情事の後の気怠い空気の中、趙雲が身を起こした。
「帰るのか」
馬超はおざなりに声を掛ける。
「帰って欲しいならそうする」
趙雲の声は冷ややかだった。
如何だろう、と馬超は切れ長の目をきょろ、と揺らす。
自分は果たして、趙雲に帰って欲しいのか欲しくないのか。
「の代わりになれないのは分かっている」
「お前をの代わりと思ったことはないぞ」
つっけんどんだが即答して返す馬超に、趙雲は苦笑した。
強張っていた表情がようやく緩んだのを見て、馬超もまた苦笑する。
「の名が出ると、お前はやっと笑うのだな」
趙雲が一度起こした体を横たえ、馬超の裸体に寄り添う。
「それを言うなら、お前もだろう」
馬超は、少し淋しそうに目を伏せ、笑った。
「そうだな……そうかもしれない」
もう一度、と趙雲の髪を梳き、趙雲もそれに答えて口付けを施す。
柔らかな吐息が徐々に熱くなり、二人は肌を合わせて互いに果てを目指した。
馬超が再び蜀に戻った時、劉備は目に涙を浮かべて喜んだ。居合わせた張飛は面白くなさそう
だったが、諸葛亮もまた馬超の帰還を喜び、神隠しの怪しの業から馬超を連れ戻した趙雲の尽力を慰労した。
二人とも疲れきっていた。帰還を祝う宴は明晩に、ということになり、馬超も趙雲も共に帰路に着いた。
馬首を合わせ歩む二人は、やがて三つ辻に着く。左に行けば趙雲の、右に行けば馬超の屋敷に通じていた。
二人は無言で目を合わせ、止まった馬の足を進めた。辻の真ん中で、二人の馬がぶつかった。
ゆっくり歩かせていただけに、乗り手も馬もそれほど衝撃を受けることはなかったが、二人は呆然と顔を見合わせ、声を上げて笑った。
無意識に、互いで互いの行くだろう方向に馬を操っていたことを知ったからだ。
「……俺の屋敷に来ぬか。一度、馬岱には顔を見せてやらねばならぬ」
「私の屋敷には待つ者もいない。お言葉に甘えさせていただこうか」
そして二人は馬超の屋敷に連れ立って行き、その晩初めて肌を合わせたのだった。
が二人を騙し……語弊はあるが、二人にはそうとしか思えなかった……一人自分の世界に留まったと知った時、馬超の怒りは凄まじいものがあった。まるで、天を敵に回したといわんばかりに空に向かって吠え、大地に槍を突き下ろした。
傷ついていた。凄まじく、馬超は傷ついていた。
それ程は優しく、沁みこむように馬超を慈しんできた。
何も求めず、何も問わず、ただただ母親が子を愛するように馬超を愛していたことを、趙雲は他ならぬと体を繋ぐことで告げられた。
だから、裏切られ捨てられた馬超の胸の痛みも、慟哭も、何もかもが趙雲に伝わって、心臓を握り潰されるような痛みを覚えた。
やがて、虚しくなった馬超は蜀の陣へと足を向け、趙雲もまたその背を追った。
慰めの言葉を掛けることも出来ない。二人は同じ悲しみを共有していた。わざわざ言葉に直す必要がないほど、二人の傷は深く、ぴったりと添っていた。
山間に密かに張られた陣に戻り、二人の将の無事の帰還に沸き立つ蜀軍の中を、二人は覚束ない足取りで進んだ。
手にした不可思議な形状の袋……の持たせたバッグを文官に指摘され、趙雲と馬超は与えられた幕舎にて二人きりで中を調べた。自分を騙した憎い男の荷物と、半ば乱暴にぶちまけられた中身は、が二人に買い与えた着替えの全てと共に、ぎょっとするほど純度の高そうな金の板が混ざっていた。
馬超の唇がわなわなと震え、突然がばっとうずくまった。ただ声もなく全身を震わせて泣いている馬超に、趙雲も無言で涙を流した。
こんなものを恵んで欲しかったわけではない。
ただ、貴方にいてほしかっただけなのに。
穏やかに、静かに笑う男の顔が、涙で滲んでいく。
どれだけ貴方を愛したか、貴方には分からなかったのだろうか。
何も欲しがらない人だった。私達もまた、貴方にはいらないものだったのか。
胸が張り裂けそうな痛みがあった。
捨てられた、と思った。
やがて、涙も枯れ果てた馬超は、不貞腐れたように胡坐をかいた。肩が落ち、いつもの覇気はまるでなく、ただ俯いてぽそり、と呟いた。
は、最後に、好きだ、と言っていた。
如何して、その言葉の後は途切れて、趙雲の耳には聞こえなかった。
けれど胸には響いていた。
如何して、答えてやれなかったろう。俺もお前が愛しいのだと、伝えてやれなかったろう。
二人でこうして戻ってきて、今更気がついた。こんなにも慈しんでくれたは、今、たった一人なのだと。
「……もう一度……」
その言葉は意外にも趙雲の口から漏れた。そして馬超に否定される。
はきっと来ない、来てはくれないから、俺達も行ってはならない。
行けない理由もある。もしも行けたとして、そしてを連れて帰ってくるとして、その間に魏なり呉なりが攻め込んできたら如何する。五虎将軍を欠けさせたままで蜀が勝てるとは到底思えなかった。諸葛亮も許すまい。
も、きっと。
胸の痛みが喉元に駆け上り、嗚咽となって溢れた。
冷静に考え、決断を下せる自分が憎くて仕方がなかった。自軍と愛しい人を天秤に掛け、当然のように選択できる理性が疎ましかった。
せめて、は泣いていないように。胸の痛みが、彼を苛まないように。
祈ることしか出来ない。それが自分に対してのおざなりな甘やかしだとしても、他にできることはなかった。
そんな醜い足掻きも、けれど優しい人だったから、やはり穏やかに微笑んで、きっと許してくれるのだろう。
彼の眼差しを思い浮かべると、少しだけ胸の痛みが和らぐ気がした。
「俺は、が好きだ」
馬超が再び呟いた。
「お前もだろう?」
ぎこちなく笑みを浮かべて、趙雲を見上げる馬超に応え、趙雲も苦く笑って見せた。
果てまで登り詰め、二人は再び牀に身を沈めた。
荒い息が静まってくると、馬超の指が趙雲の髪を一房掬い、絡めて弄ぶ。
「は、如何しているだろう」
誰に言うとでもなく呟く馬超に、趙雲は小さく笑った。
「案外、美しい女性と酒でも酌み交わしているかもしれない」
冗談のつもりで言った趙雲の言葉に、馬超は本気で腹を立てたらしく口をへの字に曲げた。
「駄目だ、あいつは俺達のことを想って、牀で一人泣いていなくては駄目だ」
あまりにもわがままな言い草に趙雲が呆れていると、馬超は拗ねたように牀に突っ伏した。
「……俺の胸が痛い内は、あいつも胸を痛めていなくては駄目だ。駄目なんだ」
趙雲は半身を起こし、馬超の髪を梳く。
「……そうだな」
「そうだろう」
趙雲の胸もまた、の面影を宿して今も痛みを訴えている。
「では、あの人はずっと痛いままでいなければならないのか」
馬超は顔を伏せたまま、当たり前のようにそうだ、と呟いた。
終