「お前よ、惇兄と付き合ってんのか?」
 いきなりの話に、は肺に吸い込む直前だった酸素をぶほっと吹き出した。
 規則正しい循環を掻き乱されて、の肺は盛大に抗議する。
 煙草を吸っている時だったら、灰を吸い込む羽目になったやも知れない。
「な、何ですか、いきなり……」
 夏侯淵の残業に付き合って、二人で居残りしていた時だった。
 別に示し合せた訳ではなく、終業後にが自分の雑用を片しているところへ夏侯淵が戻り、これから資料を片付けなくてはならないと愚痴るのを聞いて、手伝い役を買って出たまでだ。
 そもそも、残業するのは馬鹿のやることと手厳しい社風ならぬTEAM風があるもので、終業時間を過ぎるとフロアそのものががらんとしてしまう。
 それを無視出来るのは精々がところ、いつも何だかんだで手一杯の夏侯惇とその部下、TEAM風など正にどこ吹く風の張遼くらいで、後はきちんと仕事を片付けて帰宅する者がほとんどだった。
 納期の関係でデザイン関係の従事者が居残ることこそあれ、まず残って居る者は滅多にいない。
 だから、部長たる夏侯淵と言えど、残業時に雑用を頼みたくとも肝心の部下が居ない訳である。
 もっとも、夏侯淵の性格からして無理強いしてまで手伝わせることなどまずあるまい。性別問わず下から人気の所以は、そんな性格にあると言って過言ではなかった。
 がこうして手伝っているのも偶々であって、先日の借りを幾らかでも返せる機だと自身がごり押ししたせいである。
 二人で黙々と片付けていると、小山のようだった資料の束もみるみるその数を減らしていった。
 後五六冊も片せば仕舞い、そんな気の緩んだところに冒頭の夏侯淵の言葉があった次第だ。
 げふげふむせて、急いで呼吸を整えながら訊ね返すと、夏侯淵は難しぶった顔を作りながらぽりぽり顎の下を掻く。
「うー……いや何、そーなんじゃないかって奴が、俺んとこに捩じり込んで来てな。公私混同じゃないのかーっなんつって、な。だから、ちっと確認したまでだ」
 な、と同意を求められても、何と返事をしたものか分からない。
 第一、である。
「だって、夏侯惇部長はちゃんとお付き合いしてるじゃないですか」
「は?」
 盛大に訊き返されて、は思わず口を噤む。
 夏侯淵が知らなかったこと自体知らなかったのでうっかり口にしてしまったが、ひょっとしたら内緒の話だったのかもしれない。
 夏侯惇との組み合わせが、傍から見て異質だろうことは、失礼ながらよく分かる。
 真面目、堅物と揶揄される夏侯惇の相手としては、は少々幼かったし、また本人の性質が少々常識の枠から外れているところもある。
 よく見れば緑と気付くくらいの深い色の目で、深淵の底を覗き込むかのようにじっと見詰めるの様は、正直あまり良い印象を持たれないだろうものだった。
 怯まず受け止められるのは極少数で、でさえも未だにビビってしまう。
 感情のないガラス玉のような目は、あたかも良く出来た精巧な人形を思わせて、妙な威圧感すら覚えてしまうのだ。
 面と向かってではないものの、影で悪口を嘯く者も居る。
 事務仕事故にその能力の評価は容易に下し難く、だからこそそれらの悪口を効果的に制すことも出来ない。
 贔屓のからくどい程に言われて居なければ、を誤解したかも知れない。
 ただ、出会ったその日に理解できずとも、日数が経てば普通に評価されただろうとは思う。
 やっかみ抜きで考えられるなら、あの夏侯惇が駄目出しせずに接していると言う時点で、高い能力を有していると分かる筈だ。
 地味な作業も愚痴一つ吐かず、黙々と作業に勤しめる者は意外に少ない。
 の提案で作り直されたと聞くデータベースは、使い慣れれば実に快適に改善された。
 有能なのである。
 だから、夏侯惇がを部下として以上に評価してもは納得できるし、夏侯惇のことだからてっきり夏侯淵には話を通していると思っていた。
 が、どうやら違ったようだ。
「惇兄が……あの娘っ子と?」
 信じられないと言いたげに眉の間に皺を寄せた夏侯淵に、はどう取り繕ったものかと慌てた。
「いや……でも、意外と……って言うか、何で私だと思ったんですか」
「何が」
「いや、だから」
 夏侯淵ならば、誰に捩じり込まれようと可能性のない話を鵜呑みにして、伝書鳩よろしく直接本人に訊いたりはしないだろう。
 訊いたところで、もっと上手く訊くに違いないと思えた。
 の説明に、夏侯淵はにやりと口の端を歪める。
「ま、な。……とゆーか、あれだ、お前、惇兄と同じ煙草吸ってんだろ?」
「あぁ……まぁ」
 吸ってはいる。
 確かに、女でセブンスター吸ってるのは珍しいかもしれない。
 しかも、ライトでもメンソールでもない。
 正真正銘、語尾に句点を打っても構わない『セブンスター』である。
 だが、はセブンスターを吸っている。
 他に意味はない。好みの煙草が偶々セブンスターだっただけだ。
 夏侯惇の煙草がセブンスターだったのも、本当に偶然で、深い意味はない(筈だ)。
 同じ銘柄と知れて以来、時折煙草を頂戴したりされたりはしている。
 それだけの話だ。
「けど、珍しいのは珍しいだろ?」
「はぁ」
「でもよ、これが『好きな男が吸ってるヤツだから』なんつー理由が付いちまうと、またうって変わってちゃっかり納得出来ちまったりするんだよなぁ、これが」
 そういう女がいないとは言わない。
 確かに夏侯淵を納得させるに到るだけの説得力があると思う。
 それでも、その理屈を押し付けられ掛けたという事実に、は自分でも不思議な程に腹立たしさを覚えた。
「違いますよ」
「ん? んー、まぁ、そういうことならいいんだけどよ」
 常にはない歯切れの悪さが、の苛立ちを募らせる。
「違いますってば」
「ん、分かってるって」
 おざなりに流された感が強かったが、分厚いファイルを両手に提げて片付けに向かう夏侯淵へ、それ以上何かを言うことも出来ない。
 はぶすくれたまま、ファイルを両手で抱え上げて夏侯淵とは反対側の棚に向かった。

 片すべきファイルの残りが少なかったこともあり、気持ちを切り替える時間がなかったは、腹の底で疼く感情を持て余したままフロアに戻った。
 そもそも支度は済んでいるし、今日はもうさっさと帰ってしまおう。
 心なしか重いショルダーバッグの紐を取ると、夏侯淵は特に何の準備もするでなく、出勤時愛用のビジネスバッグを取り出した。
 何に付け、男の方が身軽なのは通例だ。
「飯でも食ってくか」
 いつもだったら喜んでお供するところだが、どうしてもそんな気になれない。
「いえ、今日は」
 やんわりと断りを入れたに、夏侯淵が気を悪くしたような素振りは見られなかった。
 そんな夏侯淵に、は更に居心地悪いものを感じてしまう。
 夏侯淵が悪い訳ではないが、何故か苛々してしまうのだ。
 食事の誘いを断ったとはいえ、会社を出るまでは同じ廊下を歩かねばならない。
 重い空気のまま、言葉もなく並んで歩く。
 夏侯淵と並べば他愛のない話で盛り上がるものだが、今日に限っては夏侯淵から話を振る気配もない。
 有難くもあり、悔しくもあった。
 エレベーターホールの前に来て、下向きの三角形ボタンを押す。
 静かな空間に、モーターの微かな振動音が響いた。
「お前、煙草の銘柄、変えられねぇのか」
 突拍子もない問い掛けに、は疼く苛立ちを突かれる。
「何でですか」
 ついつい荒くなる口調が情けなく、は唇を噛む。
 目の奥がじわっと熱くなり、泣きそうだと思ってしまう。
 夏侯淵はを見ようとはせず、ただエレベーターの上部にある階数を示すランプを追っていた。
「んー……今回は、俺だったけどな」
 何がだ。
 夏侯淵は言葉を探しているのか、なかなか続きを口にしない。
 エレベーターが近い階まで登って来ていることを、もランプで確認した。
 こんな状態で夏侯淵と一緒にエレベーターに乗ることに、少しの間とはいえ密室に閉じ込められるということに、どうしようもない抵抗を感じる。
 階段で降りてしまおうか。
 の履くパンプスのヒールが、廊下に敷かれたカーペットをじりっと擦る。
「……結局、お前が惇兄と同じ煙草吸ってる限り、誤解して喚きたてる奴は出てくっと思うんだよな」
 その時、自分ではなくに直接言いに行く者が現れるかもしれない。
 その時、自分はその場に居合わせられるか分からない。
 だったら、煙草の銘柄を変えるだけで回避できるのなら、そうしたらどうだろうか。
 夏侯淵は、そんな風に続けた。
 どういう意味だろう、とは一瞬ぼんやりする。
 ちょうどエレベーターの扉が開き、はその中へと突っ込まれた。
 勢い良く押されて蹴つまずくを余所に、夏侯淵は後から悠々と乗り込んで来る。
 は、何の気なしに一階のボタンを押す夏侯淵を恨めしそうに見た。
 本来であれば、若輩のがすべきことだ。
「……そんな恨めしそうに見んなって」
 夏侯淵は苦笑交じりに肩を揺する。
 そんな顔をされると、何だか申し訳ない気がしてきた。
 少なくとも、夏侯淵が心配して言ってくれているのは確かだったから、が腹を立てるのは筋違いと言えば言えた。
 とにかく、庇ってくれた上司に対しての態度では、ない。
「ま、嗜好品なんてものは、早々変えられるもんじゃないわな。あっちは俺が何とか言い包めておくから、お前も、もし何か言われても気にすんな」
 今度の『な』には、素直に頷けた。
 一度素直に頷くと、どうしてあんなに怒ってしまったのか、自分が分からなくなる。
 とりあえず、自分からもらいに行くのはちょっと控えようか、と考えた時、エレベーターが開いた。
 ふわりと浮き上がるような感覚と、コーンと突き抜けるような高い音が切っ掛けとなり、は目線をぐっと上に向ける。
 幾らか落ち着いた気がした。
「……腹減ったなぁ」
 誰に向けてでなく呟く夏侯淵に、意図せず口が反応する。
「駅の向こうっ側に、新しいラーメン屋が出来たって話ですよ。結構、美味しいんですって」
「へぇ、行ってみっかな」
 乗り気になった夏侯淵の笑顔に、はほっとしていた。
 それを機に、いつもの何でもない会話が弾み、歩みも軽やかに変わる。
 社用口を抜け、あっという間に駅の改札前まで着くと、夏侯淵が足を止めた。
「おい」
 また何かあるのかと不安に駆られるを、夏侯淵は不思議そうな顔でまじまじ見詰める。
「お前、今日は何か用があんだろ? いいって、店まで送ってくれなくたって」
 適当に探すから、じゃあな、と言い残し、夏侯淵は振り返りもせずぷらぷらと手を振った。
 そう言えば、そんなことを言った。
 ような気がする。
 すっかりラーメンを食べる気満々で居たは、しかし自身の発言を上手く弁明する由もなく、故に夏侯淵を引き止められずに呆然と手を振り返した。
 完全にラーメン脳と化した自分の食欲を持て余しつつ、渋々定期を取り出し改札を潜る。
 時計を見遣れば、八時を少し回ったところだ。
 地元の駅は元より、住んでいるマンションまでの道程に深夜営業している美味いラーメン屋がないことは、食べ歩きを趣味の一環にしているには既知の事実である。
 暴走寸前のラーメン脳は、カップラーメンなどでは満たされぬまま翌日まで持ち越され、を苦しめることになった。

  終

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