呑風流

 凪砂は酒が好きだ。
 呉に来てからも誰もが知る程の酒好きで、その強さも半端ない。
 酒の話をしているだけで飛び付いてくるとは、幾らなんでも言い過ぎだとは思うのだが、本人は気にするものでもないのかいちいち反論することもない。
 この日は、凪砂の酒談義に皆が耳を傾けていた。
「雪の日には雪見酒、月の夜には月見酒と、行事にかこつけて酒を呑むことも多いんですよ」
「へぇ、そんなら俺達と一緒だな!」
 茶々ではなく本気で頷く孫策に、周りはどっと笑い転げた。
 凪砂は、静かに笑っている。
 こうした時は一緒に笑い転げた方がいいのかもしれないが、バーテンダーのバイトを努めたりクライアントとの交渉に慣れきったせいか、腹の底から笑うということにどうも慣れていない。
 どちらの職もまず客ありきの商売であったから、本気で笑って視野を狭くし、気配りを損ねることはご法度だった。
 呉の人々はあまり気にしないようにしてくれているようだが、それでも薄布一枚の温度差は拭いきれない。
 それでも、凪砂も敢えて気にしないように努めている。呉の人々の気遣いを無駄にしてはならないと思うことが、やはり薄布の厚さを増すことに直結していると感じつつもだ。
 結局、凪砂と呉の人々の差異は埋めようがない。
 生まれも育ちも違う、環境も違うとなればそれは当たり前のことで、いい意味で諦めることで互いを認められると感じていた。
 もっとも、呉の人々が凪砂のように事細かに解釈して思考しているとはとても思えなかった。良くも悪くも大雑把なお国柄は、ある意味海に近いという土地柄によるものなのかもしれない。
「月はともかく、雪はしばらく無理そうだよなぁ……」
 季節は夏に向かっている。雪が降るのはもうしばらく先の話となろう。
「雪が降ったら、温泉に入って露天で一杯なんていうのも乙ですよ」
 気の長い話だと思いながら凪砂が話を振ると、辺りに居た武将達がわっと盛り上がる。
「じゃあ、そん時は、凪砂の仕切りで酒盛りだな!」
「え」
 凪砂の顔が引き攣り、隣に座していた葵が眉を吊り上げて孫策を睨め付ける。
「男女別、ですよ!」
「何でだよ」
 案の定言い返してくる孫策に、凪砂は苦笑を浮かべて葵を宥めに掛かる。
 葵は未だに納得し難いのか、頬をわずかに膨らませていた。
「人数多い方が楽しいじゃねぇか」
「……大喬さんも一緒に入っていいって言うなら、考えますけど」
 凪砂の提言に、葵もこっくりと頷いた。
 こうなると困るのは孫策の方だった。
 単純に皆で騒ぎたいというだけで凪砂や葵の裸が見たかった訳ではなかったようだが、その周囲に居る者達の考えはまた別だ。
 特に甘寧などは、あからさまにそれと分かるようなにやけ面を晒している。
「んー、まぁ、いいや。そんじゃ、雪が降ったら樽の二三個も担いで、温泉まで出向こうずぇー」
――酒は、味わうもの。
「待った」
 胸の奥底から響いた懐かしい声が、凪砂を急き立てるようにツッコミを入れさせていた。

 凪砂が酒を呑み始めたのは、公では公表できない年の頃からだ。
 と言っても今時の子供のようにがむしゃらに呑んでいたのではなく、酒は味わうもの、愛でるものとして教え込まれてきた。
 酒の師匠の一人に、今は亡き祖父が居る。
 しかし、凪砂は孫でありながら祖父の素性をほとんど知らない。
 父も祖父が高齢になってから出来た子とかで、何をしていたとかいう話はほとんど聞いたことがないという。
 田舎の雑貨屋として野菜から酒から煙草から、とにかくあらゆるものが狭い店内に雑然としていて、けれど不思議と調和の取れた居心地の良い薄暗さがあった。
 凪砂が田舎に遊びに行ったのは数えられる程だが、その時の記憶は今も鮮明に覚えている。
 ある年、凪砂一人で他の家族に先行して田舎に向かったことがあった。
 子供一人で買い物や旅をさせるのが流行っていた時期のことで、凪砂もご多分に漏れず一人旅を薦められたのだ。
 凪砂は喜んでその計画に乗った。
 何となれば、父や母と一緒でない方が都合が良い。普段は父母の目を盗んですることも、居ないとなれば気兼ねする必要もない。
 電車は、二度の乗り換えさえ気を付ければ何と言うことはなく、言い付け通りに車掌に頼んで、乗換駅を教えてもらった。
 車掌の手を煩わせるまでもなくきっちり乗り換えに成功した凪砂は、駅まで迎えに来た祖父に連れられ、荷物を置くより先に祖父の秘密基地に潜り込む。
 都会では見られない土蔵の中は、祖父の店と同じくひんやりとして薄暗い。
 幾分かこちらの方が肌寒いように設えられているのは、ここに置かれた『宝物』の為だろう。
 土蔵の奥には、同じような形の瓶がずらりと並んでいる。
 その中の一本を手に取り、祖父は仔細に検分する。
 やがて満足がいったのか、にっこり笑って凪砂の元に戻ってくると、自慢げに『宝物』を突き出した。
「今日は、凪砂が一人でこっちに来たで、とっておきを出しちゃろうなぁ」
 深い緑色の瓶は、まるで宝石のように美しい色をしていた。
 中で揺れる液体が、瓶に影を落として踊っている。
 ごくり、と凪砂の喉が鳴る。
 祖父は笑って、凪砂は自分に似たと嬉しそうに頷いた。
 夕方の蒸し暑い空気の中、一升瓶のままきりっと冷やした大吟醸を露台に持ち出す。
 白いぐい飲みは凪砂の手には余るほど大きかったが、祖父は凪砂の為に子供用の茶碗を渡すことはなかった。
「酒は、大人が呑むもんでな。子供の杯じゃあ、ホントの味は分からんて」
 それは酒に失礼だから、と祖父は良く言っていた。
 この頃の凪砂は、ただ自分が大人扱いされるのが嬉しいだけで祖父の薀蓄の意味はあまり分かっていなかったが、それでもこれは凪砂の為になる教えだと直感していた。
 適度に冷やされた大吟醸は、祖父の手で封を解かれて凪砂のぐい飲みに注がれる。
 一升瓶で持ちにくいだろうに、祖父は必ず片手で一升瓶を持ち、そして見惚れる程のしなやかな動きで決して零すことなく酒を注ぐのだ。
 今日まで酒の修行を積んだ凪砂でさえ、未だにあの時の祖父の真似は出来かねる。
 白いぐい飲みを真っ赤に染まった空に向けて掲げ、祖父と凪砂のささやかな宴が始まると、名残を惜しむかのような蝉の声が響き渡る。
 凪砂の記念にと出された酒は、これまで舐めてきたどんな酒より美味かった。
 ふと、凪砂はテレビで見たある番組を思い出した。
 この酒でアレをやれたら、どんなに美味いだろう……。
 途中で差し入れられたざる豆腐と刺身蒟蒻をつまみに、凪砂は手の中の杯をちびちびと舐め続けた。
 ぐい飲みは大きいが、凪砂に許される酒量はいわゆるワンフィンガーのみだ。
 勿体なくてちびちび舐めるのだが、それでも底を尽くのは早い。
 呑み終わった凪砂に祖母が冷たい氷水を差し入れてくれる。
 凪砂が酒を呑むことには文句を言わない祖母だが、必ずこうして一杯の水を飲むように厳命されるのだった。
「それを飲んだら、お風呂に行っておいで」
「はぁい」
 未練がましく一升瓶に目を遣るが、祖父は凪砂を振り返ることもなく手にしたぐい飲みを少しずつ乾していく。
 仕方なく、凪砂は風呂に入る仕度をしに部屋へ戻った。
 着替えとパジャマを袋に入れ、屋外にある風呂場へ向かう。
 途中、祖父が呑んでいるだろう露台の前を通り掛った。
――あ。
 どきんとした。
 露台に祖父の姿はなく、ただ桶に張られた氷水にあの一升瓶が残されている。
 辺りを見回すが、気配はない。
 凪砂は、どきどきと激しい鼓動を聞きながら、そっと桶を持ち上げた。
 誰も居ない。
 こんなとこに置いておいたら悪くなっちゃう、だから。
 凪砂は桶を抱えて、小走りに走り出した。
 桶から水が溢れて凪砂の服を濡らすが、もうそれどころではない。焦って、焦って、早く早くとそれだけを念じて走る。
 風呂場に辿り着くと、凪砂は服を脱ぐのも忘れて風呂の蓋を開けた。
 揺蕩う水面が橙の灯りを受けてゆらゆらと不思議な模様を描いている。
――ちょっとだけ。浮かべて、それでちょっと舐めるだけ。そしたら、お爺ちゃんに置きっ放しだったからって、返しに行こう。
 テレビで見た、温泉などに盆を浮かべ、その上にお銚子を乗せて呑みながら風呂に入る。
 いつかはと夢見たあれを、やっとやれる日が来た。
 わくわくしながら桶を持ち上げ、そっと湯に浮かべる。
 ところが、桶は静止する間もなく、中に沈んでいた一升瓶ごとひっくり返って湯船に沈む。
 あまりのことに茫然自失とした凪砂も、一瞬後には我に返って慌てて湯船に手を突っ込んだ。
 熱い湯と、田舎ならではの深い湯船に阻まれ、凪砂の手はなかなか瓶に届かない。
 ようやく瓶に手が届き、引っ張り挙げることに成功した凪砂はさっと青褪めた。
 瓶の蓋が取れて、口まで一杯になっている。
 湯が入り込んでしまったのだ。
 取り返しの付かない事態に、凪砂はへなへなと座り込んだ。
「凪砂」
 頭上から降ってくる声に、体がすくむ。
 滲んだ視界に祖父が映っていた。
――叱られる。
 項垂れた凪砂の頭を、大きな手がわしっと掴む。
 そのままぐりぐりと掻き回された。
「そんな酒の呑み方、どこで覚えた。下衆い呑み方をしおって」
 涙で滲む凪砂の視界は、ぐるんぐるんと振り回されて悪酔いしそうな勢いだ。
「部屋で待っちょれ。いいな」
 風呂場はもうもうと立ち込める蒸気が濃い酒の臭いを醸し、それだけでも酔いそうだった。
 追い払われるように風呂場を出された凪砂は、自分が仕出かしてしまった『悪さ』に罪の意識に苛まれ、しくしくと泣きながら部屋に戻る。
 祖父はすぐに凪砂の部屋にやってきた。
 凪砂の手を無言で引くと、すっかり暗くなった道を慣れたようにすたすた歩く。
 このままどこかに置いてかれるのではないかと、凪砂は子供心に酷く脅えていた。
 しばらく行って突き当たった石の階段を上がると、屋根と棚だけ設えられた小屋のような建物があった。
 暗がりから暖かな匂いがして、凪砂は祖父を振り返る。
「温泉だて。早く服を脱ぎなさい」
 濡れた服では夏といえども風邪を引く、と急かされて、凪砂は戸惑いながらも服を脱いだ。
 暗くて足元も見えないが、そっと手を伸ばすと確かに温かい。
 温泉と言うよりは温水プールのような温かさだが、しゃらしゃらと流れる水の音は岩と岩の間からしている。
 雲が切れ、差し込む月明かりに視界がだんだん広がっていく。
「凪砂」
 振り返ると、祖父が朱盆を手に歩いてくる。
「風呂で酒を呑むなら、ちこっとにしておくもんだて。酔って頭に血が回らば、みんなに迷惑掛かるでな」
 盆には小さな小さな杯が二つ、並んで載せられていた。
「風呂で呑むのは酒でない。風呂で呑むのは、風流だて」
 酒呑みの心意気をきちんと覚えておかなけりゃ、本当に美味い酒の味は分からんて。
 祖父はそう言い、月に向かって杯を翳す。
 凪砂も祖父を真似して杯を翳し、ごめんなさい、と改めて詫びた。

「そんな酒の呑み方、駄目です」
「何だよ」
 先程から却下され続けているのがさすがに頭に来たか、孫策が不貞腐れて唇を尖らせる。
 血中アルコール濃度とか、入浴中の飲酒がもたらす脳卒中の危険性とか、具体的に説教する材料は山とあるのだがいかんせん孫策達には伝え難い。
 良い例えでもないかと思考をめぐらすわずかな間に、涼しい声が場を仕切る。
「風呂で酒など呑んで、味が分かるものか。どうしても呑むと言うなら、量を控えて呑め」
 そうそう、それが言いたかったのと凪砂が背後を振り返ると、そこに居たのは孫堅だった。
「何だよ、親父まで」
「風呂で引っ繰り返って溺れられでもしたら、孫家の名折れだ。無茶な呑み方ばかりするくせに、問題を起こさぬと俺に誓えるのか」
 ぐうの音も出ぬ程きっちり押さえ込まれ、孫策は不貞腐れながらも折れた。
 孫堅は凪砂の隣にさり気なく陣取ると、杯を差し出して酌を強請る。凪砂が酒瓶を傾けるのを見ながら口を開いた。
「九月九日は重陽と言ってな。菊酒を呑むしきたりがある」
「……へぇ」
 それはまた風流、と、凪砂の酒好きセンサーがぴくりと反応する。
 見越した訳ではあるまいが、孫堅は口の端をきゅっと引き上げ、さも可笑しげに凪砂を見遣った。
「では、その日に馳走するとしよう」
 その笑みが、不思議と祖父のそれとだぶる。
 顔の造作はまったく違うのに、不思議だった。
 そのまま立ち去る孫堅を見送って、今のはさりげないデートのお誘いなのか否か、文化の違いを視野に入れつつ検討する。
 答えが出る程未だにこの地に詳しくない。
「凪砂さん、酔いましたか?」
 葵に指摘され、頬に手をやると確かに熱い。
 うん、ちょっとと誤魔化しつつも、頬に当てた手は外せなかった。


  終

【双屋のComment
掲示板の500スレゲット記念品です。

・いい話/風呂

という結果でした。
思い切り過去捏造してますが、何かまずそうな点がありましたらご指摘下さい。
訂正して再アップいたします。
イヤ孫堅と風呂はいっても良かったんですけどさ。
絶対いい話にはなりませんしさ。
そんな次第です。

 投稿作品INDEXへ → 
 EDIT企画『九泉の水底』INDEXへ →