十五の時に志願して、神女は孫呉の兵卒になった。
実家は割と裕福な商家で、兄姉が多く、実家の手伝いを強制されるようなこと無く育った。
ただ、武芸に秀でる姫君、孫尚香にあやかり、両親は神女に武術を習わせたがっていたので、神女は物心ついたときには槍を握っていた。
漠然と「大きくなったら軍に入って戦に出るんだ」と思っていた。
親の伝で仕官先を探してもらった。運良く首都・建業城に置かれた軍に入ることができたのだった。
神女が配属された先は、機動力に長ける凌統軍だった。最初の数年を訓練に費やし、実戦に出るようになったのがつい一年前だった。
凌統と甘寧が不仲なのは、軍内では有名な話で、城下町でも兵卒同士が小競り合いをすることもあった。神女は他人と争うのが嫌で、甘寧軍との接触はなるべく避けていたし、そのせいもあり、軍でも城下でも目立たない娘だった。親の期待もそれほど無かったので、出世欲のない神女は、軍に入って六年経った今も、ただの一兵卒に過ぎなかった。同期には将軍の副官をしているような者もいる。
それが羨ましいとか、焦るとか、そういった感情を抱くことすらなく、神女にとっては「毎日槍が振り回せて、呉のために何かしら役に立っているのだから自分は幸せ者だ」という具合だった。
そんな神女にも、憧れがあった。
ひとつは、将軍である凌統。一番間近に見られる将軍であるものの、じかに話したことは数えるほどしかないし、それも二言三言交わした程度。神女にとっては雲の上の存在だった。凌統のようになりたいとは思わないし、なれるとも思っていない。
軍内でも機動力のある軍として名を馳せる凌統軍に名を連ねているという事実は、神女にとって少なからず誇らしいことだった。
もうひとつは、甘寧軍に所属している鬼灯という女性。きらきらと陽に透ける銀髪で、もとより人目を引く美女であった。遠目で見ても、そのまっすぐな瞳と、物怖じしない態度、その近寄りがたいような雰囲気は、自分に無いものばかり。人伝に聞けば、年は自分と一つしか
違わないという。いつしか、視界に入れば立ち止まって眺めてしまう、見えなくなるまで目で追ってしまう、そんな状態になっていた。
神女が鬼灯と初めて会ったのは、蒸し暑い夏の日だった。
ある日、訓練を終えた神女は、当番制になっている片付けを黙々と行っていた。訓練場と武器庫を何往復かし、額から滴る汗を腕でぬぐった。
「ふー、あとちょっとだ……」
そう呟いて武器庫を出る。その時、遠くから馬の嘶きが聞こえてきた。耳を澄ますと、どうやら甘寧軍が郊外での演習を終えて戻ってきたところのようだった。
そうなれば、武器庫にも人が出入りするだろう。混雑する前に、早く片付けてしまわなければならない。幸い、後は自分の使っていた槍を片付けるだけだった。
小走りに訓練場に戻り、自分の使っていた槍をもって武器庫に舞い戻る。槍を立てかけて、武器庫を出る。鍵を返して、神女の役目は終わる。
どうやら、甘寧軍が戻るまでに終わらせることができたようで、神女はほっと息を吐いた。荒っぽい甘寧軍のこと、自分の所属が凌統軍と知られれば、決して良い目はみられない。……と、先輩の兵卒から言い含められていた。
武器庫に鍵をかけていた神女の手元に、ふと影が落ちる。振り向くと、そこに立っていたのが鬼灯その人だった。
「ちょうど良かったわ。鍵は凌統軍の方が持っていると聞いたものですから。譲ってくださるかしら?」
珍しい銀髪に目を奪われた。鍵を握ったまま固まっている神女を、鬼灯は首をかしげて見た。
「あの……何か?」
訝しげな視線を浴び、我に返った神女は、ふるふると首を振って鍵を差し出した。
「す、すみません」
鬼灯は鍵を受け取ったが、微笑んだ顔はぎこちなかった。
「ありがとう。……どこか、お加減が悪いの?」
「いいえ、別に……」
軽く会釈して脇をすり抜けようと足を踏み出したとたん、神女はその足元がふわふわするのに気づいた。
「あれ……?」
一瞬目の前が真っ白になったかと思うと、膝から力が抜けてしまうのが分かった。転ぶ、と思って手を出そうとしたのだが、どうしたことか、意思に反して腕は動かず、顔面から地面に倒れてしまった。慌てたような鬼灯の声が、遠くに響くように聞こえていた。
気がつくと、神女は寝台の上に寝かされていて、額には冷たく絞った布が載せられていた。視線をめぐらすと、そこが医務室なのが分かる。
身じろぎして、体がじっとりと汗をかいているのが分かった。寒気と頭痛でひどく不快だった。眉をひそめて「うー……」とうなると、近くにいた軍医の爺が近寄ってきた。
「気づいたかね」
起き上がろうとする神女を制して、軍医は枕元に腰掛けた。
「暑さにやられたようだの。炎天下、一人で片付けとは、酷なことをさせるもんじゃ。わしから凌将軍に伝えておいたで、今日はここで休むがよい」
軍医の話で大体の様子がつかめた。軍医は白いあごひげを撫で付けながら、もふもふと笑った。
「さてもさても、よい先輩をもったな。鬼灯というそうじゃが」
「きちょう?」
「お前を助けてくれた女じゃよ。甘寧軍の者だそうな。あとで様子を見に来ると言っていたから、待っておれば会える。礼を言うのじゃぞ」
神女は、武器庫の前で会った銀髪の女性を思い出した。
「あの人……鬼灯さんて言うんだ……」
ふと瞳を閉じると、だるさも相まってとろりとした眠気が襲ってきた。綺麗な人だったな、とぼんやり思った。
鬼灯は、夕食をとる前に医務室に立ち寄った。戸を叩いて扉を開けると、軍医が口元に指をあてて「静かに」と合図して、寝台を示した。
ゆっくりと寝台に近づくと、神女は寝息をたてて眠っていた。運んできたときよりもずいぶん顔色がいい。枕元においてある水差しの水もずいぶん減っているから、ちゃんと水分を取って休むことができたのだろう。
枕元に腰掛け、掛け物から出ていた手を取って中に入れてやった。すると、むずがゆそうに身じろぎして、うっすらと目を開けた。
「起こしてしまったかしら?」
神女は鬼灯を見止めると、ぱちくりと瞬きして、のそりと上体を起こした。
「大丈夫?」
笑みがぼんやりしているのは寝起きだからだろう。
「はい、おかげさまで。私は凌統軍の神女といいます。お助けいただいて、ありがとうございました」
鬼灯も微笑み返す。
「甘寧軍の鬼灯です。突然倒れるものだから驚いたけど、すっかり良いようですわね」
後ろから軍医がひょこりと顔を出す。
「鬼灯殿は羽扇使いでの」
羽扇使いは回復術もこなす。武一本の神女にとっては、術というのは神仙に通じる神秘的なものというイメージだった。
「すごいんですね……鬼灯殿」
「鬼灯で結構よ。どちらかといえば幻術のほうが得意なのですけど、お役に立てて良かったですわ」
そうして笑う鬼灯は、自信にあふれた剛くしなやかな女性そのものだった。
それが、神女と鬼灯の出会いだった。
以後も、甘寧と凌統の不仲は続いていたし、神女と鬼灯ばかりが仲良くなっても、それは変わらない。しかし城内で顔を合わせれば、二言三言は言葉を交わす。
「あ、鬼灯さん」
「あら、神女さん。どちらへ?」
この日も、建物と建物をつなぐあずまやで、偶然行き会った。神女は竹簡を抱えて。鬼灯は常の軍服ではなく、町民が着るような襦裙を纏っていた。
「報告書を取りまとめて、都督府へ持っていくんです」
「そう。私は私用で城下へ行くの」
神女は欄干から身を乗り出して、あずまやの屋根の隙間から空を見た。
「日没前には降り出しそうだから、早めに帰ってきたほうが良いかも」
鬼灯も神女に倣って空を見上げるが、どこをどう見たら「日没前に降り出す」のか、見当もつかない。傍から見れば、ぼんやりと空を見上げているようにしか見えないのだが、神女の赤紫の瞳には、空の何かが見えているのだろう。
「神女さんの天候読みはよく当たるものね。ありがとう、教えてもらって良かったわ」
「気をつけてね」
そうして歩き出した神女の背を見送って、鬼灯ははっとする。てけてけと走っていく神女に、慌てて声をかけた。
「神女さん、都督府はこっちよ!」
ぎくりと立ち止まり、顔を真っ赤に染めながら、照れ隠しで大げさに笑って、鬼灯の示したほうへ慌しく去っていく。そのさまを見ていると、孤高で謳われた銀髪の美女も、くすりと笑みがこぼれるのを抑えられないのだった。
「ふふっ……。しょうのない子ね」
そしてそれから数日。「山」が突然現れ、鬼灯と神女は巫女として出立することになる。
【せれね様のComment】
第1回結果発表の作品で、鬼灯さんと神女をとてもいい感じで表現してくださったので、妄想が膨らみましたv
鬼灯さんがお姉さんだったら良いのに…orz
書いてて神女が羨ましかった…!!笑
※表現、ストーリーなどに不適切な点がありましたら、ぜひご指摘ください。