前兆〜呉

 呉の国は、非常に血気盛んな人々が集まっている。
 それは、水辺に近い風土の為せる業かもしれないし、尚武の気質がそうさせるのかもしれない。
 細かい理屈はよく分からないが、菊華はそう見ている。
 露台から見下ろす長江のように雄大で、しかし激烈な力を持つ国、呉国。
 お国柄が呼び寄せるのか、突然表れた凪砂と葵も、ややそういう気質が見られるように感じていた。
 凪砂に関しては、初めはそうでもなかった。
 孫策が拾ってきたので詳細は不明だが、代わりに誰も文句を付けない。
 根拠がなくとも、孫策が大丈夫だと言い切ったら最後、大丈夫だということになる。
 最初は礼儀正しさを堅い人柄と億劫がっていた連中も、歓迎の宴で凪砂が魅せた酒豪振りに考えを改めたようだ。
 凪砂の話が出た後、呂蒙がお恐れながらと名乗り出て、実はもう一人居たことが判明した。
 こちらは、甘寧軍が拾い上げて危うく『玩具』にされかかったところを呂蒙が救い上げてきた。
 単なる迷い子くらいに思われて居たのだが、持っていた『本』に呂蒙が目を留め、中原の住民ではないと目星を付けたようだ。
 二人とも、極一部の高位の将軍等と膝詰めで話し合った後、孫堅の客人として正式に迎え入れられた。
 諸事情は、什長たる菊華の耳にも届いていない。
「菊華様」
 のんびりした声が掛かり、菊華は胡乱な目をそちらに向ける。
 他の者になら多少は演技を交えて反応しようが、蔡紫相手ではあまり意味がないと痛感している。
 何せ、兵になったのも予定していた商家への働き口を行きずりの娘に譲ってしまったからと言う変り種だ。
 素っ気なくしても態度が変わらない蔡紫は、菊華にとっては苦手な人物と言って良かった。
 それなのに何故演技をしないように心掛けているかといえば、演じれば演じる程蔡紫の興味を引いてしまうように感じられたからだ。
 決して人懐こいと言う訳ではない。
 男と見れば粉を掛けると評判の女だが、実際は男が声を掛けてきて成立する関係だと菊華は薄々知っている。
 そんな悪評が立つのは、男達への微かな期待であろうしどうにも無意味な庇い立てでもあろう。同性であると言うことは、時に強固な怨嗟の源になり得る。
 面倒だから、菊華はどちらにも属さない。
 そうした菊華を、女達は敵と見なし、蔡紫は『そういう人』と見る。
 その差が、菊華と蔡紫の関係を他に比べてわずかに縮めているだけだ。
 蔡紫は、そも他人に興味がないのだろう。
 菊華をしてそう思わせる空気を、蔡紫は纏っていた。
 明るく振舞う。だが、媚びはしない。受け入れはする。だが、追わない。
 執着と言うものが何も感じられなくて、おかしな女だと思う。
 似ていないのに、似ているような気がするのは不思議だった。好感も嫌悪もなく、ただそう思うだけの相手である。蔡紫もきっと、そうなのだろう。
「噂、お聞きになりました?」
 菊華は答えない。それは逆に、知っているということだ。
 黒い大地が人を飲み込み、生きたまま人を九泉に引き摺り落とす。
 真偽の程はどうであれ、菊華の将たる陸遜も酷くやきもきしていると聞き及ぶ。いずれ、出兵することになるかもしれない。
 相手がどんなものだか分からぬままに戦うのか。
 不思議といえば不思議だった。
「中には、あの方達が原因だと言っている者も居るそうですわ」
 先程思い返していた二人のことと見当が付いて、菊華は物憂げに頷いた。
 最初は、菊華もそう考えた。
 けれど、時期的に一致しているとも言い難い。彼女達が現れたのは半月程前の話で、黒い大地の話は以前からの話だ。噂が蔓延した過程を考慮すれば、かなり前からと言うことになる。
 ならばむしろ、彼女達こそ黒い大地を滅する鍵と考えるべきではないかと考えられた。
「こらぁ、そっちは行っちゃイカーン!」
 突然響き渡る声を見遣れば、ちょうど話題の主が歩いているところだった。
 ただ飯食らいを厭って職を求めたという噂は聞いていたが、やれることがあまりなくて結局子守に落ち着いたらしい。
 足元を、牛に引かれる車よろしく子供等に引っ張られている。
 たいした人気だ。
 と、向こうの方から一人の母親らしき女が子を呼んだ。
 少し血相を変えている。
 子供が駆け寄ると、その手を引いてさっと駆け出して行ってしまった。
 残された子供達と二言三言交わし、また歩き出す。
 敢えて気にしないようにしているのは、その表情から察しが付いた。
「知っては、いるようですわね」
 噂を聞き、自分がその要因と噂されていると知って尚、職務に追従する。
 その強気は、ある意味呉では好まれるものだろう。
 特に、孫呉の将達には好かれる類のものだ。
「すみません」
 背後から声が掛かり、振り返れば凪砂だった。
「孫堅様の執務室はどちらになりますか。お呼びだということなんですが、迷ってしまって」
「まぁ。では、私がご案内いたしますわ」
 蔡紫が進み出ると、凪砂は恐れ入りますと丁寧に頭を下げた。
「迎えに行った兵士は、どうなさいまして?」
「……何か用事がおありとかでしたので。一人で伺えると思ったのですけど、やっぱり未だ覚え切れていないようで」
 はきはきと答えてはいるが、凪砂の表情はわずかに暗い。
 蔡紫が意味ありげに振り返るのを、菊華は目を逸らして応える。
 この方も、噂をご存知のようですわ。
 知っているのだろう。
 だが、だからといって如何してやることも出来ない。
 行けとも言えない。手段が見出せない以上、無駄に犠牲者を増やすだけだ。
 けれど、無言の人の抗議は、罪もない娘達を追い詰めるだろう。
 眼下で、子供達を連れた葵の元にも迎えの兵士が現れていた。
 連れて行かれるのだろうか。戦う術もないのに、兵士達も恐れる死者の向かう場所、九泉へ。
 そんなことが許されて、いいのだろうか。
 菊華は静かに、深く深く思考を募らせていた。


  終

【双屋のComment
呉編ですよー

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