を伸ばす。
 普段はあまり口にしないウィスキーの香りが、水で薄めたにも関わらず甘く香る。荒く削り出された大きな氷が一つ、適当に突っ込まれたとしか見えない無愛想なグラスなのに、薄暗い照明からの光を弾いて、酷く艶めいて見えた。
「美味しいですね」
 感嘆を含む声に、夏侯惇は薄く笑う。
 その横顔もまた酷く艶っぽく見えて、の心臓を強く射抜いた。
 何となく俯くと、グラスの中に沈んだ氷が、かろんと涼しげな音を立てる。
 笑われたような気がして、浮き上がり掛けたの心は、見る見る冷めていった。
「……何か。人の気持ちって、よく分からないですよね」
 夏侯淵の気持ちが透けて見えれば、はこんなに不安になることはなかっただろう。
 あり得ない話を仮定するのは馬鹿馬鹿しいが、今のは半ば本気でそう願っていた。
 そうであったら、少なくとも諦めることが出来た筈だ。
 変わり映えしない日常こそが夏侯淵の返事と、薄々気付きながらも未練が募る。
 ない、とはっきり断られたこともある。
 駄目だと、遠回しながら断られたこともある。
 それでも尚、夏侯淵からの『返事』を待ちわびている自分は、まるでストーカーのようだ。
 の自己嫌悪は度を増すばかりである。
「そんなものだろう」
 夏侯惇の言葉に、は反射的に眉を吊り上げていた。
 慰めのつもりであれば、お門違いも甚だしい。そんなものであって良い訳がないのだ。
 ノーを受け入れられない、イエスだけを待ち焦がれている女など、ストーカー以外の何者でもないではないか。
 自分で自分を見下げ果てる。
 これ以上苦しいことはない。
 何故なら、自分をどれだけ厭おうと、自分は切り捨てられないからだ。
 そんな風に、胸の内でとはいえ夏侯惇に噛み付いている自分が嫌になる。
 嫌になって、厭わしくなって、どんどん自分が嫌いになる。
 粘っこい怒りが体の奥底で練られ、神経を徐々に浸食していく感覚に、は大きく身震いした。
「俺も、よく分からん」
 一瞬、の視界は真っ白に染まった。
 白がもたらす無が、を埒もない妄想から立ち返らせる。
「……分からないって、えっと、ちゃんのこと、が?」
 そんなまさか、とばかりのの言葉も、夏侯惇の頷きによってあっさり認められてしまった。
 えっと、と何度も繰り返し、は頭の中を整理する。
「……えっと、でも……でも、ちゃんは確かに、年も離れてるし割に天然なとこあるし、分かり難いとは思いますが……」
 付き合っているのだろうに。
 どうしても滲み出る本音に、夏侯惇が苦笑いを浮かべる。
「……付き合っていようが、そんなものだ。そもそも、俺自身に然したる自覚がないからな」
 黙り込んだ夏侯惇の横顔を、は遠いものを見るように見つめた。
 男と付き合ったことがない訳ではないが、縁がなく処女を捨てるに至らなかったには、体を繋げても尚、その先に続く何かがあるということがよく分からなかった。
 勿論、離婚するカップルが実在する以上、の思考など一笑に付されるに違いない。
 頭では理解できるのだが、染み通るようにとは、なかなかいかないというのが本音のところだ。
 形の定まらないもやもやとした感情を持て余すは、新たな客の訪問を告げる鈴の音にふと顔を向ける。
「……お」
「夏侯淵部長?」
 思い掛けない人の登場に、は必要以上に驚いてしまっていた。
 の姿を認めて笑みを浮かべた夏侯淵は、その視線を手前の夏侯惇へとスライドさせる。
「何だ、惇兄も一緒か」
「あぁ」
 あれ、とは小首を傾げた。
 何となく、ではあったが、奇妙な違和感を感じる。
「そっかぁ、そんなら俺は、退散するとすっかな」
「何だ、呑みに来たんだろう」
 夏侯惇が隣のスツールを指すが、夏侯淵は笑って手を振ると、そのまま背を向けた。
 あれ、あれ、と、何故か無性に心が焦る。
「夏侯淵部長、私、帰りますから……」
 スツールから飛び降りると、夏侯淵が首だけ振り返り、口元で『いいよ』と笑いながら、冗談めかして吐き捨てる。
 いつもと変わらない軽口、仕草だというのに、違和感が消えない。
 進退窮まって立ち竦むを、夏侯惇は不思議そうに見遣るのみだ。
 細長い造りの店を、カウンターに指を滑らせながら去っていく夏侯淵の姿がどんどんと遠ざかる。
 りりーん、と、涼やかな音が店に響いて、音が消えた後も見えない波紋が未だ空気を震わせているような錯覚を覚えた。
「……どうした、淵の奴、えらく不機嫌そうだったじゃないか」
 マスターが、お代わりを手にやって来て、そんなことを言う。
 の顔から血の気が引いた。
「そうか?」
 夏侯惇はわずかに顔をしかめていて、マスターの言葉には懐疑的なようだった。
「わ、私、ちょっと追っ掛けて来ます」
 飛び出そうとするを、夏侯惇が引き留める。
「やめておけ」
「でも」
 夏侯惇は、新しいグラスに手を伸ばすと軽く振った。
 氷がグラスの中を転がり、かろんかろんと心地よい音を立てる。
「俺に分からないように怒っているなら、淵は何も言わん」
 夏侯惇が口にした分、何より重い言葉だった。
 は泣きたくなるのを堪え、夏侯淵が閉ざしたドアを未練がましく見つめていた。

  終

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