■黎姫

 女が去っても、黎姫は身動きできずに居た。
 まるで石像にでもされてしまったかのようで、体がぴくりとも動かない。
 手の甲にふっと冷たい風が染みた。
 ホウ統が手を離し、汗ばんだ手から移った湿り気が風を冷たく感じさせているのだと分かった。
 黎姫の肌はすぐに乾いたが、代わりに胸の奥底に冷やりとした風が吹き抜けた。
 如何してしまったのだろうと思う。
 ここに来てからあまりに尋常でない出来事が続いたせいか、当たり前のことが当たり前に感じ取れない。
 脅威は去った。
 もう、気配すら微塵もない。
 だから、ホウ統が手を離したのは当たり前のことだ。ホウ統が黎姫の手を取ってくれたのは、あくまで女の脅威から黎姫を守ろうと、黎姫の方寸が確かなものであるようにと気遣ってくれただけに過ぎない。
 よしんば無意識であったとしても、ホウ統はただ部下思いであると言うだけだ。
 ただの部下。
 自分の立場を言い表した時、黎姫は再び染み渡る冷たい風を感じた。
 如何してしまったのだろう。
 無性に泣きたくなって、目の前が滲んでいく。
 これではいけない、ホウ統に無用の気遣いを強いることになると、黎姫は己の気を逸らす事柄を懸命に探した。
「……あのひと、私を黒の姫と呼んでいました」
 唐突な切り出しに、ホウ統はちらりと目を向けて寄越した。
「ああ、そういう言葉遊びが好きな御仁のようだね……気にするこたぁないよ」
 言葉遊び、と黎姫が首を傾げると、ホウ統はゆらゆらと視線を彷徨わせた。
 言い難いことなのだろうかと不安になると、ホウ統もそれを感じ取ったらしく、慌てて打ち消す。
「否、そうじゃない。その、とっても良い名だよ。誰が付けてくれたのか知らないがね」
「母が、知り合いの偉い先生に頼んで考えてもらったものから、父が選んだそうです」
 言われも何か聞いていたような気がしたが、幼い頃に聞かされたせいかよく思い出せなかった。
「そうかい、お前さんの親御さんは、お前さんを随分可愛がって下さっているようだ」
 ホウ統の目元が和やかに緩んだような気がして、黎姫は胸元を押さえた。
 今度は冷たい風ではなく、きゅっと締め付けられるような甘やかな痛みが走った。
「……お前さんの名前、黎姫の黎の字は、黒いという意味があるんだよ。そら、黎明なんて言うだろう。ありゃあ、夜明け前の黄み掛かった空の頃を言うのさ」
「では、私が生まれたのはその時刻だったのかもしれませんね」
 明け方前の黒い夜空に、力強い朝日の色がその力を抑えきれずに滲み出す。
 兵卒の仕事の一環で城壁の警備に当たっていた時、黎姫はその空を見るのがとても楽しみだった。
 この世に生まれ出た記憶がそうさせるのだとしたら、それはとても納得出来る気がした。
「あぁ、まぁ、そうかもしれない……ね」
 口篭るホウ統に、黎姫はいぶかしげな目を向ける。
 ぴったり当てはまるような気がするのだが、ホウ統にはそうは思えないのだろうか。
「否、むしろその考えの方が合っていると思うよ。……その、黎という字は、まあ細かいことは抜きにして、黒髪ってぇ意味もあってね。だから、あっしは、さ」
 黎姫の綺麗な髪の色から取ったのかと思ったのだと、ホウ統はぼそぼそと呟いた。
 それきり黎姫に背を向けて、あちらこちらをふらふらと観察し始めたホウ統に、黎姫は顔が熱くなるのを感じていた。
 無礼を承知で背を向ける。
 ホウ統がこちらを見遣った気もするが、気にしていられなかった。
 嫌じゃないのに、悲しくもないのに、如何してしまったのだろう。
 溢れ出そうになる涙を、黎姫は必死で抑えていた。


  終

【双屋のComment
黒の姫とは何ぞやということで、お話にしてみました。
そんな訳でたいした意味はありません。げふん。
妾の正体と言うか性格とか気質とか推理想像する分にはいいかもしれません。

名前の由来捏造してすみません>紫風さん

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