「おい、一本頼む」
 声掛けられた瞬間、の眉は露骨に歪んだ。
 真正面からその眉を見せ付けられた夏侯惇は、たじろいで固まってしまう。
「あ」
 考え事をしていた為に剥き出しで曝してしまった表情だったので、は上手い言い訳の一つも思い付かない。
 言葉に窮して、結局素直に白状するより仕方がなかった。
「……すいません、煙草、変えろって言われて」
 今度は夏侯惇が眉を顰めた。
 それはそうだろう、とて、いきなりそんなことを言われた日には訳が分からないに違いない。
 無言のままに煙草を差し出すと、夏侯惇は慣れた仕草で一本抜き取る。
 この、何気ない仕草が格好良くて、はそんな夏侯惇を間近で見られるささやかな幸福に、喫煙者で良かったと思ったこともあった。
 だが、今は違う。
 夏侯惇の仕草にうっとりするよりも先に、苦い『忠告』が胸を過ぎり、腹の底まで重くするのだ。
 悩み、煮詰まって、頭をぼりぼりと掻きむしる。
 女らしくない。
 そんなことを思った瞬間、何故か泣き出したくなる。
 ちょっとした鬱状態そのもので、も自身を持て余していた。
 夏侯惇が困惑しているのが分かり、情けなさに拍車を掛ける。
 尊敬する上司を困らせること程、惨めなことはない。
 少なくともはそうだった。
「……何か、あったのか」
 夏侯惇が誘い水を向けてくる。
 ある意味、この言葉を引き出す為に頭を掻いてみせたのかもしれない。
 ぱっと閃いた考えが、自分を更に暗澹とさせる。何と言う甘ったれかと、唇を噛み締めた。
「いえ」
 甘えては、いけないと思う。
「いえ、何も」
 確認するように二度、念押しに『何も』と付け足して、は夏侯惇の好意を踏み躙った。
――あー……。
 思考の泥沼に陥る。
 何をしても、何を考えても、どんどんネガティブに突き進んでしまう。
 闇に包まれた迷路を行くが如し。
 最近のは、仕事も私生活もそれはそれは惨憺たる有様だった。
 契約は取れない、ケアレスミスを繰り返す、つまずく、引っ繰り返す、叱られ怒鳴られ、呆れた挙句に心配される。
 最悪だった。
 一人前になるのがの夢だ。
 確かに近付いている手応えを、つい最近まで感じていたのがまるで嘘のようだ。
 あるいは、今の自分こそが本来の自分で、火事場の馬鹿力の効能が切れたが故の現状なのかもしれない。
 そうとは思いたくない。
 ないがしかし、顔を背けたくなるのが現実という奴ではないか。
 が認めたくなければない程、却ってそれが事実のように見えてくる。
 本当に、始末が悪かった。
 夏侯惇は、煮詰まるから目線を外し、もらった煙草を咥えた。
 首を傾げるようにして、火を付ける。
 斜めに流れる髪の線、口元を覆った指の間から零れるライターの火の加減が、酷く艶っぽい。
 こんなことを言うと気を悪くされそうで言えなかったが、夏侯惇が煙草が吸う姿はいい意味で『いやらしい』とは思う。
 気だるそうな横顔が廃退的で、普段のストイックさとのギャップに打ちのめされそうになる。
 煙草の煙を美味そうに吸い込むと、ゆっくり静かに吐き出す。
 細過ぎもしない、かと言って下品に吐き出しもしない煙が、いっそ芸術とでも言いたいくらいに流麗な線を描き出した。
 は、その煙に見惚れて一瞬思考のループから解放される。
 ぐちゃぐちゃに押し込まれた頭の中に、ほんのわずかだがぽっかり空白が出来た。
 そこに、夏侯惇の言葉が切れ込んでくる。
「男でもできたか」
 ぶふぉ、と盛大に咳き込んだ。
 ぎちぎちに詰まった枠の感覚がなくなった分、その言葉はストレートにの心臓にヒットする。
 思考のループから解放どころか、思考のループごと完膚なきまで破壊する衝撃だった。
 肺に溜め込んだニコチンが、一気に毛細血管を詰まらせるような感覚に、は泣きながらむせる。苦しいなどという生易しいものではない。
「……おい、大丈夫か」
 ぶっきら棒に言ってはいるが、宙をうろうろ彷徨う手が夏侯惇の動揺の程を指し示している。
 クールには成り切れない性格も夏侯惇の魅力の一つと思うが、今のにはそんなことを考える余裕もなかった。
 げふげふむせていると、達の居る喫煙室に誰かが入って来る気配を感じる。
 迷惑になると、咄嗟に背を向けた。
 その背を、誰かが擦ってくれる。
 夏侯惇ではない。
「はい」
 差し出されたハンカチに、は目を向けた。
「洗って返してくれれば、いーデスよ?」
 はい、と更に口元に押し付けられ、濡れた唇がハンカチに触れる。
 仕方なくハンカチを受け取り、受け取ると遠慮がなくなって、借り物のハンカチをぐっと口元に押し付けてしまった。
 むせ続けていることには変わりないが、涎を撒き散らす心配がなくなったと言うだけで、ずいぶん気が軽くなる。
 ハンカチの持ち主は、の背を熱心に擦ってくれていた。
 しばらくそうしていると、ようやく咳が納まってきた。喉は痛いが、これはしばらく仕方がないだろう。
「……ありが、と……」
 人心地付いたが振り返ると、そこに居たのはだった。
 ほとんど瞬きもせず、不思議な色合いの目を丸くしてを見ている。
 人形のようだ、と改めて思った。
 そして、わずかながら恐怖に似た感覚も覚える。
 の目には、その特殊な色合いのせいか、光がないように見える。本物の人形に見詰められているような、そんな不安がどうしても消えない。
「ハ、ハンカチ、弁償する、ね」
 声が震えているのをどう思っているのか、の申し出には答えず、夏侯惇を振り返った。
「惇さん、電話ー」
 間延びした声に、夏侯惇の眉間に皺が浮かび上がる。
「誰からだ」
「曹操サマからッスよー。折り返し、惇さんの性生活を報告しろって言ってたッスー」
 夏侯惇が盛大にむせる。
 を見遣ると、はくるりと首から上だけをに向ける。
「ハンカチ、もうないデス」
 否、そうでなく。
 思わず手首の返しでツッコミを入れるに、は小首を傾げて夏侯惇の傍に歩み寄る。
 背を撫で始めるが、何だか投げ遣りな風だった。
 が見ていることに気付いたは、思案気に夏侯惇を見下ろす。
「おとっつぁん、お粥ができたわよ」
 否、そうでもなく。
 のツッコミが続く。
 どうしようと悩みつつ、は自分のハンカチを引っ張り出した。一応、営業の嗜みとして、ハンカチの一枚は持ち歩いている(女の嗜みだろうと思わないでもない)。
 に差し出すと、はきょとんと首を傾げる。
 やっぱり、何か普通と違うと思う。
 ぐいっとに押し付けるように差し出すと、ようやく理解したのか、素直に受け取って夏侯惇に渡してくれた。
 夏侯惇はハンカチを受け取り、と同じように口に当ててげふげふむせている。
 やがて、落ち着いた夏侯惇が深々と息を吐いた。
「すまんな、洗って返す」
「弁償しないとダメッスよ、惇さん」
 間髪入れずにが突っ込み、夏侯惇の眉間にまたも皺が浮く。
「あ、いいです……」
 手を差し出すに、夏侯惇はしばらく考え込み、首を振った。
「……いい、新しいのを買って渡す。すまんが、それで構わんか」
「あ、えぇと……はい……」
 別に弁償してもらう程上等なものでもないのだが、逆にどうしても返して欲しいものでもなく、は遠慮がちに頷いた。
 夏侯惇は軽く頷き、さっさと喫煙室を後にする。
 と残される羽目になったは、否応なしに強烈にを意識する羽目になった。
 そう言えば、と二人きりになるのは初めてかもしれない。
 どうして夏侯惇と一緒に出て行かなかったのか、正直良く分からない。
 とはいえ、一緒に行きなよと言うのも大層おこがましくて、は手持無沙汰に煙草を咥えた。
「……あ、……いい?」
 いいも悪いも、そもそもここは喫煙室なのだが、何とはなしに訊いてしまう。
 はこっくり頷き、も恐る恐る煙草の先に火を点けた。
「変えても、いいと思うデスよ?」
 いきなりの言葉に、の手が止まる。
 どう答えていいのか分からず、は悪戯に戸惑う。
 咥えた煙草が唇から外れそうになり、慌てて指で摘む。
「……あ、煙草の話?」
 むせ込んで忘れていたが、煙草を変えろと言われていたのだ。
 思い当ったはいいが、それはを思考のループに引き戻そうとする。
 防いだのは、ではなくだった。
「変えなくても、イイと思うのデス」
「…………」
 どっち、と内心で突っ込みたくなる。
 の指がくるくると円を描きながら天を差す。
「どっちでもイイのデス」
「…………」
 心を読まれているような気にさえなる。
 けれど、不思議と不快感はなかった。
 いつの間にかもこの少女に慣れて、『そういう』子なのだと認識し始めていたのかもしれない。
「それでイイのデス」
「……あー」
 もうどうでも良い気がして、はおざなりに頷いた。
 実際、悩んでいても仕方のない話だ。
 噂がどうしても煩わしいなら、煙草の銘柄を変えればいい。
 人の噂も七十五日と流す覚悟が出来たなら、ガン無視して吸い続ければいいだけだ。
「問題は、」
 の思考に、が割り込んできた。
「どうして悩んでたのかってコトですヨ?」
 微妙に発音が変わっているような気がして、その分、このの言葉には、何か重大な意味があるような気になった。
 発音自体、の勘違いかもしれない。
 の深い緑の目が、の奥底を見詰めているような錯覚に囚われる。
――やだ。
 いわれもなく悲鳴を上げてしまいそうになった時、はすっと目を逸らし、喫煙室を出ていった。
 は、が戻って来るのではないかとびくびくしながらその背中を追う。
 廊下の角を曲がっても、が振り返ることはなく、は胸をそっと押さえた。
 異常なくらいドキドキしている。
 別に、に何をされた訳でもない。何をそれ程怯えているのか。
 自分が馬鹿に思えて、しょうがなかった。
 心を覗かれるとか、そんなことがある訳がない。
「………………あれ」
 苦笑を浮かべるくらい余裕を取り戻したは、ふと、あることに思い当った。
 が『煙草を変えるように言われた』と打ち明けた時、はそこに居ただろうか。
 答えは、否だ。
 ぞっとした。
 別のことを言っていたのかもしれない、と思い直すも、心当たりは全くない。
 ちょっとしたホラーを体験した感じだ。
 茶化しながらも、は背筋に走る寒気を堪え切れなかった。

  終

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