我輩は猫である。
名前は…そう、数多ある。
我輩の住む場所は、とある城の中で、我輩はそこで寝起きしている。
今日はとある宿舎の一室。とある寝台の上で目を覚ました。時折こういうこともある。我輩が目を覚ましても、同じく寝台を共にしたものは目を覚ます気配すらない。しかし、我輩は目覚めたので外へ出たい。戸や窓はしっかりと錠がかかっており、如何な我輩であっても開ける事は容易ではない。そうすれば、ここに眠る者を起こすしかないということは直ぐに解って貰えるだろう。
そこで、我輩は寝台から降りて、少し離れることにした。寝台の上では、何やらむにゃむにゃ言いながら寝返りを打っている女の気配がする。我輩は助走をつけ、一息に寝台の上に飛び乗った。そこは、寝台の上であり、蓮の腹の上であり。
「…っぐ」
全く…女性の言葉とは思えんな。我輩が腹の上から蓮を見下ろすと、蓮は目を開き、恨みがましい目で我輩を見上げた。
「…あんた、もうちょっとマシな起こし方を考えられないの…?」
一声鳴くと(勿論、小さくだ。周りに配慮が出来ない程、我輩は愚かではない)、蓮は察したのだろう、戸を少し開いた。
マシな起こし方と、言われても、我輩は余程の事が無い限り、女性に爪を立てることはしない主義なのだ。例外はあるが。我輩をじっと見つめ、我輩が礼を言うと、蓮は欠伸で応える。失礼な。まぁ、朝早いこともあるし、大目に見るのも、良い雄の証拠であるだろう。
今日はいい天気だったので、まずは散歩をすることにした。そよそよと流れる風も心地よい。全くもって散歩日和だ。
む、いかん。
シュ、と音がしたのと、我輩がぴょん、と斜め後ろに跳ねたのはどちらが早かったろうか。とん、と音がして我輩が先程まで居た場所に矢が刺さっているのを見て、眉を顰める。なんたることか!こんなところで、命を狙われる羽目になろうとは!我輩が何をしたというのだ。憤っていると、誰かの足音が聞こえた。この矢の持ち主のようだ。
「ああ、ごめん!」
ぱたぱたと走ってくるのは翡翠だった。
「当たってないよね?」
我輩を抱き上げて、ああそのように持ち上げては我輩の身体が伸びる!びよーんと伸びた我輩の胴をぐるぐると見回して、翡翠は満足したらしい。我輩の足がぷらぷらしているぞ。
「良かったあ…」
まぁ、ちゃんと避けているし。我輩の運動神経の良さに感謝することだ。しかし、一人なのか…?他に人の気配も感じられない。翡翠が我輩を下ろし、しゃがみ込むと我輩の頭を撫で回す。
「練習中なんだけどねえ…」
呟きながら、はあ、などとため息をついている。
「腕を磨くっていうの?負けたくないっていうか。小さいから力が無い、って思われたくないし」
ふむ。確かに、翡翠は人の中でも小柄なほうだろう。馬殿の部下の中でいえば、一際…とまではいかなくても、小さき事に変わりは無い。
「ここなら誰も居ないかと思ったんだよね」
言って、「そうだ」と懐の中に手をやった。ん?なんだ?そこから出てきたのは何やら包まれた………おお、月餅か。
「お詫びに」
翡翠は月餅を半分に割り、それをまたさらに割り、もう一度割ってから、掌にそれを載せ我輩に差し出した。丁度、口に良い大きさだ。我輩は有難く頂くことにした。女性からの申し出を断るはずもない。翡翠の手ずからいくつかを食べ、我輩たちはそこで別れた。翡翠はまだ練習をするのだろう。
さて、喉が渇いた。辺りを見回せば、あの男の室が近い。行ってみない手はないだろうと、足を向けた。
扉に近づくと、中から声が聞こえる。どうやら在室のようだ。戸をかりかりとかけば、足音がし、ややあって戸が開いた。隙間から仮面が覗く。
「なんじゃあ?」
戸を開けた男とは別に、奥に居たのはご老体だ。戸を開けた室の主の背後からこちらを見ている。時折、我輩に声をかけてくることもある人だ。
「猫ではないか。魏延、お主が飼っておったのか?」
ご老体は我輩の事を『猫』と呼ぶ。間違っているわけではないが、我輩の個性というものを考えてもらいたいものだ、と思う。まぁ、この城には我輩以外の猫は居ないので、そう呼ばれても別に構わないが。我輩は心が広いのだ。
「違ウ…」
室に入ると、しゃがんだ仮面の手が我輩に伸びる、顎の下をこしょこしょされると、ついうっとりと喉を鳴らしてしまった。…我輩としたことが油断をした。しかし、この男の手で撫でられるのはとても心地よいのだ。爪の具合がとてもいい…いや、そうではなく。
我輩は喉が渇いているのだ。
仮面を見上げ、声を上げる。手を止めた仮面は、離れ、また我輩の前に腰を屈めた。そして水を入れた皿を我輩の前に差し出す。察しの良い男だ。口を近づけて水を飲んだ。
必要な分だけを飲むと、向いにいた仮面に、礼を言う。
「礼を言っているようじゃのう」
「…ウム」
仮面がまた少し戸を開け、そこから外へ出る。矢張り、気が利いている。
廊下を歩いていると、何か声が聞こえた。いや、何かの歌のようだ。特に急ぐものでもない、と我輩は声のほうに足を向けた。
果たして。そこに居たのは黎姫であった。ああ、そうか、ここは黎姫らの室の近くだ。我輩としたことが、気づくのが遅いではないか。黎姫は何をやっているのだろう。戸を開け放し、笊をいくつか置いて、その上には草やら葉やら何かの実が並べられている。まだ瑞々しいものもあれば、干からびてぱりぱりになっているものもある。
「あら、玉ちゃん」
黎姫がこちらに気づいて、小さく手を振った。我輩が近づくと、黎姫はしゃがんで我輩に手を伸ばした。
「今日は良い天気ですから、よく乾きます」
ああ…そうか。黎姫がよく作っている乾物だな。黎姫は何やら楽しそうにくるくると指で我輩の額をかきまわしている。うーぬーぬー…しかし、心地よい。
「玉ちゃんも暖かくて、ふわふわしてますね」
まぁ、我輩も毛を持つ生き物であるし?綺麗好きだから実に触り心地が宜しかろう。それにしても…ぬーぬーぬー…心地よい。
「玉ちゃん、もし急いでないなら、暫くここに居ませんか?」
ふむ。黎姫の頼みとあらば吝かでは無い。
と、いうわけで。暫くの間、我輩と黎姫は日向ぼっこに勤しんだ。黎姫は時折、笊をがさがさとやっていたが、我輩を起こすようなことはしなかったし、我輩も遠くにその音を聞きながら、黎姫の膝の上でうとうととした。とても気持ちの良いものだ。
暫し微睡んだ後、黎姫の膝から降りると、黎姫はまた、指でくるくると額を触った。
ふんふん、と気分よく歩いていると、東屋に人影が見えた。近づけば、そこに居たのは、髭殿と小僧だった。ひょい、と台に乗れば、髭殿はちらりとこちらを見た。猫の世界では立派な髭は、尊敬される。人も同じらしく、人間も髭殿のこと、髭何やらと呼ぶと聞く。どうやら、二人は碁を打っているらしい。小僧のほうは、盤面に視線が釘付けになっている。やれやれ、見ているところが違うぞ、打つべきはそこじゃないだろう。じれったさに、眉間に皺が寄る。
「平よ」
組んでいた腕を解き、髭殿が小僧を呼んだ。呼ばれたほうは、なんだろうと顔を上げ、そこで漸く我輩の存在に気がついたらしい。
「…小虎ではないか」
平、と呼ばれた小僧が呟く。
「小虎?」
「はい、父上。この猫の名前です」
「…ほう、そんな名前が」
髭殿はふうむ、と唸ってまた腕を組んだ。『小虎』というのも我輩の名の一つだ。小僧や…ああ、丁度やってきた。
「失礼します。父上をご存知ありませんか?」
星彩が、我輩の事をそう呼ぶ。
「いや、ここでは見ていないな」
「拙者も今日はお会いしていない」
「そう、ですか」
星彩はどうやら、父親を探しているらしい。見つけたら我輩も教えてやろう。盤に触れぬように、小僧の肩を経由して星彩に向かって飛ぶと、そのまま抱きとめられる。
「小虎も父上を見つけたら教えて頂戴ね」
解っている。安心して任せるがいい。我輩は女性に親切だからな。
「わー。どいてどいてどいて!」
声に慌てて飛びのくと、愛羅が走ってやってきた。そして通り過ぎた。…何事か。そのまま放っておこうかとも思ったが、何をそんなに慌てているのか、と気になる。我輩は愛羅が走り去った方向に足を向けた。が、走るまでもなく、直ぐに愛羅に追いついた。愛羅はぴたり、と立ち止まっている。
「間違えたみたい」
てへ、と愛羅は頭をかいて周りをきょろきょろと見回した。間違えた、と?
「今日はお休みの日です」
我輩の言葉を理解したわけでもあるまいが、愛羅は丁寧に言って(良いことである)、くるりと踵を返した。先程まで足が向いていたのは城門のようだったから、当番の日でも間違えたのだろう、と我輩は思う。
「今日は黎姫姐もお休みのはずだから、黎姫姐と一緒に美味しいものでも食べに行こうかな」
黎姫と?黎姫は今日は忙しいのではないか?笊をがさがさとしていたぞ。首を傾げる我輩を気にすることもない愛羅は、なんだかお腹空いちゃった…と続ける。
「むー…やっぱり計画変更!美味しい物を買ってきて、黎姫姐と一緒に食べようかな」
決定!と明るく宣言する愛羅は我輩のことを忘れてしまっているのだろうか。
「栗丸も一緒に行く?」
覚えていたらしい。しかし、そこは遠慮しておこう。我輩、今日はまだ外へ出る気分ではないのだ。返事をすると、我輩をじいっと見ていた愛羅は、そっかぁ、と呟いた。我輩が乗り気でないのを察したのだろう。
「また会えばお土産持ってきてあげるよ」
我輩の頭をぐりぐりとかきまわして、いってきまーす!と愛羅が手を振った。気を付けて行くのだぞ、と声をかけると、また振り返って手を振っている。ああ、解ったから前を見て…!
やれやれ、と中庭を横切ろうとしたところで、ふと何かが視界に入った。うん?そちらに顔を向けると、廊下で立ち話をしている覆面殿と若造だった。珍しい組み合わせもあるものだ。どれ、と近づいていくと、先に我輩に気がついたのは覆面殿だった。
「おや、どうしたね」
こんな日中に珍しい、と覆面殿が続ける。全くだ。このような時間にうろうろしているなど有り得ん。
「小虎か」
覆面殿の隣にいた若造が声を上げる。
「小虎って言うのかい」
「あ。はい。そのように呼んでおります」
若造はあの鯰髭の隣に居ない時でも、聊か緊張気味であるようだ。
「昼は食べたのかい」
今から食べるところだ。我輩は昼食を取るのは厨房で、と決めているのだ。これからだ、と返事をすれば、覆面殿は、そうかいそうかいと頷く。
「おー。なんだ。珍しい取り合わせじゃねえか」
奥からやって来たのは、虎髭で…うん?そうだ、星彩が探しておったではないか。我輩が欄干に飛び乗ると、「おお、なんだなんだ」と虎髭が一々大袈裟に騒ぎ立てる。星彩が探していたぞ、と声をかけてやっても、悲しい哉、我輩の言葉は人間には伝わらない。覆面殿や若造を見ても、察しては貰えない。どうしたものか、と考えた時だった。
「張飛殿。先程、星彩が探しておられましたよ」
それは、我輩の後ろ、中庭を歩いてきたらしい月英の声だった。
「うん?そうか。ああ…それじゃ俺は行くわ」
それが良い。我輩の行いではないが、結果的に星彩の望む通りになるならそれでよかろう。用も済んだことだ。ひょい、と欄干から下りる。いい加減昼を取らねば、これ以上痩せると貧相なこと、この上無い。それではな、と月英、覆面殿、若造に声をかけて我輩は厨房へと向かった。
くああ、と欠伸をする。今日は満足に昼寝も出来ていない。そろそろ休むか、と今日の寝床を探す。何処にしたものか…と、我輩が辺りを見回す。そうだな…今日は誰ぞの部屋へ邪魔するとしようか。
暗い廊下を横切って、その室の窓の下に来る。案の定、窓は開いている。ここ何日か雨が降っていたから、今日は必ず月見をしているだろうと思ったのだ。窓の桟に飛び乗ると、
「あ」
矢張りだ。寝台の上に座り込んで晩酌をしている琥珀と目があった。やれやれ、宵っ張りか。琥珀は黙って身体をずらす。我輩はその空いた場所へと飛び移った。
「珍しいじゃん」
言いながら、琥珀はぐび、手元の酒を呑んだ。特に酔っているようには見えないが、琥珀の見た目は当てにならんことを我輩はよく知っている。よく言って笊。悪く言えば枠なのだ。同じ調子で呑んだ者が次々と沈んでいく様はいっそ清々しい。そして最後の一滴まで飲み干しても、まだ足らなさそうに壷の中を覗き込んで居た事も知っている。
新しく酒を注ぎ足し、何やら楽しげ鼻歌を歌いながら酒を口に運んでいる。
「あんたも呑む?」
笑いながら差し出されても、我輩は酒を嗜まん。酒の肴になら付き合っても構わないが、今宵の肴は空に浮かぶ月一つ。まぁ、月見を共にするのもたまには良かろう、暫く振りに晴れた事であるし。だがな、琥珀…
む、く…ああ…。
我輩は堪らず欠伸をしてしまった。
「あれ、眠い?今日はあたしのとこで寝る?」
我輩が返事をしようとする前に、そうかー、と勝手に納得したらしい琥珀が手に持っていた酒をぐいっと飲み干し、空いた杯を棚に仕舞い込むと、手を伸ばして窓を閉める。隙間からは月の光が差し込んでくる。寝台に潜り込み、上掛けを持ち上げて、「早く来いよな」と小さく言った。それでは、失礼するとしよう。我輩は琥珀のくれた隙間に入って、ほう、と息をついた。
今日も騒がしい一日であった。
そして我輩は眠りに落ちる。
【蘇芳様のComment】
基本的に、男の名前は覚えない、ということで(笑)。
ぽにーさん、那智いずみさん、紫風さん、毅本さん、お嬢様方の貸し出しありがとうございました。
ここはこんなんじゃないよ、というのがあれば仰って下さい。