■忠誠の理由

 倒すべき敵の名が『渾沌』であると知れた今、陣地は矢庭に活気付いている。
 司馬師の周囲にお付の者の姿がないのも、そんな混乱の表れだったのだろう。
 意に介した様子もない司馬師を前に、翠瑛はあの日のことを思い返していた。
――お前が原隊に復帰できるよう、昭には私から言っておこう。
 そう言って踵を返した司馬師の袖を、翠瑛は直接つまんで引き留めるという無礼を働いていた。
 働いていた、というのは、混乱を極めた中での無意識の行動であって、翠瑛とて何もそんな大それた真似をするつもりはなかったのだ。
 覆水盆に返らず、やってしまったことは取り返しがつかず、翠瑛は訝しげな司馬師を相手にたいそう恥ずかしい思いをしたものだ。
 よく許されたな、としみじみ思う。
 なかったことにした上で、親衛隊にまで迎え入れてくれたことに感謝しつつも、あのすべらかな袖の感触を、翠瑛は今も忘れていない。
「……どうした」
 感慨に耽るあまり、目の前の司馬師すら置き去りにしてしまっていた。
 何とか誤魔化そうとするものの、根が正直な翠瑛のこと、司馬師を相手にその難行を成功させるには、いささか力不足だというのが正直なところである。
 そもそも、隠しようがない程に赤面してしまっていては、成功すると考えるのもおこがましかろう。
「あの、といいますか、私は何故司馬師様配下として留め置いていただけたのか、と」
 嘘ではない。
 実際に考えていたこととは少しばかり違っているが、翠瑛にとっては今でも謎で、納得できない話であった。
 所属を変えて、ということであれば、端から翠瑛の耳に入っていないのは異常だ。
 司馬昭が連絡を怠ったのだろうと司馬師は言ったが、翠瑛程度の立場の者に軍団長直々の連絡が入る訳がない。
 何かもっと別の理由があるのではないかと、翠瑛はかねがね考えていた。
 問えずにいたのは、ひとえに新参者の立場故だ。
「……帰隊したいというのであれば」
「いえ、純粋に疑問なだけです」
 将の言を遮る無礼は、そうでもしないと本当にそうされかねないからだった。
 司馬師という人は、情とか機微とかいうものにいささか疎い傾向にある。
 人によっては冷酷とさえ言うかもしれない。
 無礼を働かれた当事者は、物憂げに眉をひそめると、しばらく口を閉ざしていた。
 余程な理由があるのだろうかと、翠瑛は胸元を押さえる。
 もしかして、それはとても言い難い理由なのではあるまいか。
 心臓が、痛いくらいに昂ぶっていた。
「……どう言ったらいいものか……」
 司馬師にしては珍しく、口が重い。
 緊張のせいで視界が揺らぐ翠瑛の耳に、司馬師の声だけが響く。
「昇進の都合、といえば分かり良いか」
 引っくり返りそうになった。
「……え、あの……はい?」
 泣きそうになるが、問わずにおれない。
 司馬師は焦った様子もなく、極淡々と話を続けた。
「私より格下扱いの昭の軍から私の軍へと転属となれば、それだけで昇進扱いとなる。調査任務に同道するのは、転属後の力試しとなる故、帰還後の昇進がなくとも差支えないということになる。だが」
 これで司馬昭の軍に帰隊となれば、単純問題、降格扱いとなってしまう。
 仕出かした訳でもないのに降格となれば、軍規の点から見てもどうにも具合が悪いではないか。
 かといって、調査任務ゆえに華々しい功績は望むべくもなく、その点での評価が望めないとあっては迂闊に昇進という訳にもいかない。
 あちらもこちらも具合が悪い、上手く納めるにはどう処置すべきかとなれば、司馬師旗下に留め置くのが唯一無二の解決策である。
 評価に値する功績もなく、理由もなしに降格させる訳にもいかず、致し方なくというのが真相だった。
 これでは、確かに伝え難いのも頷ける。
 任務の前にこんな馬鹿げた昇進を申し伝えられたら、やる気がなくなる以前の問題だったろう。
 翠瑛は、腰が抜けそうなのを必死に耐えた。
 何かもっと、きっともっと、明確な理由があると思っていた。
 これと思い当たることはなくとも、絶対に何か理由があると考えていた。
 願っていたというのが正しいからかもしれない。
 職務上の理由でないのであれば、それはきっとそうだ、と、無意識に浮かれていた。
「どうした」
 涙が堰を切って溢れていた。
 恥ずかしくて、司馬師に背を向ける。
 いわゆる恋情でないとしても、きっと司馬師は翠瑛を気に入ってくれていて、それで手元に置いてくれたのだと感じていた。
 ただの転属であれば、以前と同じ部署でいい筈だ。
 司馬師付きの武官の地位は、何がしかの理由がなければおかしいと、翠瑛のみならず周囲の人間も同じように考えていた。
 だからこそ、心をささくれ立たせるような嫉妬や嫌味に耐えられたのが、今、呆気なく否定されてしまった。
 司馬師の前で泣くなど許されないことだが、涙がどうにも止まらない。
 案じて声掛けてくれたのだろうに、その気持ちにさえ応えられない自分が情けなかった。
「う、……己惚れていた、のが、恥ずかしいのです……理由もなく、今の職務に就いた自分が、恥ずかしいのです」
 必死に声を紡ぎ、退室の礼を取ろうとした時、翠瑛の視界は遮られた。
 驚きで、涙が止まる。
 翠瑛の目の前に立つ司馬師は、怒りでなく困惑でなく、純粋な疑問に満ちた表情を浮かべていた。
 まるで珍獣を見るようだと、翠瑛の羞恥は別の方向に転移する。
「う、あの」
 再び顔を真っ赤にする翠瑛を、司馬師は繁々と見詰める。
 翠瑛も相当背が高い方だが、司馬師の方もそれに負けず良い体躯をしている。
 わずかながら見下ろされるという不慣れな状況に、翠瑛が落ち着けよう筈もない。
「お前は我が親衛隊に相応しいと、私が判断したまで。それは、理由にならぬと言うのか」
「……は……」
 絶句した。
 そうなのだ。
 ただの転属であれば、前の部署と同じで良い、だから、親衛隊に加えられたということは、何であれ司馬師に認められたと同義だ。
 かてて加えて、翠瑛の質問はどうあっても『転属の理由』としか聞こえず、『親衛隊に加えられた理由』とは受け取れない。
 分かりやすく答えようとして心を砕いた司馬師も、いい面の皮だろう。
 自分でも同じように考えていた筈なのに、そこから何をどうしてこんな風に、自分勝手に思い込んでしまったのか。
 羞恥の方向は捻じれて転換し、加速して突き抜ける。
「……やはり、不慣れな役よりは、元いた所属と同じ役が良かったか?」
「いえ、あの、そんなことは」
「職務に馴染まぬというのであれば」
「いえ、大丈夫です!」
 大声を出すのも無礼だが、構っていられない。
 幸い、司馬師は気にしてないようだ。
 こうなったらと、翠瑛は唇を噛む。
「……私を、司馬師様のお側に置いて頂いても、よろしいでしょうか」
 何をかいわんやである。
 けれど、確かめずにはおられなかった。
 居たくないのであれば、と返されるかもしれない。
 それでも良かった。
「ああ」
 司馬師は、口元に緩い弧を描いた。
 それだけだった。
 それでも翠瑛には、今生掛け替えない一言だった。

□コメント
 司馬師配下を選択した後の話を、ということでしたので、プラスして企画中気にされていた『異動の理由』について言及した話にしてみました。
 企画中も申し上げたような気がしますが、任務で他軍団からわざわざ推挙される場合、その任務のエキスパートであるか何か事情があるかの二択になると考えていますが、翠瑛嬢は調査系のエキスパートとは言い難いですし、その上で司馬師所属の親衛隊を押しのけてまで推挙される理由は何だ→異動される理由はと考え、こうなりました。
 司馬師は単純に『親衛隊向き』と判断して編入させたと思いますが、そもそも向いてない人間を推挙するほど頭の悪い人でもないと思うので、翠瑛嬢ならきちんと期待されているのだと受け止めて、出世してくれると思います。
 シンクロ率同率1位、おめでとうございました。