■酒、人を酔わしめず人自ら酔う

 孫堅からの突然の呼び出しに、狼星も朱華も程度の差はあれ驚いていた。
 呼び出されたのが、自分一人でなかったことにもだ。
 挙句、当の孫堅が急用とやらで来られなくなったと聞いて、驚きは落胆に変わる。
 朱華などは、落胆したというよりほっとしたと言った方が正しいが、なまじ入れられるだけの気合いを入れていただけあって、拍子抜けすること甚だしい。
「申し訳ないからということよ」
 吐き捨てるような宵の声音は、相手によっては確実にもめ事に発展する類のものだ。
 いささか冷淡にすら見える様が、実は孫堅に腹を立てている為だということを、狼星は密かに察している。短期間とはいえ室を共にしたのは伊達でない。
 しかし、朱華は、示された豪華な酒膳に目を奪われ、宵の態度の悪さには気付けないでいるようだった。
 ある意味、良い組み合わせであろう。
「……い、いやでも、こんなことしてもらう訳にはいかないよ」
 生唾を飲み込みつつ、朱華はぎりぎりのところで堪えた。
 君主の都合で約束を反故にされたからと言って、文句を言えるような立場ではない。
 厚意とはいえ、迂闊に受ければ上官の面子を潰しかねなかった。
「甘寧様は、そんなことにこだわる方ではないと思うわよ」
 むしろ、何で食わなかったと小馬鹿にしてくる方が可能性が高いのではないか。
 宵の指摘に、朱華はぐぬぬ、と歯噛みする。指摘が的を射たものであることはさておき、万事に素直でありながら、やや考え過ぎの嫌いのある朱華らしい反応だった。
 狼星は、くすりと笑うと、さっさと席に着く。そうした方が、朱華の遠慮がなくなろうと見込んでのことだ。また、狼星の隣におずおず腰を下ろしたのを見る限り、この想定は見事に当たっていたようだった。
 宵からの酌を受けるのをきっかけに、二人は思い掛けない飲食を楽しむことになった。
 最初はぎこちなかったものの、舌鼓を打つ内に、緊張がほぐれてくる。
「そう言えば……」
 孫堅からの言付けと前置きして、宵から水が向けられた。
「不満はないかと、その、今の上官に対して」
 ある訳ない、というのが、朱華としては当然の答えになる筈だった。
 が、朱華は一瞬とはいえ口篭った。即ち、『不満がある』と如実に語ったようなものだ。
「い、いや、つかさぁ、こないだまでただの一兵士も一兵士、入ったばっかのぺーぺーだった訳だろ? それが、いきなりの大出世ときたら、周りのやっかみも凄くってさぁ……」
 朱華らしからぬ弱音は、そのまま『やっかみ』とやらの凄まじさに直結する。軍団長たる甘寧への、部下からの信頼と憧憬は性別によらず、また筆舌に尽くし難かったから、朱華の苦労も忍ばれるというものだ。
「なまじ、あたしの力量が微妙だもんだからさぁ、変に目立っちゃうんだよね」
 力量だけの話で割り切れれば、まだマシかもしれない。
 最たる問題は、むしろ、朱華の人脈のなさにある。
 普通であれば、一兵卒から成り上がる課程で、数人の信頼置ける友なり部下なりに恵まれようものだが、それら課程をすっ飛ばした朱華にそんな機会があろう筈がない。
 結果、孤軍奮闘で何とかしなければならないのが実情だった。
 確かに、朱華の言うとおり『力量が高ければ』、朱華に一目置いてくれるような、味方と言い切れずとも候補くらいにはなってくれよう相手も現れたかもしれない。が、宵辺りから言わせれば、そんなものは却って足を引っ張るだけで、獅子身中の虫と大差なかった。
「……孫堅様としては、旧来の家臣に固まりがちな現状打破の一環のつもり、だったらしいんだけど……」
 珍しく同情したような宵は、元より出世を望んでいただけに、朱華の状況に感じるところがあるのだろう。
「いや、いやいやいや、別に不満って訳じゃないんだ。甘寧様も、時々声を掛けてくれるしね」
「でも、そんな状態では逆効果でしょうに」
 うん、と頷いてしまっては、直後に『今のナシ』と喚くも、覆水盆に返らずである。素直な朱華の気質は、酒の力で一段と顕著になっているようだ。
 それは、狼星にも言えることだった。
「私の不満は、未だにお手が付かないことかな」
 場の空気を流そうと、勢いよく杯を煽った朱華が、宙に向かって霧状の酒を噴き出す。
 汚いと咎める者は居なかった。
 宵は苦虫を噛み潰したような顔をしているし、狼星自身は、自分の言動が朱華に及ぼした効果に気付いてすらいないようだ。
「……別に、生娘という訳でもなし、取ってもらうような責任もなし。その辺のお世話は当然お引き受けするつもりで居たのだけれど、黄蓋様はそんなつもりはないの一点張りだしな」
「言ったの!? 黄蓋様に!?」
 激しくむせていた朱華が、立ち直るなり叫んだのに合わせ、狼星はしれっと頷いた。
「一度ならず二度三度ね。でも、あまりしつこくするのも失礼だろう? だから、最近は、こちらから申し上げるのは控えてる」
 そうしたら、まったく梨の礫で、それが不満と言えば不満だと狼星が愚痴る。
 抱かれたければ申告しろと命じられている宵としては、複雑極まりない。いっそ上官と立場を交換したくもなるが、狼星はうんとは言うまい。
 黄蓋だからこそ、狼星は副官の任命を受けたのだし、宵が目を離せなくなったのは誰でもない孫堅という男だった。恐らく、朱華もそうだろう。
 他の誰かでは、意味がないのだ。
「……それで、他には、ない?」
 宵がぼそぼそ話を締めに掛かる。ないねぇ、と狼星がのんびり応じ、またも一呼吸出遅れた朱華が、ないない、全然ないと急き込んだ。
「そうか、ねぇのか」
「うん……って、はい!?」
 突然割って入った甘寧に、朱華は一気に血の気が引く。
 甘寧の後ろには黄蓋が続き、こころなしか顔を赤らめていた。
「どっ、どど、ど、ど」
 動揺から言葉にならない朱華の前に、甘寧はどっかり腰を下ろす。
「で、どいつだ」
「ど、ど……?」
 首を傾げる朱華に、甘寧は苛立たしげに頭を掻く。
「その、やっかんでるとかいう奴だ!」
 甘寧の手にある刀が唸りを上げ、朱華の頬に冷たい風を送って寄越す。
 言ったが最後、その名の持ち主がどういう目に遭おうか、聞かずとも分かろうものだ。
 けれども、言わなければ朱華がどういう目に遭うか知れない。
 絶体絶命の朱華に、救いの手があるようには見えなかった。
 一方、同じく対座していた黄蓋と狼星は、甘寧朱華組とは立場を逆にしていた。
 うなだれているのが黄蓋で、狼星は至って寛いでいるような有様だ。
「……話は、聞いていたのだがな……」
「左様でございますか」
 会話が続かない。
 沈黙の後に、狼星は新しい杯を手に取った。
「お一つ、如何でしょう。良い酒と存じます」
「いや、しかし……」
 これは、狼星達の為に整えられた酒膳である。上官とはいえ、黄蓋が手を付けていいものではなかろう。
「良い酒です。ですから、黄蓋様にこそ召し上がっていただきたく」
 狼星は、頑ななまでに酒を勧めて寄越す。
 何事にも水のようにしなやかな応対を見せる狼星にしては、珍しいくらいの強硬さだ。
 戸惑う黄蓋に、狼星は鮮やかに笑う。
「……何であれ、喜ばしいことは黄蓋様に。嫌悪すべきことは、私にも。そうありたいと、思う方にお仕えしたいのが、私の望みでありました」
 狼星はそこで口を閉ざしたが、煌めく眼はその続きをまざまざ語る。
 曰く、その望みは今、叶えられているのだ、と。
 黄蓋の苦笑には、幾らか照れも混じっていた。
「……儂も、お主のお零れに預かるとするか」
 憎まれ口を聞きながらも杯を受け取った黄蓋に、向けられる狼星の笑みは清々しかった。

「あれ、あれは……」
「あら」
 偶々行き合った紫栄と海里は、えらい勢いで歩いていく宵の姿を見付け、首を傾げる。
 宵は、周囲の納得を得難い形で出世を果たした二人の副官が、それ故に何か悩みを抱えていないか聞き出せと孫堅に命じられていた。
 至極当然のこと、孫堅にしては珍しく部下思いだ等と感傷に浸り、密告のねたを作るようで心苦しいのを堪えることにしたのだ。
 けれども、物陰に二人の上官が潜んでいるとは聞いていなかった。
 あれでは、狼星はともかく朱華が可哀想なことになる。
 せめて前もって聞いていれば、宵がどうにか口添え出来たかも知れないのに、知らずに居たせいで介入する機を逸してしまった。
 黙って居ずとも良いことを、敢えて黙っていたやり口の汚さに、苦情を述べに行くところだということなど、紫栄も海里も知る由はない。
 どうにも声掛けし難い雰囲気に、二人は黙って見送るしか出来なかった。
 それ程に、宵の放つ気配は殺気立っていたのである。
 そして、そんな宵を孫堅が今か今かと待ちかまえていることを、頭に血が上った宵が察しているかどうか、甚だ怪しいところであった。

  終

□企画終了後、企画掲示板で打ち上げ代わりの書き込みに、付き合って下さった参加者様のエディットでお話を作る約束をしました。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。