■再会の帰還
そよ風が吹き抜けたような、ほんの些細な違和感と共に、鳴は目を開けた。
何かが今、あった。
それが何かは分からない。
ただ、あったという事実だけを、本能的に察していた。
――……何だろう。
もやもやしたものが胸の中にわだかまり、一向に晴れない。
不快感に眉を寄せる鳴に、声が掛かった。
どこかであったような、その程度に顔を見知った男だった。
「いつぞやは、どうも」
文官装束の男の名を、脳裏に浮かべる。
先日の戦場で、同じ作戦を担った相手だと思い出した。
とはいっても、鳴は一応武官に属する次第で、同じ部隊に属している訳でも相手のことなど知りようもない。
けれども、相手は違ったようだ。
「鳴殿におかれましては、見事なご活躍でしたな」
複雑な美辞麗句を取り除けば、何のことはない、酒の誘いだった。
いつもの鳴であれば、これ幸いと受諾しただろう代わり映えない誘いだ。
「いいえ」
口が勝手に動いていた。
「申し訳、ありませんが。しばらく、酒を断とうかと、そう思っておりまして」
自分でもびっくりしたせいか、言い訳は少々たどたどしい。
男も断られるとは思ってもみなかったのか、目を幾らか瞬かせた後、何やら恨み言を呟きながら去って行った。
よもや断ろうとは、との一言だけは、鳴の耳にもきっちり届いた。
それは、鳴自身が一番鮮烈に感じている。
何故断ったのだろう。
人脈を得る機会を持つことは、鳴にとっては掛け替えない好機の筈だった。
誘われれば断らないというのが、魏軍における鳴の評定の一つである。
無論、無粋な下心を持って近付いてくる輩は少なくないが、その程度をいなせなくてどうすると常日頃から思っている。
だから、先程の誘いを断ったのは、もっと何か別の理由である筈だった。
そうでなくてはおかしい。
ざあっと強い風が吹き、鳴は髪を抑えて目を瞑る。
頬をかすめる冷たい感触は、舞い散る花弁のものだろうか。
風が止むのと同時、鳴は何かに導かれるように『彼』を見た。
――あぁ。
感嘆の声が、全身の血流に満ちる。
あまりの衝撃に、心臓が止まるかと思った。
――あなたです。
何がでしょう、と、自身でも分からない。
ただただ『彼』だ、とだけ、強く強く感じていた。
鳴の視線を感じでもしたか、花弁の向こうの彼もまた、鳴を認めて振り返る。
困ったように眉尻を下げ、悪戯を見付けられた子供のように目を反らす。
悲しくなった。
何で、どうしてこんなに泣きたくなるんですかねと自問自答するも、答える者はありはしない。
胸の鼓動ばかりが鳴の感情に応えるように、ことりことりと早くなった。
気が付いたら、走り出していた。
彼もさぞかし驚いたろうが、驚きのあまりか立ち止まったままでいる。
鳴にはもっけの幸いだ。
「あなたは、えぇと、確か」
浮かびそうで浮かばない。
人の顔と名前を覚えるのに苦労した覚えはないのだが、こんな時に限って何故かどうしても思い出せなかった。
「徐元直……俺の名は、徐元直と言います」
――あぁ、そうだ!
「徐庶殿」
その名前を紡ぐ唇が震えている。
徐庶は、酷く訝しそうだ。
それはそうだろう、鳴もそう思っている。
「私を……いいえ、私は、鳴と申します。あなたと同じ、魏将です」
徐庶の眉間に皺が寄る。
鳴は、己の迂闊を呪った。
――あぁ、また、私はやってしまった。
また、の記憶が一向にないのだが、鳴はさっと顔色を変え、居たたまれなさに俯いてしまう。
「……あぁ、いや……」
もごもごと、口籠る声が降ってくる。
「……別に、気を悪くしたとかではなくて……俺の、ひとりよがりだ」
魏に参入して未だ日が浅いので、からかわれたと思ったと徐庶は言う。
「からかったつもりはないのですが、失礼しました」
「謝られてしまうと、俺も立つ瀬がないというか……」
頭を掻く徐庶に、鳴はようやく態勢を整える。
しかし、これ程までに衝撃を受ける理由に心当たりがない。
考えれば考える程分からなくなるが、自分は徐庶の傍にいたいらしいということだけは、何となく理解していた。
その為には、何か会話を続ける必要がある。
いつもであれば戸板に水を流すが如くに溢れる言葉が、今日に限って枯渇している。
何か、何かと念じるも、却って焦って空回る。
糸口は、当の徐庶からもたらされた。
「何故、俺に……?」
声を掛けたのかと問うているのだろう。
鳴の口は、またも勝手に動いていた。
「あなたに、会いたかったのです」
だから私は、あなたを追って、それで今、こうして会って。
そんな筈はない。
ないのだが、鳴の感情はすとんと綺麗に落ち着いてしまった。
――私は、あなたに会いたかったのです。
徐庶は、案の定怪訝な顔をしている。
頭のおかしい女だと思われたのだと、鳴は泣きたくなっていた。
「……俺と、どこかで会っているのだろうか」
分からない。
とはいえ、分からないと答えれば、徐庶の心証は悪くなるばかりだろう。
これ以上を恐れる鳴は、口を閉ざすより他なかった。
徐庶が頭を掻く。
そして、思い切ったように口を開いた。
「こんなことを言うと、失礼だとは思うけど」
――俺は、君とどこかで会ったような気がするんだ。
徐庶は困ったように呟いた。
鳴の胸を衝撃が貫く。
痛みは、ない。
むしろ、切ない。
それはあっという間に膨れ上がって、体が弾けてしまうような錯覚をもたらした。
ぱた、と乾いた地面に黒い染みが落ちる。
「あ……」
何故泣いているのか、分からない。
分かるのは、悲しくて泣いているのではない、ということだけだった。
ぎょっとする徐庶をよそに、鳴の涙は生半なことでは止まりそうにない。
困惑して眉尻を下げた徐庶は、恐る恐るの態で鳴の髪に手を触れた。
二人はそのまま、しばし立ち尽くしていた。
□コメント
お分かりになるかもしれませんが、OROCHI2 ultimate 現世帰還バージョンです。
企画者自身は、シンクロ率もそこそこいいし別にくっついてもいいんじゃないかと思っていましたが、鳴嬢の生みの親たる赤駒さんはその手のハッピーエンドはどうもしっくりこないようなことを仰っていたようでしたので、じゃあということで。
鳴嬢が大層乙女乙女しいですが、徐庶が乙女乙女しいので、それを上回るように頑張ってみました…まあ、無駄な頑張りだと自分で思いますが。
書いてて、この二人の場合、永遠のプラトニックでもいいような気がしてきました。頭撫でたり頬っぺた包むくらいの乙女乙女しいいちゃつきが似合う気がします。
シンクロ率同率1位、おめでとうございました。 つか、連続1位凄いですよね…。