翌日から、馬超は物凄い勢いで汚名返上を開始した。
 返しますと言って返せるものではないが、あれだけ多かった苦情がぴたりと止み、慌しくも重い空気に包まれていた営業部が、ぱかっと明るくなっていた。
 馬超は早朝出勤に自主残業を繰り返し、自分が開けてしまった穴を埋めるのに必死になっているようだった。
 必死というと語弊があるかもしれない。
 馬超の顔には切羽詰った感はなく、むしろ、何かいいことでもあったのかと問いかけたくなる程に緩んでいた。
 朝から晩まで働いてへとへとになっているはずの馬超がにこにこしているものだから、自然に他の営業も自分の職務に集中しなければならなくなった。
 何と言っても馬超は未だ新人の立場で、その新人が笑顔で業績を伸ばしていれば、ベテラン勢が追い立てられるような心持ちになっても致し方あるまい。
「何をしたんです」
 趙雲がじと目で俺を睨む。
 俺は澄ました顔で在庫確認に勤しんだ。
 珍しくデスクを離れての業務だが、何のことはない、例の計算式がおかしくなっていた分の実地調査を任されただけの話だ。
 屈みこんだ俺の足の間に、趙雲が足を滑り込ませてきた。そのまま革靴の先で股間を撫で回す。
「おい」
 思わず腰を浮かせて立ち上がった俺を、趙雲は不貞腐れたような面持ちで見下ろす。
「ずいぶん感度がよろしいようで」
「よろしかなくったって、んな真似されたら誰だって反応するだろうよ」
 薄手のスーツは昂ぶりを隠すのに向かない。こんなところで勃たせるわけにはいかないのだ。
「じゃあ、鎮めてあげましょうか」
「ふざけ……」
 俺の反論は半ばで押し込められた。
 ただ在庫の数を数えるだけの仕事に時間を食ったら、諸葛亮課長に何を言われるか分からない。
 あの冷たい相貌の前に立つのすら苦手なのに、高尚な説教まで食らったらと、考えただけでぞっとしない。
「……あっ、ば……ぅ……っ……」
 俺の心配を他所に、俺の愚息は呆気なく趙雲に陥落し、その口の中で爆ぜた。

 終業間際、俺は諸葛亮課長に呼び出された。
 倉庫での一件がばれたかと冷や汗をかきつつ出向くと、諸葛亮課長はまず手を差し出した。
 俺は握手を求められているのかと勘違いしかけたが、課長の手は横に広げられている。それで、脇に抱えたファイルを寄越せと言っているのだとようやく気が付いた。
 我ながら阿呆だ、と赤面していると、諸葛亮課長の口元に薄っすらとした笑みが刷かれる。
「意地の悪い男だと思いましたか?」
 別にそこまでは思っていない。社内で毎日顔を突き合せている上司が、突然握手を求めてくる方が有り得ない気がした(昇進が決まったとかならともかく、そもそも俺は昇進する程働いているわけでもない)。
 否定した俺の顔を、諸葛亮課長はまじまじと見上げ、また笑った。
「貴方は、案外素直な方ですね」
 褒められているのだろうか。
 ファイルを渡すと、諸葛亮課長はそれを仕舞い込む。奥にはまだファイルの束がぎっしりと詰まっているのが見えた。まぁ、やるしかなかろう。
「専務ともお話しましたが、やはり貴方は私の直属として働いていただくことになりました。正式な辞令は後程出しますが、先にお伝えしておきたいと思いまして」
 雇用はされているものの、所属がイマイチ不明瞭だった俺は、これでようやく正当な居場所を確保したことになる。
 人手の足りないこのTEAMでは、新人が入社するたびこんなことが起こるらしい。各部各課で新人争奪戦が繰り広げられるのだそうだ。何だか学生のサークル勧誘と似た趣がある。
 よろしくお願いしますと頭を下げると、諸葛亮課長は再び手を差し出した。
 一瞬考え込んだ俺は、恐る恐る手を差し出す。
 柔らかく、しかししっかり握り篭められた手は、意外にも暖かかった。

 家に戻ると、俺は食事の仕度を始めた。
 最近は会社に残ることが多かったのだが、お蔭で外食が続く羽目になり、たまには自分で作ったものが食いたくなったのだ。気分で、ビーフシチューを作ることにした。
 材料を切って下ごしらえを済ますと、鍋にバターとオリーブオイル、にんにくを加えて炒める。そこに小麦粉を振った肉を投入し、肉に焦げ目が付いたら軽く塩コショウして取り出しておく。同じ鍋に火を通したワインとブイヨンを加え、鍋底に焦げ付いた肉の旨味を回収してやる。肉を戻し、一緒にペーストにしておいた野菜類を流し込み、更にローリエをぶち込んだ。
 後は煮込みながら、余分な油や灰汁を捨てていけばいい。ニンジンとブロッコリー、小芋は茹でて火を通してあるから、最後に煮崩れないように入れるだけだ。
 その間にワインを冷やし、洗い物を済ませ、軽く掃除を始めた。
 俺はいい奥さんになれるかもしれない。
 自力でツッコミを入れる気にもなれず、脱力しながらフローリングの床にワイパーを滑らしていると携帯が鳴った。
 ディスプレイを確認してから、少し考えて、出る。
か』
 携帯を通すやや不明瞭な曹丕の声は、それでも変わらず低めで強迫的だ。それが常のこの男が、何故か俺に執着しているのを未だ理解出来ずにいる。
「うん」
『……何をしていた』
 何をしていたと言われても。
 俺は辺りを見回した。台所からは鍋の中でシチューが煮える音が微かに聞こえている。テレビは点けていなかったから、部屋の中で他に聞こえるのは時計の針が立てる音くらいだ。
「メシ作ってた。今は、掃除してる」
『そうか』
「うん」
 沈黙が落ち、俺は曹丕が何の為に電話を掛けてきたのかよく分からなくなった。
 けれど、切るよとも言い辛く、ただ曹丕の次の言葉を待った。
『行っていいか』
 予想外の、しかしあまり驚きも感じない言葉に、俺はまた少し考え込んだ。
「今日は駄目だな」
 俺が断ると、曹丕は無言になった。
 しばらくして、分かった、とだけ言うと、曹丕から通話を切った。
 俺は無言で携帯を戻し、掃除を続けた。

 シチューがいい具合に仕上がり、テーブルをセッティングする。
 と、玄関の方から騒がしい物音が聞こえてきた。
!」
 大型犬が大好きな主人に踊りかかる勢いで駆け込んできた馬超は、顔中汗まみれにしていた。
 俺は無言でハンカチを取り出すと、馬超の汗を拭きに掛かった。
 馬超も無言で俺の行為を受け入れた。やたらとにこにこしている。
 その顔が、不意に厳しいものに変わる。
「何故、先に帰った。探したろう」
「そう毎日待ってられるか」
 何だかよく分からないが、馬超は俺がフロアで待っていることを切望した。
 やることもないのに居残りする苦痛を、こいつは分からないらしい。それでも、社報やら取り置きの雑誌やらに目を通し、それなりには努力して時間を潰しているのだから、時々は早く帰ったとしても罰は当たらないと思う。
「メールしておいただろ」
「見たのはさっきだ」
 それは、見ない方が悪いだろう。
 台所に向けて鼻を鳴らす馬超に、メシを食おうと誘いかける。
「今日はが作ったのか」
「作ったよ、悪いか」
 待っていなければ作れるのだ。九時十時に帰社する奴を待ってたら、外食するしかないだろう。何でそんなことも分からないのだろうか。
 腹が減ったと背を向けた俺を、馬超の腕が拘束した。
 後ろから抱きつかれ、首筋に吹き掛けられる鼻息に閉口する。
 ずるずるとソファに運ばれ、押し倒された。
 服が暴かれていくのをぼんやりと見ながら、せめて着替えてからすればいいのに、と呆れていた。スーツの上着が乱雑に脱ぎ捨てられ、床にわだかまる。
 掃除しておいて良かった。

 意識が飛んでいるのが気に入らないのか、馬超が焦れたように体を揺する。
「前も言ったが」
「うん」
「俺が抱くのも、だけだ」
 恥ずかしそうに、しかし真剣に告白している態の馬超に、俺は苦笑いを浮かべた。
 馬超を犯したあの夜、馬超はそのまま俺の家に戻ってきて、俺を抱いた。
 その時に何度も同じ言葉を吹き込まれ、繰り返しセックスした。
 馬超は一度始めると、かなりしつこい。
 早いくせに、やたらと元気だ。
 触れてくる手はたどたどしいが、妙に熱心で飽きもせずに繰り返し繰り返し求められる。
 俺は一度で済ませてやってるのに(というかそれ以上は根性続かないのだが)、このタフさは何なのだろう。
 営業だから、体力があるのだろうか(まず関係ないと思うが)。
 こんなことなら、俺以外ともセックスしてきてくれないだろうかと思った。体がもたない。
「趙雲と、してくれば」
 前はやってたんだから、今更構うまい。二人の肉欲が目減りすれば、俺も健やかな毎日を送れるだろう。
 思いつきの提案に、馬超は心底嫌そうな顔をした。
「……そんな訳の分からんことを言うと、手加減してやらんぞ」
 してくれたことなどないくせに、馬超はそう言って俺を脅した。
「だってそしたら、俺が趙雲としたって構わなくなるだろ?」
 俺はあっけらかんと言い放ち、馬超はぽかんと口を開け、次いで烈火の如く怒り狂った。
「……駄目だ駄目だ、許さんぞ、!!」
 駄目っつったって、趙雲だって別れないって言うに決まっている。
 性急に繋げられて、俺は痛みに眉を顰めた。
「あっ……愛人が、他所に……男作ったら……腹、立てる、なんてのは……どう、なんだ、よ……」
 ゆっくりと揺すぶられて息が上がる。鼻の奥がつんとして、涙が滲んできた。
「愛人と言うのはな」
 気のせいか、馬超の声も切羽詰っているようだ。
「中国では、妻のことを指すんだ」
 不貞は許されんぞ、と半ば本気で嘯く馬超に、俺は心底呆れ返った。
 ここは日本だ。
 怒鳴りつけてやろうとした瞬間に本格的な挿入が始まり、俺の声は封じ込められてしまった。


  終

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