Warning: Use of undefined constant CHARSET - assumed 'CHARSET' (this will throw an Error in a future version of PHP) in /home/thy/public_html/PA2/dream.php on line 25 Warning: Use of undefined constant CHARSET - assumed 'CHARSET' (this will throw an Error in a future version of PHP) in /home/thy/public_html/PA2/dream.php on line 26 Warning: Use of undefined constant Off - assumed 'Off' (this will throw an Error in a future version of PHP) in /home/thy/public_html/PA2/dream.php on line 30 会社と自宅の二重生活者

 曹操は、沙穂に気付かなかったらしい。
 外で知人程度の知り合いに気付かれないのはいつものことで、曹操に限った話ではなかった。
 だから沙穂も素知らぬ振りをしつつ、その実密かに曹操を観察していた。
 勤務先の上司が女連れでホテルのロビーに現れたら、沙穂ならずとも興味をそそられる者は少なくあるまい。下世話と非難されるかもしれないが、待ち合わせ相手が遅刻していたこともあり、手持ち無沙汰だったこともある。
 冷め掛けたコーヒーカップを傾け、さりげなく視線を隠す。
 相手の女性に見覚えはない。
 会社の部下でないことに、沙穂は何となく安堵した。
 正直、今、フリーの面子で曹操にふさわしい女性は居ないと思っていたし、もしフリーでないとしたらルール違反だろう。
 曹操がそんなルールを気にするかどうかは分からないが、守る守らない以前に、曹操にはそんな『みっともない』真似をして欲しくないという勝手な思い込みがあった。
 理想の上司が、理想の男であるという保証はない。また、保証を求めるのも間違いだろう。
 恋愛は自由だ、と沙穂は思う。
 けれども、モラルのない恋愛はくだらない、とも思う。
 守られるべきルールがあるからこそ尊いものであり、何でもありになった時点で、路傍の石程の価値もない。
 主張を人に聞かせるという愚策に興じていた頃には、古い価値観とあざ笑われたこともある。
 自身の主張などというものは、人に聞かせるべきものではないと知った今でも、沙穂が密かに守り続けている『ルール』だった。
 この手のルールに、古いも新しいもない。
 少なくとも、沙穂にとってはそうだった。
 コーヒーを飲み干し、手首に巻かれた細い鎖に指を這わせる。
 待ち合わせ相手は、未だ現れない。
 落とした視線を上げると、ほんの数瞬であったにも関わらず、曹操の姿は消えていた。
 どこに行ったのか、見当も付かない。この階から移動したのだろうことだけは、分かった。
 椅子の背側に置いたバックに手を伸ばし、立ち上がる。
 待ち合わせ相手に見切りを付け、取っておいた部屋でルームサービスを楽しむ方向に切り替えることにしたのだ。
 エレベーターホールに細身のパンプスの爪先を向け、沙穂は歩き出した。

 早起きしてホテルの朝食をゆっくり楽しんだ後、荷物を駅のコインロッカーに預けて出社する。
 満員に近い電車に揺られている間、今日のスケジュールが頭に浮かぶ。
 手配したこと、すべきことを一通り思い返している内に、沙穂を乗せた電車は会社のある駅のホームへと滑り込んだ。
 一応手帳にすべて記してあるのだが、誰と会うかさえ企業秘密に直結する可能性がある以上、迂闊なところで情報漏洩に繋がるような真似は出来ない。
 車で通勤すればいいようなものだし、秘書の多くがそうしていることも理解しているが、電車に揺られるこの心地よい時間を捨ててしまう気にはなれなかった。
 第一、考えごとをしながら車を運転するのは危ない。考えごとをするなら電車に限る。
 会社に着くと、社員用の入り口で認証システムにキー代わりの社員証を通す。と、甲高い電子音が短く鳴り響いた。
 この音を聞くと、一日が始まるという実感が沸く。
 TEAM魏のあるフロアまで、大抵の者はエレベーターを使うことになる。
 早めの時間ではあったが、ホールは既に出勤してきた様々なTEAMの人間でごった返していた。
 一件無造作に固まった人々は、行儀良く順々にエレベーターに乗り込んでいく。しばらくすると、沙穂の番になった。
「おはようございまーす」
 いきなり声を掛けられ、肩の辺りに衝撃を感じる。
 同じ秘書課の新人の女の子だった。
「ちょっと」
 体のいい割り込みだ。
 叱り付けようとした瞬間、エレベーターの扉が閉まる。
 新人の女の子は、それきり沙穂を無視して扉に向き直った。
 ほっそりとした横顔のラインは、如何にも今時の娘風で美しい。
 その美しさが、すべての事象に対する免罪符になっていると信じきっているようだ。
 否、恐らく、意識しているかいないかの差があるだけで、彼女達は皆そんなものなのだろう。その驕りの象徴として、彼女達の陰口の酷さが挙げられる。容赦ない苛烈さは、周囲の人間を罵って良いと思い込んでいるような節があった。
 特に沙穂は、女性陣の中では最古参、最年長であるだけに、当たりは厳しかった。
 沙穂があまりに気にしないものだから、余計に躍起になっているような気もする。面子も人数も同じだった試しがないが、言っていることはいつも一緒で、だから沙穂の気を引かないということには気付いていないらしい。
 もっとも、それだけ息の合うにも関わらず、彼女達の仲は決して良好という訳ではないようだ。
 だから、都合のいい時には沙穂を巻き込もうとする動きが頻繁にあり、そんな煩わしい人間関係の整理も沙穂の仕事の一つとなっている。
 面倒なことこの上ない。
 けれども、そんな面倒も慣れてしまえばそれなりに愉快になるのが、沙穂にしても不思議だった。
――根っこの辺りが、マゾなのかもしれない。
 自嘲も出ない自虐に、軽く肩をすくめる。
 階が上がるにつれ、エレベーターに乗っている人数は少なくなり、最上階に近いTEAM魏のフロアに着くと同時に、新人の女の子は足取りも軽く降りていった。無論、扉を押さえて以降に続く沙穂を待つ、などという殊勝な真似はしない。
 困ったものだが、彼女は沙穂にまったく価値を感じていないのだから、仕方ないかもしれない。あれでも、上司が一人でも乗っていれば、この上なく礼儀正しい新人に早変わりするのだから、いっそ感心する。
 デスクに着くと、すぐにパソコンを立ち上げる。その間に支度を整え、業務時間前に軽く仕事をこなし、朝礼を迎えた。
 と、何故か朝礼担当の蔡文姫の横に、先程の新人女子が並ぶ。泣き腫らした目を見て、内心またかとうんざりした。
「……本日付けで、異動が決まりましたので、皆さんにもお知らせします」
 TEAM魏、特に秘書課では、所属する社員の異動率が生半可でない。何もしなければ何もない、ということは、決してない部署なのだ。それが分からない人間は、すぐに『飛ばされて』しまう。
 彼女も、例外ではなかったという訳だ。
 蔡文姫に異動の挨拶を促され、女の子は心底嫌そうに顔を歪ませながら、秘書課の面子を見回す。
 黙りこくっていたが、いきなりわっと激しく泣き出して、フロアを飛び出していった。
 追う者はなかった。
 どころか、こっそり笑っている者まで居る始末だ。
 朝礼はうやむやの内に終了し、沙穂は蔡文姫に呼ばれて傍らに進む。
「申し訳ありませんが、彼女の業務の代行をお願いしたいのです……あれでは、こなせないでしょうから」
「わかりました」
 この手の話の時、後始末は大抵沙穂の担当となる。慣れ過ぎていて今更驚くことでもなく、沙穂は素直に応じた。
「いつも申し訳ありません」
 心から申し訳なさそうな蔡文姫を笑顔で労り、沙穂は早速後始末に向かおうとした。
 それを、蔡文姫に止められる。
「こちらからお願いしたのに、お引き留めして申し訳ありません。ですが、朝礼が終わったらすぐに曹操様のところに向かうように……と、伝言を申し付けられております」
 それは珍しい。
 曹操の名を出されては逆らう気にもならず、沙穂は粛々と命に従った。

 曹操の室を訪ねると、すぐに中に通される。
「お呼びとのことでしたが」
 無駄を嫌う曹操に合わせ、即座に用件を切り出す。
 曹操は手にした書類から目を離さず、一人言のように呟いた。
「いつもあのように装っていたらどうだ」
――あぁ。
「仕事をするには、いささか邪魔なものですから」
 沙穂の答えに満足したのか、曹操は小さく頷く。
 それきり沈黙が落ち、沙穂は用が済んだと覚って自ら退室した。

 沙穂が、会社の中と外とで装いを変えるようになったのは、かなり前からのことだった。
 会社では、きっちりまとめた髪、地味な色型のスーツ、眼鏡に薄過ぎるくらいのナチュラルメイクで過ごしていた。
 だが、業務が終わり、どこかに出掛ける予定があれば、沙穂は自身の装いをがらりと変える。眼鏡はコンタクトに、メイクはTPOに合わせ、アクセも服も好みの明るい色、ブランドに改める。
 昨夜はデートの予定だったから、かなり念入りにしていたつもりだ。ギャップにも、余計に磨きが掛かっていたことだろう。
――私も異動って話になるかもね。
 あの場に居たのが沙穂だと分かっていたなら、曹操のプライベートを興味本位で覗いていたこともバレているに違いない。
 下手にプライドの高い男なら、それだけで腹を立ててもおかしくない話だ。
 しかし、その後幾日経とうと、沙穂が朝礼で前に引き出されることはなかった。

  終

P.A2 INDEXへ →