家に帰るつもりだったのに、いざ駅に着いてみると無性に帰りたくなくなっている。
 食事時で賑わう最中、一人で寂しく店に入る気にもなれず、はとぼとぼと足を進めた。
 ふと思い付いて、来た道を引き返す。
 後ろを歩いていた人が迷惑そうに顔を顰めたことにも気が付かず、は一路目的地に向かった。

 半地下の店は、相変わらず胡散臭い雰囲気に満ちていた。
 人の気配はひしひしと感じるのに、肝心の人の声はあまり聞こえない。
 いつもは、半ば強引にに連れられて来ていただけに、一人で入るのはこれが初めてだ。
 躊躇するなら店の前でしておけばいいものだが、何故か自然に扉を潜っていた。
 来客を知らせる鐘も付いていない不用心な作りの扉だったから、今の時点での帰還を阻む者はない。
 幸い、いつもカウンターから来客を見張っているような女主人の姿もなく、は今の内に帰ってしまおうかと扉に向き直った。
 その扉が急に開かれる。
 慌てて飛び退るの前に、どうしてだか夏侯淵が立っていた。
「……おぉ?」
 夏侯淵が目を瞬かせている。
 も、あまりの偶然に言葉もない。
「いらっしゃい」
 急に声掛けられて、はその場で飛び跳ねる。
 居なかった筈の女主人が、いつの間にかそこに居た。陰鬱そうな表情で、を見据えている。
「あ、あ、ごめんなさい……」
 思わず詫びてしまうに、夏侯淵はますます訝しげな視線を投げ掛けた。
「どうぞ」
 女主人がカウンターから出てきて、先導する。
 いつもは暗号めいた部屋の指定をぼそりと呟くだけだというのに、いったいどんな心境の変化か。
 しかも、敬語である。
 常にタメ口を聞く女主人の初めての敬語は、却ってを落ち着かなくさせた。これが当たり前の店の者の口の聞きようだと思っていたのに、いざ敬語で話されると落ち着かなくなるというのもおかしなものだ。
「こちらで」
 案内されたのは、無機質な薄暗い部屋だった。狭い。部屋の真ん中に、四角いテーブルとパイプ椅子のみが配置されている。
 どこかで見たような、と思い返す間も不必要なくらい、歴然と取調室の風体を醸している。
 鉄格子こそなかったが、ご丁寧に無意味な鏡まで設置されていたから、いっそ感心してしまう。
 この間のような乙女チックな個室に通されても困るが、かと言っていきなりこんな部屋に通されるのも困る。
。あんた、部長さんにうちのこと、説明しておきな」
 先程までの敬語は、どうやら夏侯淵向けだったらしい。いつものぶっきらぼうな物言いに戻ると、女主人は部屋を出て行った。
 それまで黙っていた夏侯淵が不意に口を開く。
「お前、ここの常連だったのか。かぁー、世の中狭いぜ」
 どういう意味かと問い返すと、夏侯淵はこの店が一見さんお断りだということを知っていながらやって来たのだそうだ。
 店の前を通り掛かることは何度かあったが、何故か入ろうとは思わなかったらしい。
 ひょんなことから、この店が一見お断りかつ常連の紹介が必須で、しかも女主人が許可を出さねば入れてももらえないというおかしな店であることを知った。
 店の常連には知り合いは居なかったし、そもそも行こうとも考えたことはなかったのだが、何故か今日に限って猛烈に行ってみたくなったのだとか。
「お前誘ったのも、まぁ同志が居ればばつが悪いのも薄まるかと思ってな」
 そういえば用があるのではなかったかと痛いところを突っ込まれ、は曖昧に笑う。
「何か、俺がツレだと思われちまったみてぇだったけども、誰かと待ち合わせてるんじゃなかったのかよ」
「え、えぇと……」
 どう言ったものだろう。
 正直に話せば嘘を言ったことがばれるし、さりとて良い言い訳も思い付かない。
 突然、鏡が開いて女主人が顔を出した。
 夏侯淵もびっくりしている。
 女主人は、無表情にビール瓶と凍り付いたグラスが乗った盆をに突き出した。
 思わず受け取ると、更に湯気の立つ枝豆の入ったザルが突き出される。
 そちらは、夏侯淵が受け取った。
 鏡が閉まり、女主人の姿が消える。
 代わりに、呆然としたと夏侯淵の顔が、並んで鏡に映し出された。
 はっとして互いに顔を向き合わせ、ぷっと吹き出す。
 笑い転げてビールをひっくり返しそうになり、焦りながらパイプ椅子に腰を下ろした。
「何か、取調室みたいな場所だな」
 言い差し、夏侯淵はビールを注ごうとしていた手を止める。
「……注文、してなかったよな?」
 そういえば、そうだった。
 けれども、はこの店の『そういうところ』にそれなり慣れているので、夏侯淵ほど訝しくなることもない。
 そういえば説明しておけと言われたのだと、不意に思い出した。
「すいません部長、説明してなかったですね。この店、こういう店なんです」
 詳しい訳ではないながら、知っている限りを話して聞かせる。
 話しながら、商売としてどうなんだろうと改めて感じるが、この店をひいきにする常連の数は少なくない。あまり増えても困るが、一軒くらいならこんな店も悪くはないのかもしれない、と思い至った。
 の解説を一通り聞き終えた夏侯淵は、それなり納得しながらも不可解そうに首を傾げる。
「……まだ、何か?」
 説明が足りなかったろうかと訊ねると、夏侯淵は奇妙な唸り声を上げた。
「いや……お前、気付いてなかったか?」
 何がだろう。
 が首を傾げ返すと、夏侯淵は低い唸り声混じりに溜息を吐き出した。
「俺の気のせいかもしんねぇけどよ……あの女、俺のことを部長さんって呼んでなかったか」
 はたと考え込み、記憶を辿る。
 言っていた。
 確かに、夏侯淵を、部長さんと言っていた。
「え……ええっ!?」
 夏侯淵は、初めてこの店を訪れている。
 勿論、が紹介した覚えはない。
 鉢合わせした時に口走ったのかもしれないが、あやふやな記憶ながら、夏侯淵に呼び掛ける余裕はなかったような気がする。
 ならば、女主人はいったいどこで夏侯淵を『部長』と判じたのか。
「……ただの、お愛想かもしれねぇけどな……」
 社長大臣大統領の類と同じで、祭り上げたい対象を嘘の役職で呼ぶこともないではない。
 けれど、あの女主人が、そんな太鼓持ちめいた真似をするのかどうか。
――考えられない。
 即座に断じたは、背中に薄ら寒いものを感じて身震いした。
 そして唐突に思い出す。
 もまた、同じようなことをしたことがある。
 この店の女主人とには、何か共通点でもあるのだろうか。
 一度盛り上がった分、戻ってきた沈黙は気まずさを増す。
 夏侯淵はビールを注ぐと、の前に押しやった。次いで、自分のグラスにもビールを注ぐ。
「……しかし、何だな! 見れば見る程、変わった店だよなぁ」
 普通に考えるならば、夏侯淵が気を効かせて話題を振ってくれたと考えるべきだ。
 だがには、夏侯淵が誤魔化そうとしているようにしか思えなかった。
 都合の悪いことを突っ込まれないよう、会話でお茶を濁そうとしている。
 この前と同じように。
 は、自分の前に置かれたグラスを掴むと、一気に煽る。足りず、更にビール瓶の首を掴んで引き寄せると、そのまま底まで綺麗に空けた。
 よくあるスタイニー瓶ではない。
 最近ではあまりお見かけしなくなった、正真正銘の大瓶である。
 それをがっつり飲み干したに、夏侯淵の動きが止まる。
「お前……」
「部長っ!!」
 言い差すのを遮るように、は瓶の底を机に叩き付ける。
 勢いで黙る夏侯淵に、何故かは机の上に乗ってにじり寄った。
「部長」
「……おう」
 机の上で正座するに見下ろされ、心なしかうろたえている風な夏侯淵に、の笑みも深くなる。
 一気の勢いも凄かったが、酔っぱらう早さも並大抵でない。
 量が多いとはいえ、たかだかビールの大瓶未満で絡み酒に発展するとは思わない。
 むしろ酔いたくて、あるいは酔ったと思い込みたくての、この傍若無人なのかもしれなかった。
「部長」
「おう」
 が深呼吸する。
 間が空いた。
「……部長」
「……いや、だから何だよ」
 三回目にもなると、夏侯淵もいい加減に嫌になってくる。
 これが夏侯淵から催促させようという罠であるなら、大した話術と評価しても良かっただろう。
 生憎、は素であった。
「部長!」
「うん、だから何だって!」
 不毛な掛け合いは四度目を迎えた。
 五度目を覚悟した夏侯淵に、が顔を寄せる。
 柔らかい感触が鼻先に触れた。
 ぱっと離れていくの顔が酷く赤いのを、夏侯淵はぼんやり捉える。
「……どう、ですか」
「どうって」
 は、ぐっと唇を噛みしめて、勢いを付けて前のめりに手を着く。
「試し、ましたよね。試すかって言って、試して、それで私、どうだったんですか!?」
「……どうって、お前」
「駄目ですか」
 言うなり、の目からぼろぼろと涙が落ちる。
 完全に酔っている。
 泣き上戸だ。
「……駄目たぁ言ってねぇだろうよ」
「でも!」
 駄目と変わらないではないだろうか。
 ここしばらくの夏侯淵の態度は、以前と何ら変わらない。
 それは、駄目だということなのではないか。
 泣きじゃくりながらのの指摘に、夏侯淵は軽く頭を掻いた。
「そんじゃあ、一つ聞いとくが……何が何でも、変わらにゃならんってか」
 恋をしたら、気持ちを受け止め了承したら、すべては変化しなければならないのか。
 は首を振る。
 そこまで傲慢ではない。押し付ける気持ちも、ない。
「なら、どうしろって」
 怒っている様子はなく、むしろ淡々と説き伏せるような夏侯淵に、は遂に本音をさらけ出すより外なくなった。
 しばらくの間、細かに身を震わせていたが、突然わっと泣き伏す。
「……オイ」
 困惑する夏侯淵の前で、が弾けたバネ仕掛けの如くに飛び起きた。
「私の前で、他の女とセックスするなんて、言わなくったっていいじゃないですかぁっ!」
 叫んで、また泣き伏せる。
 夏侯淵は、口を大きく開けて呆けていた。
 子供じみた駄々の後に、よもやそんな言葉を聞かされることになろうとは、まったくの予想外だ。
 はおいおい泣き続けている。
 泣いて済むものなら、夏侯淵とて泣いていたい。
「そんなら、何か? お前、俺に、坊主ばりの禁欲してろってか」
 大概、夏侯淵の言うこともずれている。
 こちらはアルコールの酔いに依るものではないから、尚更始末に負えない。
 が顔を上げる。
 すんすんと鼻を啜っている、その顔が赤い。
「そうは言ってない、ですけど」
「んーなら、どうだって」
「……だからっ!」
 私でいいじゃないですか。
 吐き出された言葉が、時を止める。
「……お前、なぁ」
 酷く呆れたような夏侯淵の声に、は一段と顔を赤くする。
「だだ、だって、だって……!」
 自分勝手にも程があると、も理解はしている。
 だがしかし、口に出すから問題なのであって、夏侯淵を好きなとしては、当然の要望とも言えた。
 好きだからこそ、他の女に触れて欲しくない。
 まして、自分の前で堂々と宣言してなど欲しくはなかった。
「……あぁー……まぁ、俺も、ちょっとばかし軽口が過ぎたな」
 だけどなぁ、と夏侯淵は続ける。
「さすがに、処女相手に欲求解消って訳にゃ、いかねぇだろうよ」
「な」
 がぴしりと硬直する。
 夏侯淵はただただ、申し訳なさそうな憐れむような視線で、苦笑いを浮かべるばかりだ。
「何で知ってるんですかぁッ!!」
 悲鳴というより、最早絶叫である。
 夏侯淵は、の叫びに動じることもなく、こっくりと深く頷いた。
「あ、やっぱそーか」
 グラス片手に器用に拍手する様に、の恥辱はますます煽られる。
「ひっ、ひっ、引っ掛けたんですか!? 最悪ですっ!!」
「引っ掛けたつもりはねぇけどよ。何つーかこう、何となくな、分かっちまったってぇか」
「引っ掛けたんじゃないですかーっ!! 引っ掛けた以外の、何物でもないじゃないですかーっ!!」
 収拾がつかなくなってきた。
 は興奮し過ぎて訳が分からなくなっているし、夏侯淵は今更気恥ずかしくでもなったか、あぁとかうぅとか、むにゃむにゃと唸るばかりだ。
 停滞する熱のこもった空気に、不意に冷たい風が割り込んだ。
 またも女主人の乱入かと二人同時に振り返れば、そこには思い掛けない人物が、神妙な面持ちで顔を出している。
「へっ…………?」
 名前を口にしながらも、信じられないと目を瞬かせるに、ばつ悪そうな視線を向ける。
「いや……何か、いいから持ってけって言われたからさ……」
 が手にした盆を突き出し、は慌てて受け取った。
「じゃ」
 止める間もなく鏡戸が閉まり、夏侯淵とが取り残される。
 瀟洒な細工を施された銀盆には、シンプルなカクテルグラスが乗っていた。
 夏侯淵は、そのグラスを取り、一気に煽る。
「……もう後がないってか。ホンットに、変な店だぜ、ここは」
 意味が分からず、口籠るの背を、夏侯淵が押す。
 慌ててジャケットと鞄を取って、導かれるままドアを押した。
 銀盆に残されたそのカクテルが、『XYZ』なる名前であることを、名前の由来が最高のカクテル、あるいは『後がない』だということを、この時のは知らなかった。

  終

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