突発的な繁忙期を何とかやり過ごし、夏侯惇は久し振りの休日を迎えていた。
ソファにちょこんと腰掛けたは、テレビすら点けずにコーヒーを啜っている。
裸体にバスロープ一枚という非常にしどけない格好をしているが、これは単に朝のシャワーを浴びただけの話で、色気のある話とは無縁の結果だ。
昨夜遅くに二人で夏侯惇のマンションに着いて、そのまま歯も磨かずに眠りに就いてしまった。
部署で一、二を争う細身ながら計り知れない体力を秘めたでさえも、連日連夜の激務に疲労の極みを迎えていたようだ。
とは言え、夏侯惇が目を覚ました時には既にベッドを抜け出して今の状態にあったのだから、やはり筆舌に尽くし難い体力の持ち主と言って良かったかも知れない。
の淹れたコーヒーを啜ると、やや苦みは強いものの、コーヒー好きを自称する夏侯惇を納得させるに十分な味わいが口内に広がる。
「上手くなったな」
最初の時は、コーヒー豆に熱湯注ぎ込んで夏侯惇に悲鳴を上げさせたのが嘘のようだ。
たかがコーヒー豆如き、と侮られるやもしれないが、その時が使用したのは夏侯惇が秘蔵していた逸品で、生半には手に入らない貴重な豆だったのである。
普段の夏侯惇からは想像もつかない悲鳴を聞かされたは、何処かでコーヒーの淹れ方を教わってきたようで、夏侯惇宅に豆持参でやって来てはコーヒーを淹れてくれるようになった。
もっぱら梅昆布茶だのどくだみ茶だのの類を愛飲していたも、ここのところはコーヒーを飲むようになっている。
飲むことも修行の一つというから、本当は好きではないのかもしれない。
つまり、それらの行為はひとえに夏侯惇の為のみに行われているということで、そう考えると夏侯惇は矢庭に体のあちこちが痒くなってしまうのだった。
己にも、にも、似合わない話である。
似合わないから尚更に、の気持ちが真摯に感じられて愛おしくなる。
外を見れば、まだ朝の光が残っているのが見えた。今から出れば、そこそこ遠出も可能だし、何であれば一泊できなくもない。
考えてみれば、男女の付き合いらしきものが始まってから一度として旅行に出たことがなかった。
突発的ではあるが、出かけてみようかという気になってくる。
「、何処か行きたいところはないか」
きょとんと目を丸くしたは、しばらく考え込んで首を振った。
「……いきなり尋ねられても、思い付かんか」
地図帳兼の旅行雑誌があったような気がすると本棚を漁り出すと、マグカップを置いたが夏侯惇の傍に擦り寄ってくる。
一緒に探すつもりかと振り向いた夏侯惇は、の表情が曇っていることに気が付いた。
「いい、デス。出掛けなくて」
思い掛けず頑ななその表情に、夏侯惇も眉を寄せる。
「……疲れているのか? それで、出掛けたくないのか」
「そうじゃないデスけど」
疲れてはいない、だが出掛けたくないと言うに、夏侯惇はただただ困惑した。
「出掛けるのは、嫌いだったか?」
「……嫌いじゃないデス。好き、デス」
言葉通り、は室内より外に居ることを好む。
食事は会社の食堂より外の公園で摂る方が好きだし、映画よりはそこらの野っ原や川岸を散策するのが好きなようだった。
ならば、夏侯惇の提案はにとっても悪くはない提案の筈だ。
それを嫌がり、疲れているからでもなく出掛けたくない訳でもないと言う。
理由がはっきりしない上、思い当たるものもなくて、夏侯惇は不機嫌に口を閉ざした。
が喜ぶだろうと思っての話だっただけに、面白くないことこの上無い。
「……それならそれで、構わんが」
シャツの裾を握るの手を軽く振り払い、夏侯惇はシャワールームに向かった。
顔を合わせているとイライラが募って、思ってもみないことを言ってしまいそうで怖かった。
取り残されたは、追い掛けて来るでなく謝罪するでもなく、ただぽつねんと立ち尽くしている。
どうしろと言うか、と夏侯惇は頭を掻き毟り、シャワールームの扉に八つ当たりした。
熱い湯を長めに浴びて出てくると、は携帯を掛けていた。
二人で居る時に、と、何となくむっとすると、は夏侯惇の前にとことこと歩いて来て携帯を差し出した。
いぶかしく顎を突き出した夏侯惇に、はぐいぐいと携帯を突き出してくる。
仕方なく受け取って、耳に押し当てると、携帯の向こうから聞き覚えのある声が響いて来た。
『通訳です』
だった。
何が通訳か、こんな時にと苦々しく思うも、しょげている風なの手前、迂闊なことは口走れない。黙っていると、見切りを付けたか勝手に『通訳』が始まった。
『……惇さんのことだから、旅行なんて言ったら車で出掛けようとするだろう。自分は車の免許もないし、そうしたら惇さんばっかり疲れさせてしまう。繁忙期がやっと終わって、未だ疲れが抜けてないようだし、旅行はいつでも行けるから今日のところはゆっくり休んでいて欲しい。自分は、惇さんと一緒に居られるだけで楽しいんだから。……以上、通訳でした』
まくし立てるように話し続け、挙句一方的に切られてしまった。
ツー、ツー、と軽い音を立てている携帯を憎々しげに見つめ、内心で『誰が惇さんか』と突っ込むのがせいぜいだ。
不安そうに夏侯惇を見上げているに、夏侯惇は携帯を畳んで返してやる。
「……自分で言え、この程度のこと」
は押し戴くようにして携帯を受け取ると、ぎゅっと握って俯いた。
「ちゃんと言えるかどうか、分かんない、デス……」
感覚頼みで生きている風なにとって、言葉を尽くして相手に理解を求めるという行為がどうにも苦手らしい。
嫌われたのならそれまで、とばかりにあっさり身を引くであればこそなのだが、それ故、別れたくない相手にはとことん弱い。
そこまで考えて、夏侯惇は肩の裏辺りをぼりぼりと掻き毟った。
「……腹が、減ったな」
着替えて、近所のベーカリーで名物のサンドイッチでも買って来よう。
そう切り出した夏侯惇に、はぱっと顔を上げた。
「自分、行ってくるデス!」
はーい、と高く手を上げるに、夏侯惇は苦笑を滲ませる。
「……いや、一緒に行こう。コーヒーの残りをポットに詰めて、公園かどこかで食わんか。今日は、天気もいいしな」
それなら良かろう、と提案する夏侯惇に、は笑みを浮かべた。
意表を突く晴々しい笑顔に、夏侯惇は目を瞬かせる。
「着替えて来るデス」
その場でバスロープを脱ぎ捨て、全裸で駆け出すに、夏侯惇はどうにも頭痛を抑え難い。
女として、惚れた男を前にする自覚がもう少しはあっても、と考え掛けて、脇腹の辺りを投げ遣りに掻くのだった。
終