次の日、俺が出勤すると、美波さんが血相変えてやってきた。
「どないしたん!」
 ふーわー、などと奇声を上げつつ、俺の顔を心配そうに見ている。
「角度変えて見たって、何も変わりませんよ」
「そら、そうやけど」
 もっとも、昨夜の内だったらどうか分からない。
 趙雲のマンションに着く頃、俺の顔は打撲のせいでぱんぱんに腫れ上がっていたからだ。
 それを、趙雲が冷凍庫の中にあったのとコンビニに買い出しにいった氷を駆使し、俺の顔を凍傷寸前まで冷やしに冷やして腫れを引かせてくれたのだ。
 何でも、学生時代に身に付けた技らしい。意外とヤンチャだったのだろうか。
 ともあれ、俺は紫掛かった痣と幾つかの絆創膏で彩りを増した顔を下げるだけで、突如欠勤という不面目を免れた次第だ。さすがに、顔を腫らしたままでは出勤しようと思えなかったと思う。
 変な意地だが、ぱんぱんに膨らんだ面白顔よりは不名誉な負傷顔の方が遙かにマシだった。
「ホンマ、でも、どないしたん」
「や、酔っぱらいに絡まれて。あしらい損ねて、たこ殴りに遭ってしまいました」
 茶化して嘘を吐く。
 本当のことは、言えそうにない。

 馬超が血相変えて詰め寄ってくる。
「どこのどいつだ、それは」
「知らないって」
 馬超への連絡は、趙雲がしてくれた。
 ので、俺は趙雲が馬超に何と言って説明したのか知らない。教えてもらえなかったのだ。下手なことを喋れば嘘が露呈してしまいそうで、だから俺は迂闊なことを話すことが出来ない。
 にも関わらず、馬超は一人でヒートアップしていく。
「ならば、そいつと会った場所とそいつの特徴を言え! 俺が直々に……」
「馬超」
 今度はこいつに殴られるんじゃないかと疑ってしまいそうな勢いの馬超を、趙雲が冷ややかに呼び付けた。
「今日は朝から外回りではなかったのか」
 美波さんも、おやっという顔をしている。
 万事に丁寧な仕事振りの趙雲が、こうも憮然とした態度を取るのは珍しいのだ(家ではデフォなんだけれども)。
 馬超は馬超で、嫌そうな顔をしながらも素直に趙雲の指示に従う。
 これもまた、珍しい。
「……ほんまに何か、あったん?」
「ヒドイ、美波さん。俺の怪我より、あいつらの挙動不審の方が気になるんですか」
 興味津々な美波さんに、俺は泣き真似して見せる。
 慌てて四の五の言い出した美波さんの背後で、姜維主任がどうにも恐ろしげな顔で睨んでいるのが見えて、俺は肩をすくめて早々に切り上げた。
 デスクに着いてパソコンを起動させると、立ち上げたメールソフトが数通の着信を告げる。
 俺は、その中のアドレスの一つに『ryoh-toh』の綴りを見出し、首を捻った。

「……どうした?」
 美波さんではないが、思わず問うてしまっていた。
 呼び出され、なるべく人目に付かないところでとの指定で、俺はまたもや馬岱の店を利用することにした。
 顔の怪我もあってか、終業時間となると同時に帰社を促された俺と違って、営業で忙しい馬超と趙雲は朝からずっと戻らなかった。
 付き添いを頼むつもりは毛頭ないが、何だかあいつらに言い訳のきかない秘密を作るようで、何となく気が引けていた。
 そんな俺の思惑をぶち壊したのが、他でもない凌統自身だった。
 正確には、その顔だ。
 細面の顔に、痣やら張り付けた絆創膏やらが賑々しい。
 絆創膏の下から覗く明るい色のかさぶたが、この傷の新しさを物語っていた。
「……という訳。あんまり人の居るところじゃ、まずいだろ?」
 まるで、俺が『人目に付かないところ』という条件に渋い顔をしたのを、見ていたと言わんばかりの口振りだ。
 まぁ、確かに渋い顔はしてたから、あながち見当違いとも言えない。
 うやむやに誤魔化して、馬岱の店に先導する。
「あ」
 店の前まで来て、凌統が変な顔をする。
 何だと問うと、今度は凌統が渋い顔をした。
「……前に、入店拒否られたところだったからさ」
 本気でやりたい放題なんだな。
 経営コンサルタントはテストされてるとかいうプレゼンターの中に居なかったのかと目眩がする。
 居て、なおかつ入店拒否まで奨めているのだとしたら、俺はそのコンサルタントに迷わず駄目出しすることだろう。
 ドアを開くと、馬岱がカウンターから視線で出迎えてくれる。
「奥、使ってもいいか?」
 一応訊ねると、馬岱は俺と凌統の顔を見比べて、すいっと奥を指した。
「ここでは、殴りあわないでおいて下さいね」
「……これは、別件だよ」
 馬岱の素知らぬ顔に見送られ、俺は凌統と奥の部屋に向かう。
「コーヒー、後ででいいから」
 俺の指定に、馬岱が小さく舌打ちしたのが聞こえてきた。
 て言うか、一応客に向かって舌打ちするなよ。
 文句を言ってやろうかと思ったが、今は馬岱とじゃれている場合でもないので、敢えて流す。
 部屋に入って腰を落ち着けると、不意に凌統が顔をしかめた。
「どうした?」
「……いや、座った振動が傷に響いた」
 よっぽど酷くやられたのだろう、凌統の眉間には深い皺が刻まれていた。
「あいつ、久々に相手してやったからってはしゃいじゃってさ。本気で殴りやんの。冗談じゃないっての、なぁ」
 扱き下ろしている割には、凌統はどこか嬉しそうだ。
「……何、笑ってんだっての」
「笑ってんのは、そっちだろ。何、嬉しそうにしてんだよ」
 別に、とそっぽを向いた凌統は、しかししばらくの沈黙の後に、穏やかな笑みを浮かべた。
「……ん、でも、まぁ、ちょっとだけ戻れた、かな」
 詳しいことは聞かず、俺はふぅんと呟いて流す。
 わざわざ訊ねるのも野暮と言うものだ。
 けれど、俺は凌統のそれを『戻った』などという後ろ向きな状態には取れなかった。
 凌統は、『乗り越えた』のだ。
 自分と同じ同性の男に恋してしまったという、認めることも難儀な感情を自覚し、そしてその相手と向き合えるまでになった。
 そんな著しい『進化』を、戻ったなどとは言いたくない。
「……何」
 凌統の訝し顔をスルーして、俺は敢えて話を進めた。
「んで、どうするつもりだよ。今後」
 俺の問い掛けに、凌統は何もないところに視線を投げる。
「……まだ、分かんないな。しばらくは、このまんまだと思う」
「そっか」
 短く応えた俺の顔を、凌統は繁々と見つめる。
「……何」
「いや、あんた、ホントにお人好しだなぁと思って」
 そうかな、と呟く俺に、そうだよ、と凌統が駄目押しする。
 そして、笑う。
「ありがとな。助かった」
 俺の何がどんな風に凌統の救いになったかは分からないが、凌統が助かったと言うのであれば、きっとそうなのだろう。
 敢えて否定も肯定もせず、俺は席を立った。
 扉を開けると、カウンターには変わらぬ姿勢の馬岱が居る。
 コーヒーの注文をしようとして、異常に気が付いた。
 変わらな過ぎるのだ。
 幾らなんだって、俺が凌統と部屋に入ってから十分以上は経っただろう。
 にも関わらず、馬岱が磨いているのは先程と同じカップなのだった。
 一律に同じ形のカップを使っているところもないではないが、ここのカップはグラスに至るまで一点物というよく分からないこだわりを持っていて、つまり馬岱の磨いているカップが先程磨いていたものとは同じ形の別の物、とはなり得ない。
 延々同じカップを磨かねばならない理由もなく、要するに馬岱が『カップを磨く振りをしていた』ことになる。
 では何故馬岱がそんな振りをしなければならないかと言えば、考え得る理由は一つしかなかった。
「……今日のコーヒー、お前の奢りな」
 つっけんどんに言い放つと、扉が閉まる直前に『そんな殺生な』という馬岱の嘆き(棒読み)が入り込んできた。
 無視してドアを閉めた俺に、凌統が不思議そうに目を丸くしている。
「奢ってくれるってさ」
 俺は、詳細をすっ飛ばして獲得した戦利品についてのみ、説明を加える。
 馬岱が聞き耳立てていた罰だなどと暴露しては、馬岱の名誉に傷が付く。
 俺も、多少は慈悲深く(あるいは厚かましく)成長しているようだ。

 家に帰ると、珍しく馬超が先に帰っていた。
 俺が玄関のドアを開けると、留守番していた飼い犬よろしく足音を立ててすっ飛んでくる。
!」
「……何だよ」
 お帰りくらい、言え。
 俺の不満に気付く様子もなく、馬超は俺にしがみついてきた。
 何なんだ。
「お帰りなさい」
 ゆったりとした足取りで奥から姿を現したのは、他ならぬ趙雲だった。
 何がどうしてこうなったのか、さっぱり分からない。
 俺の表情から思考を読み取ったのか、趙雲が説明してくれた。
「単に、貴方を占有するなと言って聞かせていただけですよ」
「嘘だ、! 騙されるな!」
 間髪入れずに馬超が叫び、趙雲がむっとする。
、こいつの言うことなど聞くな!」
 やたらめったら切羽詰まった風な馬超の様子に、俺は趙雲に話の続きを促した。
!」
 馬超が怒鳴るが、知ったことではない。
 趙雲は、わざとらしく深い溜息を吐いて、髪を緩く掻き上げて見せた。
「大したことではありませんよ。単に、月の内の十日、貴方を私の家に泊めると言ってるだけです」
「何故増える! さっきは、一週間と言っていただろう!」
「私の最大限の譲歩を蹴倒しておいて何を言う。私の譲歩を認めないなら、私も自身の欲望に素直に従うまでだ」
 そういう訳で、と趙雲の出す条件が二週間に増えた。
 どういう訳なのかは俺にもよく分からないが、とにかくしがみついた馬超が耳の側でわめくのが鼓膜に痛い。
 二人でぎゃあぎゃあ騒いでいるので、口を挟むのも億劫になっていると、俺の携帯が唐突に低い唸り声を上げて振動する。
 現実逃避同然に二つ折りの携帯を開くと、メールが届いていた。
 メールの差出人は、凌統だった。
 さっき、流れで携帯の番号を交換したのだが、早速利用してくるとは思わなかった。
 何だろうと思ってメールを開くと、『また何かあったらよろしく』という、文字だけの素っ気ない一文が表示される。
「……また、男か」
「ろくでもない言い方すんな」
 メールを覗き見していた馬超が、白い目を向けてくる。
 だが、俺とて一応男なのだから、ただの同性の友人からのメールに、そんな言い方をされなくてはならないような覚えはない。
「凌統というと、昨夜の男ですか……思い出した。そういえば、あの男、TEAM呉の凌統ですよね。チーフデザイナーの。貴方は、どうしてそう他のTEAMの連中に目を付けられるんです」
 趙雲の目が寒い光を宿す。
「違うって、これは、TEAMとか関係なしのプライベートで……」
「ははぁ、プライベートで。それで、昨夜はあんな事態になってしまったと、こう仰りたい訳ですか?」
「先程から聞いていれば、昨夜の男だのあんな事態だの、いったい何の話だ!」
 まずい。
 馬超と趙雲の二人で言い争っている分には、俺は蚊帳の外でのんびりしていられるが、こと、こういう事態になると、二人の歯車はがっちり噛み合って、寸分の隙もなく俺を追い詰めるのだ。
「……つか……俺は結局、どうすりゃいいんだよ。趙雲の家に行けばいいのか?」
 問題の焦点逸脱を試みるも、趙雲の寒い笑顔に計画の失敗を覚る。
「とりあえず、奥できっちり凌統との慣れ染めと正直な関係をご説明いただければいいんです」
 あくまで自分を保つ全身是肝の趙雲の脇に、攻め手としては超一流の馬超が手ぐすね引いて待ち構えている。
 引くこともならず押すこともならない陣容に、俺は逃げられない運命を感じてどっと冷や汗を掻く。
 凌統にヘルプコールを送りたかったが、きっと凌統は見て見ぬ振りをすることだろう。
 ちょっと楽しい気もする(単なる気の迷いなんだけれども)が、かなり厳しいこの状況に、俺はただへらっと間の抜けた笑みを浮かべるしかなかった。

  終

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