■猫

 散開して後、紅春は詰めていたものを吐き出すかのように、大きく息を吐いた。
「……っはー。つっかれたぁ」
 陸遜は、そんな紅春を見詰めて複雑そうな顔をした。
 紅春の奔放さは、正直な話生真面目過ぎる嫌いのある陸遜には理解し難いものだった。
「そんなに疲れるものですか?」
 皆がいる間は敬語を使え、と命じたのは陸遜だが、自分の面子半分とはいえ後の半分は紅春の為でもある。
 年が若いとはいえ将軍職にある者に対し、年下かつ身分も兵卒の紅春がタメ口を聞くような常識は軍にはない。 軍と呼ぶには奔放な性質の呉軍でも、それしきの常識は求められて然るべしだ。
 これが、相手が孫策なり甘寧なりであれば話は違ったかもしれないが、実際のところは陸遜なのであるから違いようもない。
 今回の異変解明の任には、その手の礼儀には口うるさい周瑜が同行しており(しかもかなり機嫌が悪いとあって)、陸遜はいつ周瑜の叱責が飛ぶかと冷や冷やしていたのだ。
 疲れたと言うなら、こちらこそ疲れたと言いたい。
 溜息を吐く陸遜に、紅春は目をぱちくりとさせている。
 虹彩の小さい紅春の顔は、ぱっと見で猫を髣髴とさせる。
 気ままに振舞う様はまさに猫そのもので、陸遜はこの先が思いやられるのを感じていた。
「どうしたの?」
 いつの間にか陸遜の傍らに立っていた紅春が、覗き込むようにして陸遜を見上げていた。
 考え事をしていたとは言え、ここまでの接近を許した己の未熟を恥じる。
 どのような能力があるかは知れないが、紅春は一介の兵卒、しかも自分の手下である。理由が何であれ、何事かあれば自分の未熟のせいと陸遜は断じていた。
「……貴女は、剣を使うのでしたね」
「そうだよ」
 言うなり、身軽く宙返りしてみせる。
「結構身軽なんだ、私。什長さんからは、勝手な行動ばかりするって良く怒られるけどね。言葉遣いも、よく怒られるんだけど。どうしても直らないって言うか、気が付くとこんな感じになっちゃうんだよね。これでも、気を付けてるつもりなんだけど。やっぱり、気になる?」
 一を聞いて十を知るではないが、紅春の理解の早さに陸遜は舌を巻いた。
 これなら、鍛えれば軍師としても物になるかもしれない。
「文字は? 読み書きは、どの程度出来るのですか」
「そっちはさっぱり。読むのは、ちょっとは読めるけどね。読み書きちゃんと出来てたら、私みたいにはならないと思うんだよね」
 けらけらと笑う紅春に、陸遜は気負い過ぎた自分を笑われたような心持ちだ。
 何を考えているのか、あまりにも読み取り難い。
 陸遜の見立て通りだとして、紅春が出世できずにいたのは、年のせいばかりではなくこういう面にこそ理由があったのかもしれない。
「……少し、教えて差し上げましょうか。自分の名前は書けますか?」
「書いて」
 さっと手のひらを出す紅春に、陸遜は戸惑う。
 しかし、辺りを見回せば一面の草叢、文字を書き記せる地面も彫り付けられるような木もない。
 筆は一応持って来てあったが、紅春の手に書き付けるのは気後れする。
 陸遜は、紅春の傍らに立つと、その手のひらに人差し指の先を押し付けた。
 紅の一文字をゆっくり書き付ける。
「これが、貴女の名前の『紅春』の、紅という字」
 次に、またゆっくりと春の字を綴る。
「これが、『紅春』の春の字」
 もう一度と強請る紅春に、陸遜はもう一度『紅春』の字を刻み付けた。
 紅春は、陸遜が名を綴った手のひらをそっと握り込むと、もう片方の手で包み込む。
 何をしているのかと陸遜が目をやると、紅春はぱっと明るい笑みを浮かべた。
「まるで、もう一度名前を付けてもらったみたい」
 訳も分からず怯む陸遜を余所に、紅春は身軽く草原を駆けていく。
 本当に、猫のようだ。
 広い草原のただ中に、紅春の長い黒髪と与えられた鮮やかな赤の装束が映える。
 見失うことはなかろうが、見る見る小さくなる紅春の姿に、陸遜は慌ててその後を追った。


  終

【双屋のComment
掲示板昇進特典の訓練SSです。
お待たせしました。
訓練といいつつ訓練じゃない感じですが、こんな感じでどーでしょうかということで。