鹿音は廊下を一人歩いていた。
気が付くと、鹿音は一人で居ることが多い。
決して人付き合いが悪いとか、態度が横柄だという訳ではない。
兵卒から什長に上がった者にありがちな、威張り散らす癖があるということも無論なく、むしろ温厚でやや兵士に舐められているようなところさえ見受けられた。
ただ、鹿音には不思議な噂があって、寛いでいるように見受けられる兵士達であっても寛ぎすぎることはまずなく、それは鹿音が影で何らかの『仕置き』をしているからだと言うのである。
何らか、であってまったく具体的な根拠がない為、それこそ七不思議程度に面白おかしく語られるのみの噂だ。
だが、鹿音並びに鹿音の配下は、その噂について『応』とも言わない代わりに『否』とも言うことはなく、噂は空気のような茫洋さを纏っていつまでも流れ続けていた。
そうして一人歩いていた鹿音は、欄干に行儀悪く腰掛けていた品子の姿を見出して足を留める。
品子は、何処か遠いところから飛ばされてきたという噂の娘だった。
魏王曹操が妙に気に入っていて、空いた時間は品子と共に過ごしていることが多い。
曹操の妾達が、品子が豊かな肢体を駆使して曹操に取り入っていると喚き散らしているらしいが、鹿音は曹操がその程度の女に構うことはないと見ている。
上司の影響かもしれないが、その辺りの視界の広さと私情を挟まない透明感は、他ならぬ上官の郭嘉に多大に評価されていた。
もっとも、鹿音はその辺りには興味がないようだ。
何処か刹那的な雰囲気を持つ鹿音は、対人関係において自ら乗り出すことはほとんどない。
けれど、この時の鹿音は自ら進んで品子に話し掛けていた。
「失礼します、品子様」
最初、品子は気が付く様子はなかった。
しばらくして、書簡に熱中しているのかと見た鹿音が再度声を掛けようとして、突然びくりとして顔を上げる。
おたおたしながら周りを見回し、『私?』というように自分の顔を指差すもので、鹿音は黙ってこっくり頷いた。
はふぅ。
盛大な溜息を吐き、のたのたと欄干から降りる。
危なっかしい動きだが、本人は然して気にしていないようだ。よいしょ、という掛け声と共に廊下に降りた様は、恐れ気など欠片もない。
「……すみません、何だかこう、様付けで呼ばれるのって慣れてなくて」
「構いません」
気にしていないと答える鹿音に、品子はてへ、と照れたような笑みを浮かべた。
「そう言っていただけると、有難いです。私に何か御用ですか?」
「いえ、大したことではないのですが」
鹿音は、書簡を日光に直接当てないでいただけないかと品子に申し入れた。
竹簡にしても紙にしても、直射日光には強くない。
印刷技術が未だ未発達なこの時代、書簡の扱いはなかなかに難しい。
「あ……やっぱり、まずかったですよね。ごめんなさい」
品子も、直射日光に当てるのはまずかろうと思いつつ、しかし暗い室内で書を読む辛さから、つい廊下に持ち出してしまっていた。
張り出した屋根の陰になっているから大丈夫だろうと思っていたのだが、熱中している内に影の位置が変わってしまっていたようだ。
素直に頭を下げる品子に、鹿音はやはり短く『いえ』と頭を下げ返し、そのまま立ち去った。
向こうから子供等に囲まれた柊が歩いてくる。
鹿音とすれ違う際会釈を交わしていたが、柊は品子と鹿音の後姿を見比べていた。
二人が話しているのを見ていた柊は、子供達に先に戻っているように言い付けると、それを見送って品子の傍らに駆け寄ってきた。
「品子さん、何かありました?」
「いいえ、特には。書簡を日光に当てないで下さいって、それだけです」
「……その割には、あっさりしてましたね」
注意するにしても誉めそやすにしても、余計な言葉をこれでもかと並び立てるから長くなるのが常だった。
だから品子も、言葉短かに立ち去った鹿音に、おや、と感じるものがあった。柊が言いたいのは、その辺りだろう。
柊もまた、品子と同じように21世紀から飛ばされてきた娘だった。
同じ日本人と言うこともあり、二人はこの『異国』で互いに気遣い合う仲になっている。
肝が据わった柊は、多少武術の心得もあることもあってあまり『標的』にされることもない。ただ飯食いを厭って自ら子守などに精を出していることも大きかった。
しかし、品子は生粋のOL、しかも家事一切の類には縁遠い品質管理の検査を扱う部署とあって、その手の類の仕事にはどうしても疎い。
愛用の計算機さえあれば事務系の仕事を手伝えたかもしれないが、それとて今はないもの強請りだ。
迂闊に手を出し邪魔になってしまうよりはと、もっぱら曹操相手に話術を駆使する毎日だ。品子の知識は曹操にとっても興味深いらしく、とりあえず一日一度はお呼びが掛かる。
その為の話題作りの一環として、悪戦苦闘しながらも書簡を読み漁っていることを柊は知っている。
知ってはいるが、そのせいで曹操の妾や城勤めの女に陰口叩かれているのも知っていた。
難しいですね、と柊は密かに溜息を吐く。
品子はやれることをやっているに過ぎない。褒められこそすれ、叱られることではない筈だ。
だが、では手放しに評価されるかといえばそんなこともなく、柊は無言を守るしかない。品子に注意してもしょうがない話だからだ。
何か問題があれば曹操が動く筈だ、と、嫌々ながら他人任せにするしかなかった。
もっとも、品子はそんなことにはとんと無頓着らしかったが。
――そういうところも、品子さんが狙われてしまう要因ではないかと思うんですが…。
はふぅ。
先程の品子に負けず劣らずの柊の溜息に、品子は珍しいものを見たと目を丸くするのみだった。
「あれ」
「あら」
二人の耳に、何事か喚き散らしながら掛けていく男の声が飛び込んでくる。
声は壁に阻まれすぐに遠くなったが、至って静寂を守るこの城で、こんな騒ぎは珍しい。
「何かあったんでしょうか」
「……戦争だったら、嫌ですね」
平和に慣れた二人には、日常茶飯事に戦を繰り返すというこちらの世情が酷く重い。
あの人も行くのかしら、と、先程顔を合わせたばかりの鹿音が思い出される。
この騒動こそが、実は品子と柊、そして鹿音を九泉へ誘う前兆だったのだと、この時は知る由もなかった。
終
【双屋のComment】
魏編ですよー