■登山前







 空に浮かぶ山を最初に見た時、思ったことはただ一つ。




 うわぁ、登ってみたい。






 山なんていうのは宙に浮かぶものじゃないだろう。一度地面を見て、そして顔を上げても山はまだそこに浮いていた。世の中には不思議な事が山ほどあって、その内の一つが目の前の山なのだ、きっと。目の前に知らない物や事があるなら、自分でその『不思議』を知りたくなるし、体験してみたくなる。昔からそれだけは変わらない、性格などはそうそう年をとったからとて変わるものでもない。
 さて、と口元に手を当て考え込んだ。

 もし登るとしたら…少しは休暇を頂かないとまず踏破は出来ないだろう…けど、まだまだ下っ端の私に長い休暇なんてあるはずもないし、とすると、ここは家族に急病が!っていうか、嘘はいけない、嘘は…いつ会ったんだ、って話で、ここ何年かは帰っていないし、皆元気かな…って、それに、同じ蜀に居る義妹二人だって病気でもなんでもない、あれもしかしてこれは暫くお預けですか、参ったな。


 山を見上げ、うーん、と腕を組んでいると、背後から声をかけられた。振り向いても知らない顔、だが、明らかに私よりは身分が上だ。兵卒の私よりも下なんて人が居るとは思えないし。何かしたろうか、とここ数日の行動をなぞってみても、思い当たる節も無い。人違いにしては、はっきりと名前を呼ばれたし…どういうことか、と私が口を開くより前に、その人は、『丞相の使いで参りました』と、私に丁寧な口調で言った。

 訳の解らぬまま、呼ばれた先へと向かう。途中、着替えまでさせられ、普段なら袖を通すことなど考えたこともないような煌びやかな鎧を身につけた。そして通された場所には、同じように着替えた年若い娘さん方が五人。その中には妹達の姿も見える。
 一体なんの集まりなのだろう、と首を傾げたところで、また新たに人がやってきた。しかし、次は若い娘でもなんでもなく、話した事は勿論無いし、こんなに近くでお顔を拝する事など今まであるはずもない、殿だった。その後ろからは関羽将軍、張飛将軍、それに丞相、蜀を代表とする他の将軍方や軍師殿までいらっしゃる。
 皆を見渡し、まず口を開いたのは丞相だった。






 殿の訓示や、丞相の注意と説明が終わった後、集められた人間はばらばらと散っていく。準備しようかな、と足を進めた。そこへ、
「蓮姐!」
 呼ばれ、立ち止まり振り返れば、愛羅がたたた、と駆けてくる。
「そんなに走らなくても。どうしたの」
「蓮姐は、山に、行きたいの…?」
 途切れ途切れの言葉に、愛羅の顔をじっと見つめた。
「愛羅は行きたいと思ってないのね」
 わざわざ口にせずとも、愛羅の問いかけや先程の態度を見ていれば一目瞭然だ。問いに問いで返された愛羅は、頬を膨らませて、口を開いた。
「あたしじゃなくて、蓮姐のことだよ」
「行きたいわ。あそこがどういう所なのか知りたいの」
 公然とあの山に登ることが出来る。最初に話を聞いて、迷うことなど何も無かった。直ぐに、是、と頷いた。
「ああもう、蓮姐ってば、にやにやしちゃって…」
「そう?にやにやって…」
 頬に手を当ててみたものの、自分では自分がどのような顔をしているかは解らない。
「蓮姐さま、愛羅」
「黎姫」
「黎姫姐」
 歩いてやってきたのは黎姫で、聞いてよ!と、来たばかりの黎姫に愛羅が、蓮姐ってば、と話し出す。
「まぁ」
 目を瞬かせ、話を聞いた黎姫は愛羅と私を交互に見た。そして少しばかり困ったように首を傾げた。ああ、そうか、この子は、
「黎姫も行きたい人よね」
「…ええ」
 黎姫に水を向けると、愛羅のことを気にしたのだろう、黎姫は戸惑いながらも頷く。
「黎姫姐まで!」
「私にお役に立てることがあるなら、と…」
 愛羅は黙ってしまい、ああ、とか、そんな…等と呟いている。
「理由は人それぞれだからね。愛羅がどうしても行きたくないというなら、私は何も言うことは出来ないわ」
「私は、愛羅が居てくれると心強いです」
「う、」
 愛羅は黎姫と私をちらちらと見比べて、小さく呟いた。
「別に、行かないなんて…言わないけど」
 私が愛羅の頭に手を伸ばしてかき回すと、もーやめてよ!と愛羅が口を尖らせる。しかし、目の奥の不安が消えるわけでもない。
「ま、いきなり離れ離れということもないわ、多分」
 傍にいることが出来る。だったら、大丈夫だ、と愛羅よりも、自分に言い聞かせているみたいだった。









 妹達と別れ、何を持っていったものか…と考え込んでいた時、会ったのは魏延様だった。いくら上官とはいえ、私は下っ端で、言葉を交わすのはこれが最初だ。かけられた言葉は多くは無い。しかし、魏延様が饒舌だという話を聞いたこともなければ、まぁ…見たこともない。
 魏延様を見送った後、必要になるかもしれない物を書き出した。それを見ながら物を揃え、思い出すのは先程の言葉。
「任せる、とか言われたし」
 呟いてみる。それに、「頼む」って。荷物を纏める手が止まった。
「……………………何よ、もう」
 その少しの言葉で、この方の為に働きたい、とか思ってしまう自分ってどうなの。単純すぎる。
 殿のお話でもあった、民の為、蜀の為…なんていうのは、正直な所、実感が沸かない。対象が大きすぎて想像も出来ない。それに、まず、山に登りたいのは自分の好奇心からだったはずだ。
 そのはずだったのに。
 魏延様は武力という点では役に立つとは思えない(だって下っ端)、得体の知れない(自覚も無い)『巫女』に、『任せる』なんて言ってしまうし。むう、と口を真一文字に結ぶ。
「……………」
 はあ、と止めていた息を吐き出して、また手を動かす。与えられた期待や任された信頼に応えたいと思う。そして、お役に立ちたい、という自分の気持ちも無視することは出来なかった。




 荷物は細かく分けて、邪魔にならないように小振りにまとめた。いくら役立つものが入っていたとしても、実際に動く邪魔になっては本末転倒だ。身支度を整えて、山へ向かう集合場所へ向かった。まず見つけたのは明らかに挙動不審な末の妹。大体その手に持ってるものはなんなの。
「…愛羅?いつからそんな…」
 斬馬刀を持つように。少なくとも、今日最初に顔を合わせた時は持っていなかったはずだ。少し前に別れた時にも。
「え。あ、や…そんな、なにも。おかしくないでしょ」
 いや、おかしいよ。話を振れば、目があちこちに泳ぐし、あからさまにおかしい。それに、別れた時よりも顔がさっぱりしている気がする。じい、と見ていると、「あ、あ、あ…あたしのことより!あ、黎姫姐だよ!」慌てて声を上げた。…誤魔化された、ことにしておこう。挙動不審のまま愛羅が、黎姫姐〜!、とぶんぶん手を振った。愛羅に小さく手を振りかえして、黎姫がやってくる。
「荷物まとめてた?」
「はい。どれを持っていったら良いか、迷ってしまって。蓮姐さまも?」
「うん。とりあえず保存食と薬を何種類か」
 私に黎姫ほどの知識があれば現地調達も可能かもしれないが、今更言っても詮無い事であるし。戻ったら教えてもらおう。
「ところで蓮姐さま」
「ん?」
「愛羅は…どうして斬馬刀を…?」
「ひゃ」
「…ぷっ」
 誤魔化したはずの話題を黎姫に持ち出され、愛羅が声を上げた。思わず私の声も漏れる。横を向いて我慢しようとしたのに間に合わず、ちら、と視線を二人に戻せば、顔が赤い愛羅と何か解らず不思議そうな顔の黎姫が居た。

【蘇芳様のComment
第三回の結果が出ていますが、第一回の隙間のぶつ切り(笑)…です。
まだちょっと山のことやら軽く考えている感じで…これから予想外のことがてんこ盛りなことをまだ知らずにいます。…当たり前ですが。


紫風さん、毅本さん
お嬢様方の貸し出し、ありがとうございました。

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