「逆チョコって知ってますー?」
 間延びした声に苛々した凌統が振り返れば、いつも通り薄ら笑いを浮かべた男がこちらを見ている。
 口を動かしている暇があるなら、と叱り付けてやりたいものの、これが器用に作業はこなしながらのことだから、余計に腹立たしい。
「知らないっつの」
 吐き捨てて顔を戻せば、間髪入れずに声が掛かる。
「何か今年は、男からもチョコ上げていいんじゃね? 的なー。あ、バレンタインの話ッスけどねー」
 請うてもいない解説を繰り出されて、凌統の苛立たしさは最早ピークに近い。
 凌統も、決して言葉遣いは綺麗な方ではないが、仮にも上司、仮にも先輩に対しての口の聞きようとは思えない。
 このは大層癖のある人物で、凌統直属として配置されたのも、ある意味厄介払いだったのではないかと被害妄想してしまう程だ。
 表立ってどうこうするつもりはないが、相性がいいとは口が腐っても言いたくなかった。
 とは言うものの、どこが癖かと聞かれると説明し難い。
 例えば、某男性タレントを彷彿とさせるの話し方は、実は前からのものではない。
 以前は普通に、ですますを使って居て、但しぼそぼそと陰気に話す感じだった。
 本来なら注意されるなりして直したのだろうと思われるかもしれないが、実はそうでもない。
 その前は、どちらかと言えば静かな、淡々とした話し方をしていた。
 の声は低くもなく高くもなく、耳に障り心地のいい良い声だ。
 話し方とあいまって、割合好かれていたように思う。
 それより前のことは分からない(入社して居なかった)が、一年経たずして二度の変化を遂げたを、皆が皆いぶかしく思ったものである。
 失恋でもしたのかと問いかける者が何人か居たのだが、その反応も様々だったと聞いている。
 ある者には陽気に否定し、ある者には無言できつい視線を投げ掛け、ある者には唐突に涙を零して見せる。
 周瑜辺りだったかが『情緒不安定』なのではないかと評していたが、あながち間違いでもなかったのかもしれない。
 そんなものは学生時分で卒業しておいてほしいと思いはするものの、業務上のは非常に優秀で、別に誰かに殴り掛かったり叫んだりする訳でもない。
 ただ、いきなりふいっと飛び出して戻ってこなかったり、いきなり用もないのに会社に泊まり込んだりするくらいだ。
 勿論、これらはきちんと査定に響いているし、残業している訳でもないから残業代も付かない。
 ここでが厚かましく残業代を請求するなら話は別だが、そういうことでもないから凌統も注意出来ずに居る。
 何しろ、個人的な事情(修羅場と化した住居に戻りたくないとかストーカー被害に遭っていて帰れないとか)で会社に泊まり込む奴が居ないではなかったから、強制的に理由を突き止めようとしたり頭ごなしに叱り付けるのも、何となくしてはいけないような雰囲気があるのだ。
 社員教育と自主的思考が比較的健やかに育まれている会社だったから、のような存在は正直イレギュラーとでも言うべき手を焼く類のものだった。
 そういったあれやこれや、また、比較的社員同士で仲が良いTEAM呉にあって、付き合いの悪いの存在が浮くのも無理からぬことだった。
 今日は偶々、凌統が残業しなければならない仕事があって、またその仕事を補佐させるのにもっとも適していたのがということで、仕方なく二人で居残っているという有様だ。
 それに、凌統もバレンタイン前日に女性社員を残業させる程の鬼ではない。
 美人揃いのTEAM呉で、彼氏が居ない女性社員はほぼ皆無だ(居なければ居ないで、素知らぬ振りして帰してやるのが漢というものだろう)。だからこその指名でもあるのだが、凌統の気持ちは早くも挫け掛かっていた。
「男から送ってもいいってことはー、男が男に送ってもいいってことッスかねー?」
「……いいから、お前、いちいち製菓会社の陰謀に乗らなくて」
 不況の最中の話、全国的にチョコレートに掛ける予算が減っているらしいというニュースは凌統も聞いた。
 タイミングを見計らってかどうかまでは知らないが、ならばとばかりに男性層に購入を働き掛けるのはどうかと思う。
「でも、女の子は女の子に上げたりしてんじゃないッスかー? 凌統チーフ的には、その辺どーなんですかー?」
「知らないっつの、ンなことまで。上げたきゃ上げればいいし、送りたきゃ送れっての」
 それより、早く残業を済ませてしまいたかった。
 の相手をしながらというのもナニだが、凌統は突然の来客で昼飯を食いっぱぐれていた。
 腹は減るし苛々するしで、胃の方から今にも抗議が来そうな状態だった。
 ぐぅ。
 脱力する。
 凌統は、何も意識を向けたからと言って、そこまで素直に反応してくれる胃を、我が胃ながら叱咤してやりたい衝動に駆られる。
 コーヒーでも飲んで紛らわせるかと俯いた凌統の視界に、四角い包み紙が滑り込んだ。
 ぱっと顔を上げた凌統に、思い掛けず怯んでうろたえるの表情が晒された。
「……あ、……その、良ければ」
 上手く言い繕えていない風なに、凌統は不思議な違和感を感じる。
 ほんのわずかな間を置いて、の表情は常の(最近に限って、だが)おどけたものに戻った。
 深い海底の底に潜り込むように変わるの表情に、凌統の違和感はますます大きく膨れ上がる。
 凌統の探るような視線を感じてか、は不意に皮肉げな笑みを浮かべ、差し出したチョコレートをひょいと引っ込めた。
「あ、さすがに、笑えないッスよね〜、幾らなんでも、今日はないって感じッスか〜?」
 引っ込めたチョコレートは、宙を飛んでゴミ箱へ落ちる。
 は、何気ない様を装って自分のデスクに戻った。
 凌統の視線は、を追う。
 が席に着いて鼻歌混じりに書類を広げても、そのまま見詰め続けた。
 何分か、時計の秒針が辺りに響き渡るような音を立てている。
 そうして、先に堪え切れなくなったのは、の方だった。
「すんません、ちょっと、トイレ……」
「逃げんのか?」
 凌統の言葉は何の感情もなくあっさりとしていたのだが、はまるで劇薬でもぶち込まれたかのように激しく身を震わせた。
 あからさまに痛いところを突かれたというのに、まだ大丈夫と言わんばかりに、口の端を力尽くで持ち上げる。
「……何、言ってんスか、べっつに逃げたりなんて……」
 してない、と続けたかったのだろうは、凌統の無言の視線に根負けしたように顔を逸らす。
「……ちょっと、気分が悪くって……風邪かも、しんねーッス、今、俺の住んでるとこで大流行で、あ、ひょっとしたらインフルかも、そーかも」
 勢いを付けて畳み掛けるように並べる言葉も、凌統はただの一言で断ち切った。
「おかしいだろ?」
「……おかしい、ッスか……?」
 何が、と首を傾げるの笑みには、力がない。
「やり過ぎ。普通、捨てるとかしないから」
 凌統の言葉に、その笑みさえ掻き消えた。
 今にも泣き出しそうな顔に、凌統は苦笑する。
 沈黙が落ちて、先に根を上げたのは、やはりだった。
「……嫌われるように、工夫してたつもりなんですが……チーフ、あんまり気にしてないようだったんで……まぁ、自分でも、馬鹿だとは思ってたんですが」
 嫌っている方ではあった。
 ただ、意地で仕事に持ち込まないようにしていただけだ。
 過去に一度仕出かした失敗を、わざわざ繰り返そうとは思わない。それだけだ。
 は、そんな凌統の過去を知らなかったのだろう。
「……いつから、気付いてました?」
 からの問い掛けに、凌統は一瞬悩み、しかし即座に答えを出した。
「気付いたのは、今。何となく感じたのは、結構前から」
 凌統の返事に、の目が歪む。
 笑う形に歪んだ目は、涙で潤んでいた。
 立ち去ろうとするに、凌統は声掛ける。
「何処に行く?」
 は困ったように、そして悲しそうに振り返る。
「……ホントに、トイレですよ。週明けにでも、移動願い出しますから、大丈夫です」
 何が大丈夫か。
 凌統が椅子を蹴って立ち上がり、は驚いて足を止めた。
「勝手に抜けられたりしたら、こっちが困るっつの」
 歩きながら、ゴミ箱に落ちたチョコレートを回収する。
「いいか、これはもらっておく。気が向いたら、来月、何か返してやるよ。あんたが居なかったら、返しようがないだろ?」
 呆然として凌統を見詰めていたは、唐突に手で顔を覆ってしまった。
 声を殺して泣くを、凌統はすぐ目の前で見詰める。
 手は出さない。
 代わりに、離れもしない。
「すいません、俺、男なのに、すいません」
 嗚咽交じりの詫び言に、凌統は眉を顰める。
「……ンなこと言ったら、俺だって男だっつの……」
 その気がないことは間違いない。
 凌統は、この期に及んで自分はノーマルであると断言できた。
 けれど、何故かのことを気持ち悪いとか逃げ出したいとか考えられない自分に、凌統は思わず自己嫌悪に陥った。
 そっと伸ばした指が、の肩に触れ、想像通りはびくりとして顔を上げる。
 ままよ、と重ねた唇を、は驚きながらも受け止め、受け容れた。
 困ったことに、嫌ではなかった。
 あーあ、と呆れ返りながら、凌統は、に呆れているのかそれとも自分に呆れているのか、分からなくなっていた。

  終

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