報恩報復

 慧火が自室に戻ったのは、夜も遅くになってからだ。
 馬超側仕えと一口に言っても、ただ身の回りの世話をするだけに留まらない。否、身の回りの世話だけでも慧火が覚えるべき仕事は多く、報告や中継ぎ、細々とした執務を含めると、慧火は自分の頭が爆発するのではないかとさえ思う。
 それでも努力が続くのは、ひとえに馬超への思慕あってのことだった。
 下心と言われるのは不愉快だが、好いた人が傍に居て、その人の為に働けるということがこれほど嬉しく満ち足りるものだとは思わなかった。
 かてて加えて、馬超自身も慧火の告白を受けて以来、何かにつけて慧火を意識してくれている節がある。
 はっきりと目に見えるものではなかったが、あの馬超が、一日の終わりには必ず優しく慰労の言葉を掛けてくれたり、分からぬことはないかと気を配り、武術や馬術の鍛錬に誘ってくれる。
 例え想いが通じなくとも、これだけ労わってくれる馬超に出来る限りでも応えなくては嘘だ。
 必死になって覚えようとするから、それなり早く習得もする。
 好奇心の強さがこの際良い方に作用しているようで、慧火は然して苦にもならず執務に邁進していたのだった。
 とは言え、疲れるものは疲れる。
 馬超側仕えという立場もあって、粗末ながらも個室を与えられた慧火だが、個室の利便と言えば挨拶もしないで眠れるくらいの話で活用できているとは言い難い。
 今宵も今宵で、すぐさま眠りに就こうと牀に直行した慧火は、何故だかおかしな違和感を覚えて足を止めた。
 眠気に襲われてぼんやりとしつつ、何がおかしいのか必死になって考える。
 結局、違和感の方から名乗り上げてくれるまで、慧火自らその違和感を発見することは出来なかった。
「お久し振りでござる」
 ぺこりと頭を下げたのは、かつて九泉にて繋ぎ役を買って出てくれた、あの小雨であった。
 あまりに大きな違和感過ぎて、却って気付くことが出来なかったようだ。
 呆然自失としていた慧火は、はっと我に返ると慌てて頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、私、ちょっと疲れてて……あ、いつぞやは大変お世話になりました」
 泡を食っているせいで言葉も上手くまとまらない。
 おろおろとしてまず何をどうして歓待したら、と考えている最中、不意にあることに思い至った。
「……今日は、どんな御用で?」
 慧火が問い掛けた瞬間、小雨は顔を覆ってしくしくと泣き始めた。
 予想外の行動に、慧火の時は再び止まる。
「左慈様に、怒られちゃったのでござる」
 言われて、そう言えば馬超が小雨の嘘に酷く怒っていたことを思い出した。馬超の言をのみ聞いた左慈が、後程きつく申し付けておくと言ったことも、同時に思い出す。
「……お、怒られてしまいましたか」
「怒られちゃったでござる。きつくきつく、お叱りいただいてしまったのでござる」
 左慈がどのようにして小雨を叱ったかは定かでないが、あの飄々とした態の小雨が如何にもしょげている風なのを見て、その凄まじさが察せられる。
「ごめんなさい」
 慧火が悪い訳ではなかったが、何となく謝ってしまう。
 小雨はふるふると頭を振ると、思案気に俯いた。
「実は、慧火殿にお願いがござる。聞いていただけようか」
 お願いと聞いて、慧火は小首を傾げた。
 どのような申し出にせよ、一先ず聞いてみないことには話にならない。促すと、小雨は女にしては大きな図体を縮込めて、如何にも恐縮然としてぽつぽつと切り出した。
「……実は……左慈様にお叱りいただいて、しばらくはお傍から離れるように、と……何をするでなく彷徨っていると、少しばかり気が滅入ってくるのでござる。で、見知った方を訪ねて……思い出話を語りがてら、一晩の宿をお借りしているような次第でござる」
 つまり、慧火の元に今宵の宿を借りに来たという話なのだった。
 事情を聞き終えて、慧火は小雨の申し出を快諾した。
 仙人左慈と言えば大徳の天を望む者として知れているし、その所縁の者に一夜の牀を呈するくらい、何と言うこともない。
 すぐに準備するという慧火の言葉を、小雨は丁重に辞退した。
「大袈裟な歓待は好まぬところ故、慧火殿さえよろしければ、同衾お許し願いたい。何であれば、床にごろ寝でも一向に構わぬ故」
 そう言われて否と言う訳にもいかない。
 小雨には世話になったと思うし、主たる馬超の心ない仕打ち(と言っていいのかどうか)にも、申し訳ない気持ちで一杯になる。
 同衾で構わないと小雨が言うなら、慧火の方とて尚更構うことではない。
 小雨さえ良ければ、と了承すると、小雨はかたじけないと嬉しげに頭を下げた。
「……そうでござる、せめてもの礼に、揉み療治でも施して進ぜよう」
 突然の申し出に、慧火は慌てて首を横に振った。
 ほんの埋め合わせのつもりで小雨の同衾を許したのであって、小雨にそんな手間を掛けさせては却って申し訳ない。
 慧火の話を聞いているのかいないのか、小雨はまぁまぁと強引に慧火を組み敷き、牀の上に寝かしつけてしまった。
「……んっ……」
 小雨の指が、ぐっと押し込まれてくる。
「これはこれは、ずいぶんお疲れのご様子。揉み甲斐のあることでござるなぁ」
 小雨の言うとおり、慧火の体は知らぬ間に疲れを蓄えていたようだ。大きく暖かな手が的確にツボを刺激し、慧火の凝り固まった筋を和らげていくのが何とも言えず心地よい。
「……あ……小雨さん、上手……です、ね……っ……」
「左慈様仕込みでござるからなぁ。仙人の秘奥義、とくと味わっていただきとうござるよ」
 何とも大袈裟だが、実際、小雨の手が滑る度に言葉を裏付ける快楽が迸る。
 揉み療治など縁のない慧火ではあったが、癖になってしまいそうな、芯から蕩けるような快さがあった。
「あっ……ん、そこ……」
「ここが良いのでござるかな」
「ん、そこ、そこが……気持ち良い、です……ん……」
「では、こちらを念入りに」
「あ、ん……!」
 聞いて居る者があれば誤解してしまいそうなあられもない声だったが、慧火とて意識して挙げているつもりはない。
 むしろ、無意識故に声は大きくなるばかりだった。
 宙に浮き上がるような体の軽さに、慧火はいつの間にか深い眠りに着いて居た。

 慧火が目覚めると、既に小雨の姿はなかった。
 牀の脇に置かれた小さな卓上に、よく眠られて居る故このままお暇致す、との小雨の伝言が置かれて居た。
 別れの挨拶も出来ず、慧火は己の未熟を恥じた。また、小雨の心遣いにも深く感謝する。
 大きく伸びをすると、まるで体が新しく挿げ替えられたかのような軽さだった。昨日までの体の重みが、まるで感じられない。
 頭の方もすっきりと爽やかで、夜明け間近の白々とし掛けた空が、何とも言えず爽やかだった。
 一夜の宿の礼としては有り余るようで、慧火は既に立ち去った小雨に、胸の内で礼を述べた。
 支度を整え、昨日教え習った事柄を復習し、本日の執務に向かう。
「おはようございます」
 気のせいか、声の張りまで違う。
「…………うむ」
 だが、爽快な慧火の様とは雲泥に、馬超の顔色は優れなかった。
 見遣れば、目の下に隈まで出来ている。
 眠れなかったのかと首を傾げる慧火に、馬超は来い来いと手招きをした。
 何だろう。
 いぶかしく思いながらも素直に馬超の前に立った慧火に、馬超はずいっと細長い物を突き出した。
 見れば竹簡の一部で、何事か書き込まれて居る。
「お前、小雨とかいう女と、昨夜何をしていた」
 慧火殿の元にて一晩御厄介になり申す、口出し無用にて、と、小雨からの短い文が記してあるのを見ながら、慧火は困ったように肩をすくめた。
 小雨が泊まりに来たことを報告しなかったのがまずかったのかとも思うが、何分遅くの話であるし、素性は特殊なれど明らかにされて居る者の話である。小雨自身が報告を済ませていることもあり、何故馬超がこれ程怒ることがあろうかと、慧火は理解出来ずにいた。
 小雨の文が如何にも挑発じみていること、また、馬超がその挑発に乗ってうかうか慧火の室前まで来たことを、この時の慧火は知る由もない。
 漏れ聞こえる声に立ち入ることを躊躇い、ついに諦めた馬超の悶々とした心持など、無論理解出来よう筈もなかった。
 馬超とて、恥ずべき委細を口にすることなど出来よう筈はなく、結果すれ違ったまま空気だけが重く悪しくなっていく。
 それこそが、小雨なりの『仕返し』なのだと気付くまで、馬超は一人憤る羽目に陥った。


  終

【双屋のComment
久し振りですが、投稿など。
本編でだいたい書ききった感が強いので、ネタもあんまり残ってないですな。
せれねさん、慧火嬢お借りいたしました。

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