朝、誰よりも早く出社したは、上司たる月英の出勤前に軽く清掃を済ませるのが日課だ。
コーヒーはガラス製のポットにリズミカルに落ちていく。
月英が来る頃には、出来立てのコーヒーを出せることだろう。
掃除が済むと、雑巾を綺麗に濯ぎ干しておく。帰り際に干しておいた布巾を畳み、いつもの場所に仕舞い込むと、手を洗った。
出社時に買ってきたサンドウィッチと冷たいコーヒーで簡単に朝食を済ませると、歯を磨いて化粧を直す。
席についてパソコンの電源を入れると、小さなビープ音が鳴り、ファンが静かに回りだす。
本来ならほとんど聞こえないだろう音が聞けるのは、周囲に音がないからかもしれない。この音を聞かないと、一日の始まりという気がしないのだ。
いつもより少し落ち着かない朝だから、は恒例の儀式を殊更に慮りたかった。
月英がやってくる。
より30分は遅いとはいえ、やはり早い出勤だ。
「あら」
常ならば微笑を浮かべて清々しく挨拶をする月英は、驚きの声を上げてを見つめていた。
予想はしていたが、儀式によって平静に傾いていた天秤は、あっという間に動揺に傾いた。
「思い切りましたね……でも、よく似合ってますよ」
すぐに明るい微笑を浮かべ、しかし探りを入れるわけでもなく自席に着いた月英を、は有り難くも物足りなくも感じていた。
首筋がちくちくする。
ずっと綺麗にアップにしていたから、毛先が当たる感触に馴染めないで居る。
手をやれば、切り揃えたばかりで強い髪が、指に弾かれ微かに揺れていた。
伸ばしたくて伸ばしていたわけではないと思う。
ただ、短い髪は見た目と比べかなり手間隙が掛かる。跳ねた髪は、短ければ尚のこと、直すのに大変な苦労をするのだ。
そんな理由で、確か伸ばしたのだと思う。中途半端な長さでなく、髪をまとめてアップに出来るくらい伸ばしたのは、その方が掛ける手間の簡易さに比べ、見た目に清潔だったからだ。
首筋の半ばまで一気に切り落として分かったが、髪と言うものは意外に重いものなのだ。
さっぱりとして、持病の肩こりが少し良くなった気すらする。
髪を切ったことに大した感慨はなかった。
伸ばしたことに意味もなければ、切ったことにも意味はない。
何となく切りたかっただけだ。
多分、諸葛亮が言った言葉は何の関係もない。
そう思った。
携帯での呼び出しに応じ、はいつもの店にやって来た。
先に来ていたと思しき諸葛亮は、の姿を認めると軽く手を掲げた。
驚いている素振りもない。
何だか落胆して、は椅子に腰を下ろした。
やって来たウェイターにコーヒーを注文すると、顔をウェイターに向けた反動で、髪がぱさり、と乾いた音を立てた。
顔にかかる鬱陶しさに、神経質になって手櫛で梳き上げる。
その仕草を、諸葛亮はじっと見ていた。
「……何でしょうか」
「いえ、別に」
気が付いている、と確信した。
気が付いていて、敢えて知らぬ顔をしている。
顔に出たものか、諸葛亮はを覗き込むように首を傾げてきた。
「尋ねて欲しいのですか?」
「……いえ、別に」
即座に返答したかったのに、無様に一瞬詰まってしまった。
憎たらしい。
我が身を襲う羞恥から、つい諸葛亮に当たってしまう。
もっとも、自分で分かっているだけに本当に当り散らすなどと言う真似はしない。せいぜい、眉と口をひん曲げるくらいが関の山だ。
諸葛亮はくすくすと笑う。
「構いませんよ」
何が、と問うことはこの人には無意味だ。
その聡さが余計に苛立たしくさせることを、諸葛亮は知っているのだろうか。
ふ、と溜息がの鼓膜をくすぐった。
一瞬、諸葛亮が溜息を吐いたのだと理解できず、は素の顔を諸葛亮の面前に晒した。
苦笑いを浮かべる諸葛亮の顔を、運ばれてきたコーヒーカップが遮った。
ホテルの一室に落ち着くと、交わす言葉もなくはブラウスのボタンに手をかけた。
「一緒に入りますか?」
つまらない戯言に眉を顰めると、諸葛亮はネクタイの結び目に指を掛け、強く引き下ろす。
しゅる、という甲高い音が耳に響き、訳もなく頬が赤く染まった。
肌蹴たブラウスの襟首から、キャミソールのレースが覗いている。見蕩れるような胸の曲線がほのかに息衝いているのを、諸葛亮に見下ろされている。
内勤とはいえ、男らしいごつい手がの髪に差し入れられた。
「ずいぶん、軽くなりましたね」
かき回されると、しゃわしゃわと遠くで蝉が鳴いているような音がする。
「ええ」
お嫌でしたか、と問い掛ければ、諸葛亮は首を傾げての目を覗く。
この癖が、好きで嫌いだった。
「私が嫌だと言ったら、切らなかったと?」
「……そんなことは、ありませんけど」
逆に、好きだと言われたから、切ったような気がする。
諸葛亮は覚えていないだろうが、乱れた髪を嫌って一度全部解いて下ろしたことがある。結い直そうと梳いているところを、諸葛亮の指が悪戯に絡んできた。
――貴女の髪は、好きです。
取ってつけたような、何処かわざとらしい、下らない言葉だ。
たぶん、だから、切った。
諸葛亮の指が、の指に絡められる。
恭しく口元に運ぶ仕草を、とても見ていられなくて目を背けた。
柔らかい、熱い湿った感触は、心地よくもおぞましくもある。
上司たる月英の目を盗んでの逢瀬は、の心を袋小路に追い詰めるだけだ。何処にも行けず、逃れられもしない。
「私が嫌だと言ったら、止めますか」
胸をえぐる言葉に、は声を失くした。
突然過ぎる。
覚悟をしていたつもりだったのに、いつでも終わりに出来ると決心していたつもりだったのに、動揺は容易くを打ちのめした。
諸葛亮が苦く笑う。
「……申し訳ありません、貴女にそんな顔をさせるつもりはなかった」
口付けが、今度は唇に落とされる。
すぐに離れる濡れた感触に、の胸は微かに痛みを訴えた。
「私とて、不安なのですよ。貴女を無理に縛り付けていることは、重々承知の上ですから」
ブラウスのボタンが外され、タイトスカートのホックが外される。
「無理に縛り付けられている覚えは、ありません」
ワイシャツのボタンを外し、シルバーのバックルのピンを外す。ベルトを緩めると、指先に諸葛亮の昂ぶりが触れ眩暈のような飢餓感に襲われる。
命じられてもいないのに、自然に膝を着いていた。
たどたどしくファスナーを下ろし、下着を押しのけて口に含む。
諸葛亮の手が顔の線を幾度となく撫でていくのを、夢見心地で感じる。口の中に含んだ熱の固まりだけが妙にリアルで、自分と言う存在が妙に希薄だった。
呼吸も忘れてしゃぶりついていたせいで、急に息苦しくなって口を外す。
唇から飛び出すように現れた肉塊は、浅黒くて何とも言えずグロテスクに見えた。
「このままで、よろしいですか」
諸葛亮が何を問いかけているのか、には理解できなかった。酸欠を起こした脳細胞は、軒並みストライキを起こしているようだ。
の体がふわりと浮き上がった。
細身のくせに、諸葛亮は意外に(と言うと失礼かもしれないが)力がある。横抱きに抱かれたまま、すぐ傍のソファに運ばれた。
「……ここ、で……?」
未だ神経の熱は昂ぶったままを侵している。
たどたどしく問いかければ、諸葛亮の目が切なげに細められた。
「嫌、ですか?」
濡れたショーツに押し当てられるものがある。その固さに諸葛亮の耐え難さを感じ取り、は緩く足を広げた。
嫌な訳がない。
貴方が好きだという自分の髪にすら嫉妬してしまう馬鹿な女が、嫌だと言うはずがない。
こんなろくでもない、自分でも訳の分からない感情が、例え諸葛亮とは言え理解できるものだろうか。
「試したつもりでは、なかったんです」
言い訳がましいと思いつつ囁いた言葉に、諸葛亮は笑みをもって応えた。
押し込まれる昂ぶりに柔肉がえぐられていく。
衝撃がもたらす悦楽に、は甘い嬌声を上げた。
一度納められた塊が、何度も引いては押し込まれる。濡れた鈍い音が耳を叩く。諸葛亮に感じ、自ら溺れている証拠だ。
いつもより激しく乱暴に扱われ、は悲鳴と共に諸葛亮にすがりつく。
それでも、爪だけは立てなかった。
「いつも、不安ですよ」
最中だというのに、突然諸葛亮が口を開いた。
薄く目を開けると、言葉とは裏腹に穏やかな微笑を浮かべた諸葛亮が居る。
止まってしまった動きの代わりに、諸葛亮の指がの襞に滑り込んできた。揺蕩とはまた違う快楽に、の背がしなる。
「私の、何処が好きですか」
試す気か。
指が好きだと言ったら、切り落としてくれるのだろうか。
目が好きだと言ったら、抉り取ってくれるのだろうか。
声が好きだと言ったら、潰して出なくしてくれるのだろうか。
突き上げるような欲求に惑っていると、快楽を待ちわびる体が先走って腰を揺らめかす。
「では、差し上げましょう」
再開された挿入に、茶番だとせせら笑いながら、その背に腕を回し、きつく抱き締めた。
終