大丈夫

 「柊ってさー、どこに行っても大丈夫って感じなんだよね」
 「えー、なんですか、それ?」
 「あたしはさぁ、ほら、結局のところオヤジのコネでここに入れたけれど、柊、集団面接の時、あんだけバキバキに
気合入ってる子たちの中で、一番ヘラっとしてたじゃん?」
 「イヤな言い方しますね」
 「だって、向こうから『何か質問はありませんか?』って言われて、『今日、私たちで何組目ですか?』なんて聞いて、
返事貰ったら『今日はお時間を割いていただいてありがとうございます』とか言い出すの聞いちゃって、あたし、
 三つ向こうの席で息が止まりそうになったわよ」
 「んー、でも、三組目で合計十九人と、半日通して面接するなんて大変じゃないですか?」
 「そりゃそうだけどさぁ。あんな事聞いた上に、労い入れて、結局就職しちゃった上に、秘書課入りでしょ?
 もう『明日から海外行き』って言われてもきっと大丈夫なんじゃないかと思っちゃうよ」

 笑いながら、友人と交わした会話がひどく懐かしく思い返された。
 (うん。なんとか、大丈夫は大丈夫だけど)
 今思えば、もしかしたら友人はある種の予言者だったのかもしれない。
 (海どころか、時間も超えちゃうなんて思わなかった)
 学校の歴史の授業では、日本史世界史含めて、教科書においては三頁にも満たない記述で取り上げられている後漢末期。
 カ・イン・シュウ・シン・カン・ギ・シン…
 漢字で思い出すより先に音で思い出す、はるかな過去。
 危急存亡のトキ、の『トキ』は、時ではなく秋、とか、そういった『知識』の形で自身の中に位置していた時を、今、柊は
生きていた。
 彼女が『今』が後漢だと納得する事ができたのは、詩の分野で名を馳せた曹一族の名を聞いた事が大きい。
 戦国時代や江戸時代だったなら、月代を確認できたのに…などと考えたのはもうちょっと後になってからの話だが。
 真っ先に柊を襲った現実は、衛生に関する事柄だった。
 合気道の家門を構える実家にて、稽古を受けながら大きくなった彼女にとって、自身の汗の匂いは非常に身近いものでは
あったが、自由にシャワーを使ったりウォシュレットを…などというのは夢のまた夢の話であり、食生活の習慣よりもなお、
馴染むのに時間を必要とした。
 そして、それよりもなお柊が馴染む事のできないものがある…こちらに馴染む日が来るのかは、今は未知だ。
 戦争。
 柊の生きる時代とて、同じ世界のどこかで争いは起きている。が、それはあくまでも彼女の日常の中には存在しなかった。
 だが、こうして魏の庇護下にいると、直接殺し合う場面にこそ行き会わないが、馬房にてずらりと並んだ鼻面に出くわしたり、
武装して行き交う人々、そして城の中にまで聞こえてくる兵たちの練兵の掛け声などに、その現実は垣間見えた。
 自身の直接知る人が、殺しあうのが当たり前な世界。
 その現実を前にしてみっともなく取り乱さずに済んだのは、生来の心根もそうだが幼い頃より修めてきた武道の存在が
大きかったように思う。
 腕をもがれでもしない限り、技は自身に応えてくれる。
 外ではなく内側に蓄えてきたものは、失われない。
 古い達人が言っていたという「己は鏡の如くあれ」という境地にはまだ至れていないが、その教えは、きっとどこに行く事に
なっても役に立つだろう。
 「だから、大丈夫…なのかな?」
 どこに行っても大丈夫、などと簡単に口にした友人も、まさか、その相手が古代の中国どころか死者の世界に行く事に
なるとは思わなかっただろう。



 「あれ、まだ片付け始めないの?後10分で終業だけど…」
 「まだ数字に納得のいかないところがあるの」
 「誤差がひどいの?」
 「そこまでは…安定はしているのよ」
 「だったら、大丈夫じゃない?」
 「そうね…うん。後一通りやってみるから」
 「ほーんと、熱心だよね…分かった、じゃあ、お先に」

 手を振り、同僚は業務レポートを提出すべくフロアを後にした。
 その背をしばし視界に入れた後、モニターに視線を転じて評価テストの結果を出力させる。
 20分、更に時間を費やす事で先々の労苦を排除できるなら、もう一度作業を繰り返す事など、品子にとっては手間でも
なんでもなかった。
 自分の仕事は万全を期すことだし、手を緩める理由は何も無い。
 品子は再び精査すべくモニターのスイッチを入れなおした。
 彼女にとっては、『大丈夫』を提供するのは、仕事の上で自身が納得する事と道義であった。
 現象から導き出されるロジックを組み上げて結果を出し、それらを顧客達の手元で生かしてもらう。
 不備があると思えば自分で調べるし、物事の綻びを修正する事は決して間違いではないと思う。
 ならば、と天から薄青い靄の向こうへ視線を切り替えて品子は短い回想から意識を呼び戻す。
 (私が、こちらに来る事になったのにも原因はあるのかしら)
 疲れている時などに見る理不尽な夢の類だろうかとの疑いが、頭の隅にわだかまる時はある。
 自分が古代の中国で生活する羽目になった上に、こうして、九泉という地を踏んでいるのは全く以って理由が思いつかない。
 いや、九泉に来た事に関しては理由がはっきりしている。
 直接視線を交わさずとも、その気配を強く感じるこの男。
 本来、倣岸な男性は忌避する品子だが、この男、曹操に関しては、権力を手にした男独特の押しの強さもあるが、それ以上に
何か響き合うものを感じずにはいられなかった。
 よく会話はキャッチボールだと例えられるが、曹操とのそれは、むしろ毎回がテストでありラリーであった。
 一度、品子との会話中に先触れも無く現れた宮廷からの使者に対し、丁重な物腰のままに相手の顔色を失わせた様子から考えても
彼は甘い男ではないと思う。
 なのに、彼との会話は不思議と熱中したし、終わった後の疲れは自身がそれほどまでに緊張していたのかと驚く反面、快い感覚を
彼女に与えていた。
 彼との交わりで、彼女自身の『知りたい』という欲望は、より強く成長したと思う。
 自身の目で以って死者たちの国の噂を確かめる、という判断は、かつての自分から考えれば明らかに無謀に属するものだ。
 でも、彼女はここにいた。
 「何ぞ、面白い物でも見えたか?」
 低い男の声に、品子は軽く首を横に振って曹操を見つめた。
 「いいえ、何も…地上の裏側でも見えるかと思ったのですが」
 「こう、霧が深くてはな…ところで品子、地上の裏はどのような物だと考える?」
 「そう…ですね…」
 こうして、変わらず曹操と話す事ができるのだ。
 この破格の男と、地上にいた時と変わらぬ会話ができるのなら、自分はきっと、大丈夫だろう。



 「大丈夫ですわ、高二姐(ガオアルチエ)。王一姐(ワンイーチエ)がお帰りになられるのは日暮れ前と仰ってましたもの」
 「王一姐、おかえりなさいまし…ええ、周大人は一姐をお待ちでしたわ。芙蓉の大鉢をお持ちになってお見えでしたが、一姐と
眺めたいと仰っておられましたので、東屋の方に案内させましたわ」
 「お母様…ご心配なのですね、高二姐の事が。…王一姐の事もですか?…本当に、お優しい…お二人とも大丈夫ですわ、きっと」
 「おはようございます、王夫人…まぁ、羅を先月仕立てられたものに袷せたのですね。王夫人は、本当に青絹が
お似合いですわ。」
 「林夫人…お父様ですか?今日はお見えになってませんが…あら、暖かげな赤ですこと。こういう寒い日には、
やはりそういう身の温まる装いで出迎えられた方がお父様もお喜びになられますよね。奥様は、本当に思いやり深い方ですわ」
 「…冷えてしまいますわ、中にお入りになって、お母様。王夫人はご実家も近いですし、ご心配はありませんわよ。
王一姐はこちらにおられますし、きっと、戻っておいでになりますから大丈夫ですわ」

 趙飛燕を気取ってでもいるのか、というのは母によく向けられた言葉だった。
 恵まれぬ境遇でも損なわれなかった美女として語り継がれるその名は、同時に色で高貴な者に取り入る卑しい女の代名詞でもある。
 西の彼方から旅をしてきた一族の出だという母は、内地に血縁も持っておらず、『中華』から見れば卑賤の者に他ならず、
そういった扱いを家の者たちから受けながらも、母は家を去ろうとしなかった。
 元々は母自身旅の中で育ったのだ。子供が旅の中で育つなど、けっして珍しい事ではないだろうに、と幾度も
父の下を離れない母に投げかけた問いは、優しい笑顔と抱擁で曖昧に濁されてしまうのみで。
 子供心に刻まれていた不審は、ある夜、泥酔して鹿音母子の居室のある外れの廊下で寝てしまった父を膝枕し、
一晩中その傍らにあった母の姿を見て解消された。
 最悪な事に、母は、父を愛しているのだ。
 母の顔に浮かんでいた笑みは、己を軽く扱う薄情な愛人に向けるものとしては、自分に向けるものとあまりに似すぎていた。
 その事実に、鹿音は却って大きな不満を抱かずにはいられなかった。
  ……屋敷の誰も、お母様みたいに歌えないし、踊れない。有り難がるお日様と同じ色なのに、髪が金色だからって
嫌な事ばかり言う。
 ……お母様は天気も読めるし、お話だってたくさん知っている。服と飾りと人の悪口だらけの屋敷の皆とは
全然違う。
 つつく相手を始終探している鶏を真似るかの如く騒ぎ立てあう女達のような、醜い顔なんて一度も見せた事なんて無い。
 奥の女達が時折剥き出しにする醜さを、父は知らないのだろうか? 
 そこに思い至った時点で、鹿音は目の前から霧が晴れたような思いに笑みを浮かべていた。
 その日から、屋敷の女たちの間で不協和音が途絶える日はなくなった。
 ある夫人は夫に剣突を食らわせるようになって疎まれ、ある夫人は屈辱のあまり屋敷を去っていき…疲れた主人は、金髪の妾の元へ
こっそりと現れる事が多くなり、妾をひどく喜ばせた。
 だが、娘は不満だった。
 母は、賢いからでも、素晴らしい技を持つからでもなく、美しくて優しい、逃げ場所として扱われているだけだ。
 納得がいかなかった。
 ……お母様は、もう大丈夫だろうけれど…私は、こんなのは嫌!
 宴で時折、母は素晴らしい歌や踊り、演奏を披露するが、客たちが誉めるのはそういう女を傍においておける父だ。
 不満の噴出口は程なくして与えられた。
 宦官の孫という出自ながら、目覚しい勢いで勢力を広げていく男が許昌にいるという。彼は治水の才のある者には巨額の金を与えて
工事に着手させ、記録係として従軍していた男に才を認めるや部曲を任せて重要な戦局を任せ、儒よりも合理性を重んじる今までに
類の無い人物だという噂だった。
 人は死ぬ。
 だが作られた堰は実りを毎年助けるだろうし、治療の仕方を教えておけば、医者が死んでも命を永らえる人はいる。
 その男、曹操の作るだろう世は、そういった素晴らしいものが大切にされる世に違いない。…私は、その世界を見たい。
 そんな夢をかけて軍に飛び込んだ鹿音は、まさか死者の国にまで飛び込む事になるとは思っていなかった。
 薄青い霧の立ち込める、奇妙に不安を呼び覚ますような風景の中、全く縁は無いだろうと考えていた曹操の護衛、典韋とともに
鹿音は歩を進める。
 そういえば…と、ふと、彼女は事の起こりの噂を思い返した。
 最初に九泉に行き、戻ってきた男に、九泉にて暮らす事にするからお前とは別れると言われ、縊れて死んだその妻。
 自分が、こうして典韋の傍らにあるように、九泉に赴いたその男にも女がいて、その女と暮らすために別れたのではないだろうか。
 妻はそれを察知して、死してまで追いかけていったのではないだろうか。
 ぎちり、と手元で音が鳴り、己が勝手な想像に湧かせていた嫌悪を、剣の柄を握り締める力に変えていた事を知る。
 「大丈夫です…申し訳ありません、次に、敵が現れたら、今度こそ…と思ってしまって」
 案の定、振り向いていた典韋に、鹿音は小さく頭を下げた。

【駒様のComment
毒舌娘さん、赤駒さん、柊嬢と品子嬢のご提供ありがとうございました!
柊嬢が誰かにいたずらを仕掛ける場面を、品子嬢に白衣着せたいという欲望が密かにあったのですが、
どうにもうまく挿入できず成しえませんでした。
(というか品子嬢がそもそも白衣を着るかどうかが謎なのに)
柊嬢の口調、友達相手ではもう少し砕けているかな、とちょっと迷ったのですが、丁寧めな口調で
固定しました。もし、問題点があったらすぐに修正します。

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