「行ってきます!」
声と同時に駆け出すの背へ、夏侯淵のおざなりな励ましが投げ掛けられる。
大きくもなく、距離もあるのでの耳には微かに届くか届かないかだったが、はしっかりと聞き分けていた。
けれど、聞こえない振りをする。
突然の『お試し』から十数日。
は、元の業績を取り戻していた。
どころか、既に以前のペースを遙かに上回る契約数を叩き出している。今週のみを累計すれば、実にTEAM内一位の好成績だ。
普段であれば初の一位獲得に浮き足立ちそうなところだが、今のはそんなことにも気付いていなかった。
デスクに戻ればパソコンに向き合っているし、終わればさっさと外回りに出て行く。
どうも、帰宅してからも資料作りや新規開拓の情報収集に勤しんでいるらしく、少し顔色が悪いのではないかと案じている女子社員などもぽつぽつ出始めているような案配だ。
見るからに生き急ぐような熱心さに対し、その理由を知る者は皆無だ。
が何も打ち明けないのだから、当たり前の話ではある。
だが、にしてみれば打ち明けられようもないのだから致し方がない。
それでなくとも誰かに相談するような余裕もなく、また余裕を作らないようにするべく必死になっていたのだった。
理由は、正直くだらない。
夏侯淵のことを考えないように、必死になっているだけだ。
詳細を突き詰めれば、更にえげつない。
問題の焦点は、『お試し』の夜まで遡る。
夏侯淵の『お試し』に腰を抜かしたは、夏侯淵に抱えられて玄関ホールまで降りた。
さすがに誰かに見られてはまずいと、下ろしてもらう。足がふらつくが、何とか歩くことは出来るようだった。
「大丈夫か、おい」
気にしないで抱っこされてろと手招く夏侯淵を振り切って、はヒールで踏ん張った。
こんなところを誰かに見られたら大変だ、という心配は元より、子供扱いするような『抱っこ』という言い方が猛烈に恥ずかしい。
別に今に始まったことではなかったが、夏侯淵と初めてのキスを交わした直後とあって、の体は異常な程に過敏になっていた。
この状態で夏侯淵の腕に抱かれていたら、頭がおかしくなってしまいそうだ。
無邪気な好意を振り切って、は裏口を抜けて外に出る。
夜の湿気っぽい空気に息苦しさを覚えながら、は駅に向かおうと爪先を向けた。
そのの肘が、夏侯淵に捉えられた。
「どこ行こうってんだ」
「え」
無論、帰るのだ。
「んな足でか。やめとけやめとけ、電車が揺れる度にピンボールやられた日にゃ、他の乗客に迷惑だろ」
それはそうかもしれないが、ではどうしろと言うのだろう。
がまごついている間に、夏侯淵が空中に向けてすっと手を伸ばす。
すぐさま緑色の車が止まった。
タクシーだ。
「えぇっ! 今からうちまでタクシーなんか使ったら……」
の家は、都内とはいえ郊外に近い方にある。深夜料金も加算される訳で、想像するだけで胃が痛くなった。
仕事ではないから経費に計上するわけにもいかないし、自腹を切るには辛い金額だ。
「んーなこと言ってる場合か。さっさと乗れ、迷惑だろが」
先に乗り込んだ夏侯淵に引っ張り込まれる形で、もタクシーに乗り込む。
「ほれ、お前んちの住所」
タクシーの運転手にも注視され、は渋々マンションの住所を口にする。
「へぇ、お前、あそこに住んでんのか」
夏侯淵の軽口に、何故か顔が熱くなる。
単なる会話の繋ぎと分かっていても、夏侯淵に自分の何かを知られるのが恥ずかしかった。
自分に興味を持ってくれているのだろうかと淡い期待をしてしまうことも、焦って馬鹿みたいに否定して、尚でももしかしたらと思ってしまう自分の緩さも痛過ぎる。
それきり声もなく、タクシーの中は無言で満ちた。
長い間そんな時間が続き、タクシーはようやくのマンションの前に着いた。
不自然な沈黙が終わりを告げたことにほっとして、財布を取り出す。
の視界の隅に、夏侯淵の腕が伸びた。
「お釣りを……」
「あぁ、いい、いい。缶コーヒー代くらいにしかならんと思いますが、取っといて下さい」
運転手が笑みを浮かべて礼を述べ、はそのまま車外に押し出される。
タクシーが走り去って行っても、は財布を抱えて呆然と突っ立っていた。
「……おら、どした。早く家に帰れ」
「いや、でも、タクシー代が……」
言い差し、どきりとした。
を送って行くだけであれば、何も夏侯淵まで降りなくてもいい筈だ。
これは、もしかして、そういうことなのだろうか。
夏侯淵は、黙ってを見下ろしている。
視線が刺さる。
刺さった場所が妙にざわざわして、は背筋に走る感覚に身震いした。
「あの」
「あぁ、いいっていいって」
――何も言わなくて、いいってことだろうか。
の目は熱く潤み、心臓は狂ったように鼓動を打ち鳴らしている。
「……あの、上がって……お茶でも」
陳腐な台詞だが、こうして実際に口にしてみると、実に使い勝手のいい言葉だ。
露骨に過ぎず、分かりやすい。
世話になったからというお題目が、部下であり女であるに行動する正当性を与えてくれる。
大胆にも夏侯淵の袖を掴み、引っ張る。
夏侯淵の指がの指に触れ、掴んだ。
あ、と小さな掠れた声は、夏侯淵の声で掻き消された。
「いや、お前の腰も治ったみてぇだし、俺様はここで退散しとくわ」
けろっとして言い放つ夏侯淵の顔には、の誘いに気付いた気配すら微塵もない。
それが証拠に、早々に背を向け、ひらひらと手など振っている。
「ちょ」
ちょっと待て、と眉間に皺が寄る。
が言うべき台詞ではないかもしれないが、『ここまで来ておいて』何だというのだ。
「……部長!」
駆け寄り、伸ばした手が夏侯淵の背に触れ、掴み切れずに滑って落ちた。
夏侯淵が振り返る。
「あ、の、でも……タクシー、帰しちゃったし……そうだ、うちから電話して、呼びますよ、タクシー。この辺、あんまり来てくれないし」
我に返り、慌てて言い繕ってしまう。
勝手に盛り上がっておいて、期待を裏切られたように考えるなど身勝手も甚だしい。
一緒に降りたのだって、がなかなか降りようとしないから、または未だきちんと歩けなかったことを案じてのことかもしれないのだ。
思い違いしたのは、どう考えても自分の方としか思えない。
夏侯淵は、首を傾げてを見下ろしていたが、不意にその頭をぽんぽんと軽く叩く。
「んーな気ィ使ってくれなくていいって! お前は明日も仕事だろ、早く帰って寝ろ寝ろ!」
つい今しがた、あれ程濃厚な口付けを交わしたとは思えないくらい明るく、やましいことなど欠片も感じさせずに夏侯淵は笑う。
――あれー?
何かがおかしい。
訝しさはから思考能力を奪ってしまう。
「俺も、昔、この辺りに住んでたことがあっからな。仕事で夜中飛び出さにゃならんこともちょくちょくあったから、タクシー確実に捕まえられるポイントは押さえてあんだ。それに」
一旦切って、声を顰めた夏侯淵の顔は、実に悪戯っぽく魅力的だった。
「……さっき言っただろ、勃っちまったって……それの、発散に行ってこにゃならんからな!」
がっはっは、と豪快に笑われ、肩を叩かれる。
「そんじゃま、そう言うことだからよ。自分ち帰るまで、気ィ抜くなよ?」
夜道は危ないからな、と元気良く去っていく夏侯淵を、は強張った顔で見送った。
黙って見送るのが、精一杯だった。
は、自分の中に沸いた疑問を形にするのに、実に二日間を要した。
分かってしまえば、そこまで悩むようなことでもない。
ただ、問題は(にとっては)深刻だった。
答えを聞いていないのである。
勇気あるいは蛮勇の限りを振り絞り、夏侯淵にわがままと詰られても求めた答えを、はもらっていない。
その上、夏侯淵の反応は謎の一言に尽きた。
口付けを交わした後は『勃った』と言い、その気があるのかと思いきや、どこかで(恐らくは風俗で)発散してくると、よりにもよって自分を好きだと喚いたに堂々宣言して去っていく。
これをどう受け止めていいのか分かる者が居るなら、教えて欲しいくらいだ。
今回ばかりはを頼ることも出来ない。
否、だからこそ頼れない。
が暴走する恐れもあるし、何より『勃ったと言われた』『でも風俗に行かれた』という前提を口にし、どう思うかなどと訊くこと自体が恥ずかしかった。
ならばが直接訊くしかないのだが、それも出来かねている。
振り絞れる勇気は、あの夜すべて絞り切ってしまっていた。絞りカスすら残っていない。
結局、は仕事に逃げる道を選んだ。どれだけ必死に逃げているかが、仕事の成果に現れている次第だ。
危機迫るの様と、余計なことを考えないよう凄まじく集中して作り上げられたデータや計画書が、取引先にNoを言わせないらしい。
同僚達も、どこか抜けているが挙げる多大な業績に、尻に火が付いたようにせかせかと走り回るようになっている。
期末でもないのに泡吹く寸前の馬車馬のような仕事振りに、喜んでいるのは夏侯淵くらいなものである。ほとんどの者は、冒頭のように心配しているような有様なのだ。
夏侯惇をして、『大丈夫なのか、アレは』と一人ごちているのだから相当なことだ。
だが、口出しなぞさせんと言わんばかりの、独特なオーラに気圧されているのもまた事実である。
抑えられそうなのは曹操くらいなものなのだが、曹操は薄く笑うばかりで一切の言を慎んでいた。
よって、この暴走する群れを止められる者は、現在ただの一人もいない。
「」
時計は終業時間のわずか五分前を指していた。
珍しく帰社して来たに、夏侯淵が声を掛ける。
の肩が、びくんと跳ねた。
基本的に、TEAM魏では営業の直帰は暗黙の内に認められている。
それに相応しい成績を上げることが出来ればという、やはり暗黙の内の条件付きではあったが、はそれを無視(一応達成はしているのだが本人が気付いていない)して、ここ最近はフルに活用しまくっていた。
一斉に終業するTEAMの体質から言って、終業時間寸前に帰社すれば、夏侯淵と顔を合わせる確率はぐんと上がる。
顔を合わせれば声を掛けられるに決まっているし、掛けられたら何といって返していいのか分からない。
最早、本能とも言うべきレベルで夏侯淵を避けていたにしては、迂闊と言うべきだった。
ただ、頑ななのプライドは、飛び込み営業するにも半端で相手にも迷惑を掛けることも、就業時間内であるにも関わらず家に帰ったりお茶して時間を潰すという所業も許してはくれなかった。
ちょっとデスクに寄って、積んだままの書類を整理しようと戻ってきたところを、偶々夏侯淵に見付けられてしまった訳だ。
夏侯淵も、直帰も時間内に戻らないことも多い人であるが故に、この日のはツいていなかったと評されるべきか。
ともあれ、は上司たる夏侯淵を無視する訳にも行かず、錆び付いてしまったかのような首の筋肉を制して振り返る。
「な、ナンでしょーか」
あからさまに声が引っ繰り返っているが、どうしようもない。
夏侯淵は気にすることもなく、にこにこと愛想良くに笑い掛ける。
「今日、暇なら呑みに行かねぇか?」
――わぁ、フツーだー。
白い灰と化すの心に、ふっと冷たい風が吹き抜けて我に返った。
「きょ、う、は、用事、が、ありますん、でっ……!」
「そっかー……そいつは残念だな」
夏侯淵は、露骨に挙動不審なの姿に何がしかを思い至ることもなく、素直に返して素直に立ち去った。
デスクに両手を着いて五分、固まったまま立ち尽くしていたは、不意にその場ダッシュする。
周りの同僚は仕事に没頭していて、あるいは終業後の片付けに気を取られていて、誰もの異変を見ていなかった。
突然フロアに沸き起こったつむじ風に、疑問は感じても深く考える者はなく、は一人帰宅の途に着いた。
終