「ねぇな」
 これ以上なくはっきり否定されて、は言葉もない。
 誤魔化すようにお猪口を煽った。
 温くなった酒の甘みと香りが、強張った脳をほぐしてくれる。
 飲み下して、小さく息を吐き出した。
「……そうっスかー」
「そーだ」
 合いの手さえ間髪入れずに肯定され、は目を泳がせる。

 に『恋しちゃった』と歌われてから、はろくでもないミスを連発するようになった。
 自分で自覚しつつも止められないミスは、上司の夏侯淵が乗り出さざるを得ないレベルの回数にまで達していた。
 顧客に迷惑が掛からない程度の凡ミスとは言え、やはり目には余る。細かなミスを傍らで連発されては、TEAMの志気にも関わろうというものだった。
 という訳で、は終業後に呼び出しを食らい、夏侯淵行きつけの居酒屋に拉致られていた。
 酒でも飲みながら話をして、ミスの原因を考えてみようと言うところか。あるいは酒で口を軽くさせ、原因を吐き出させようと言う方向か。
 どちらにせよ、はうかうか酔うわけには行かなくなった。酔って、うっかり『貴方が好きなんです』等と告ったりでもしたら、大問題だ。
 何となく、夏侯淵はそういう流れを好まないような気がしたのだ。
 だが、『そういう話』の切っ掛けは、思い掛けず夏侯淵自身が切り出してきた。
「男か?」
 お約束ながら盛大にむせたの背を、夏侯淵は平然と撫でさすってくれた。
 最初から、恐らくそうだろうとアタリを付けていたのかもしれないが、太くごつい夏侯淵の指は熱いくらいに暖かく、の血流をいたく刺激する。
「男、て」
「男だろ?」
 の反応の良さは、夏侯淵ならずともそうに違いないと確信に至らしめさせるものだ。
 誤魔化しも利かず、は渋々うなずいた。
「うちのTEAMの奴か?」
 また盛大に吹き出すを、夏侯淵は気にした様子もなくその背をさする。
「そーかー、うちのTEAMの奴かー。そいつは、ちっと面倒だな」
 夏侯淵いわく、普通の会社であれば部署替えなどで対応できようが、このK.A.Nの仕組みではなかなかそうもいかない。
 部署替えイコール敵対勢力となる可能性が大だからだ。
 そうでなくとも、TEAM魏からの離脱は無能者の烙印代わりとも噂されており、命じられない限りは嫌でも残留したいという者がほとんどだ。
 とはいえ、終業時間に帰るのが当たり前なTEAMにおいて、どの係に配属されていようと顔を合わさずに居られる一日などほぼ期待できず、よって社内恋愛には消極的になる傾向が強かった。
 だからか、とは得心した。
 以前、夏侯惇が天雨と付き合っていると暴露した時、夏侯淵は酷く驚いていた。
 TEAM内の風紀的に緩いながらも禁じられているとなれば、まさかあの夏侯惇が自らその禁を破るとは思いも寄らなかったのであろう。
 実際に禁じられているのではなく、暗黙の了解としての意味合いが強いものだから、別に処罰が下される心配はなかろうが、それでも夏侯惇が自ら進んでそういう『状態』になるとは思わなかったに違いない。
「前は、未だそんなには厳しかなかったんだけどよ……勘違いしたバカが出て、本人はなまじ優秀なつもりでいたもんだから、手に負えなくてなぁ……まぁ、間が悪かったってことで、その辺は諦めとけ」
 諦めろ、と言われた瞬間、は何故か胸に痛みを感じ、同時に泣きたくなってしまった。
 別に、夏侯淵に告白して『諦めろ』と言われた訳ではない。話の内容は、まったく異なるものだ。
 にも関わらず、は涙を零すまいと必死に耐えている。
 これは幾らなんだって重症だ。
 夏侯淵は、中ジョッキを傾けて喉を潤している。
 所在なげに先付けを突ついたりつまみを口に運んでいたのだが、おもむろにの顔を覗き込んできた。
「……諦めろっつわれても、諦められそうにもねぇんだろ? 今んとこは」
 いつになく真面目な顔付きに、はこれは『分岐点』なのだと覚った。
 ここで『諦める』と言いさえすれば、この話はなかったことになる。
 仕事の規律を乱したという汚点を残さずに済むだけでなく、これ以上夏侯淵に要らぬ心配も手間も掛けなくて良くなるのだ。
 ただし、だ。
 ただし、は今日限り、夏侯淵のことを諦めなくてはならなくなる。一上司と一部下として、仕事にのみ打ち込む、完全にプラトニックな関係に戻る。
 ある意味、本望とでも言うべき関係だった。
 恋愛という不毛で危うい関係とは比べるべくもない、理想的で充実した関係だ。答えに詰まることなど、ある筈もない。
 けれど、の目からは一粒の涙が転がり落ちる。
 泣くつもりなどなかった。
 自然に、いつの間にか零れ落ちた涙に、が一番驚いていた。あわあわしながら、手近に置いてあったおしぼりを目元に当てる。
 と、ファンデーションとアイカラーの一部が剥げて、おしぼりに移ってしまった。
 その汚れ具合が、の惨めさをよく示しているように見えて、の涙が止まらなくなる。
 夏侯淵は、の涙に気付かぬようにジョッキを傾けつまみを頬張っていた。
 しばらくしての涙が止まると、夏侯淵は大声で熱燗を二合追加する。
 渋い鉄紺色の猪口を一つの前に押しやると、無言のままに酒を注ぎ、次いでもう一つの猪口にも酒を注いだ。
「泣く程イヤだってんなら、ンなもん関係ねぇってとこ見せなきゃな。だろ?」
 恋愛することがそもそもの問題なのではない。
 恋愛することによって、仕事を蔑にしていいと考えてしまう、蔑にしているとさえ気付けなくなることが駄目なのだ。
 きっちりやれるのであれば、誰も何も文句は言わない。
 言わせない。
 それこそ、夏侯惇と天雨の関係に陰口を叩く者こそあれ、表立って抗議する者は誰も居ないのがいい証拠だ。
 あの二人に関しては、仕事は以前にも増して軽快に迅速にこなされている。
 何気なくしているから誤解されがちだが、二人の仕事量の凄まじさは半端なかった。
 ただずるずる甘えていい職場でないところこそ、が居心地良さを感じる第一の条件である。
 うじうじめそめそしている場合ではなかった。
「……す……見せ、ます」
 かすれてはいるがしっかりと言い切ると、夏侯淵の顔がふっと緩んだ。
 男臭い、見惚れるような笑みだ。
 だからか、はうっかり口を滑らせた。
「夏侯淵部長は、社内恋愛とか、したことないんですか?」
 ここでようやく、冒頭の台詞に繋がる次第だ。

「まぁ、俺の場合は、社内恋愛ってか、恋愛自体、あんまり興味ねぇんだよな」
 続けて放たれた言葉に、はぎょっとして手にしたお猪口を取り落とし掛けた。
 既に乾していたから問題ないが、それでも両の手でお手玉する無様に恥ずかしさは募る。
「言っとくが、負け惜しみじゃねぇぞ」
 軽口めいた恫喝に、は目を白黒とさせる。
「そ……だって、夏侯淵部長、バレンタインだっていっぱいチョコもらって……」
「あー、そーんなお義理のチョコ、数える方が野暮ってもんだぜ。お前、煙草屋の婆さんの告白にも真摯に耳を傾けるべきとでも言うつもりか?」
 おべっかを本気に取れるかと、夏侯淵はおどけて胸を張るが、はむしろその首にぶら下がっているネクタイを締め上げたい衝動に駆られた。
 夏侯淵は、自分に惚れる女など地球上に居る訳がないとさえ思っているようだ。
 その思い込みが、逆に高慢に思えて仕方ない。
 少なくともここに一人、夏侯淵が好きで涙まで流してしまう女が居る。
 の気持ちを一番酷い形で否定されたようで、また泣き出したい衝動に駆られた。
「そ」
 そんなことはないと、怒鳴り付けてやろうとした瞬間だった。
 未だの手に握られていた猪口の中に、夏侯淵がお銚子の口を合わせて傾けた。
 思わず口を閉ざし、両手の指先でお猪口を捧げ持つ。
 ふと、気が付いた。
 叱っていてさえどこかゆとりのある夏侯淵周囲の空気が、妙に冷え冷えとしている。
 突然変わった空気に、は先程までの勢いを失くし、背中にじわりと滲む冷たい汗に震えた。
「……お前がそうしたいって言うんなら、俺は止めねぇ。けどな。期待はしないことだぜ」
 はっとした。
 夏侯淵に自分の気持ちを気付かれた、と分かった。
 気付いたと気付かれるように、夏侯淵はわざと分かり易いヒントを出して吐き捨てたのだ。
 涙も出ない。
 ただ、深海に叩きこまれたように、周囲の音が一切消えた。
 TEAM魏において、何故恋愛が禁止なのかをは改めて理解した。
 五感でさえ奪われるような強烈な思考など、他に類を見ない。
 始まることすらなく終わった恋に、は一人、愕然としていた。



 は自室に戻っていた。
『……もし、もーし。間違って掛かってんなら、切るぞ』
 あれ、と手にしたものを見ると、携帯を握り締めて耳元に押し付けている。
「あ、ごめ……電話、掛けてくれた……?」
『違うって。あんたから、掛かって来たんだって。……どした? 何か、あったんでしょ』
 問い掛けではなく、決め付けで物を言う。
 そういうのは良くないと、今までも何度か注意してきたが、本当に何度言っても聞いた試しがない。
「……ないよ」
『嘘吐け。今から行くから』
 またも決め付け一方的に宣言すると、携帯は一方的に切られた。
 何て勝手な奴だ。
 呆然と携帯を見ていると、今度は玄関からピンポンピンポンとけたたましい音が鳴り響く。
 近所迷惑にも程があると血相変えて飛びだすと、そこには先程まで電話していた筈のが上がり込んでいた。
「え、早くない!?」
「早くねぇよ、馬鹿。玄関空けっぱなしで何やってんの」
 玄関に鍵が掛かっていなかったと言われても、はイマイチピンとこない。
 ちゃんと掛けた筈だ、と反論し掛けて、そう言えば、いつ帰って来たのだろうとふと考え込んだ。
 覚えがない。
 どころか、夏侯淵といつ別れたのかさえ記憶がなかった。
「……あれ……」
 不意に涙が込み上げ、は慌てて目を擦る。
 しかし、涙は拭いても拭いても一向に収まる気配を見せなかった。
 わんわんと泣き出したの背を、がゆっくり優しく撫で擦る。
 けれども、その指遣いが夏侯淵のそれと妙にダブり、の嘆きを深くした。

 窓の外が白々と明るくなるのを、は腫れた目でぼんやり眺めた。
 今日も仕事だというのに、夜通し泣き続けてしまったようだ。
 が、濡れたタオルをの手に捩じ込み、隣に腰掛ける。
 親しい方だとは言え、会社の一同僚にこんな迷惑を掛ける日が来ることになろうとは、夢にも思わなかった。
 仕事に一途なは、情けなさにますます凹み沈んでいく。
「じゃ、帰るわ」
 がすっくと立ち上がる。
「……今から?」
 考えれば何とも間抜けな質問なのだが、思わず訊いてしまった。
「ん、帰る。化粧道具とか、何も持って来なかったし……居ても、何にも出来ないからね」
 正論ではあるが、は不満だ。
――一緒に、居てくれたじゃん。
 言い返したくなるが、それを言えばの好意を無にしてしまうような気がした。
 玄関に向かうを追う形で見送りに出ると、靴を履き終えたがくるりとを振り返る。
「言っていいかどうか迷ったんだけど、迷うってのも気持ち悪いから、言うわ」
 何じゃそりゃ、とが眉を顰めると、はぽりぽりと頭を掻く。
「あー……こう言っちゃなんだけどさ、期待すんなとは言ってたらしいけど、諦めろとは言わんかったんでしょ、部長」
 泣きながらもちゃっかりぶっちゃけたのだと今更気付き、は頬を赤らめる。
 も更に言い難そうに唇を噛んでいたが、決心したように深い溜息を吐き出した。
「それ、私が言うのも何だけど、脈あると思うよ。ただ、うん、これも言っちゃあ何だけど、それって屑の定番台詞だから、諦めないんなら覚悟しろ?」
「夏侯淵部長は、屑じゃないもん!」
 反射的に言い返し、は手で口を抑えた。
 自分で言うのも何だが、これも駄目な女の定番台詞である。
 苦々しい笑いが互いの口から漏れた。
「……帰るわ」
 が軽く手を掲げ、はあることに気が付いた。
、荷物は? 鞄とか」
 軽く掲げたその手には、綺麗な深緋の財布が握られているのみだ。
「ない。これだけ」
 じゃあね、と出ていくにおざなりに応えて見送ったは、ドアが閉まると同時にようやく合点のいく答えを見出した。
――、財布だけ引っ掴んで来てくれたんだ。
 どれだけ慌てて出て来たのか、しかし財布だけでも忘れなかったのがらしいと取るべきか、財布一つで駆けて来るを想像して思わず笑ってしまう。
 世界の終りのようにさえ感じていたのに、今は他愛もない妄想で笑えるくらいに回復したことに気付き、は呆気に取られて立ちすくむ。
 自分が案外薄情なのか、それともこれが友情パワーなのか、後者だと言い切るには少々現実主義に過ぎるは、寝不足の目を顰めて考え込むのだった。

  終

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