「大丈夫だった?」
 朝の挨拶をすっ飛ばしての問い掛けに、ピンと来るものがあった。
「……もしかして、陽子さんが呼んだんですか?」
 問い掛けに問い掛けで返す俺に、陽子さんは一瞬、無防備な素の顔を見せた。
 当てが外れたのかと詫びを言おうとしたが、何事か思い出すように考え込む陽子さんの姿に言葉を飲み込む。
「私……ではないけれど、課長……かも、しれないわ」
 何でも、俺が青い顔をしてよろよろ帰って行くのがあんまり心許なくて、ちょうどフロアに戻ってきた諸葛亮課長に相談を持ち掛けたらしい。
 子供ではないのだから一人で何とかするだろう、等と流すこともなく、諸葛亮課長は常の薄い笑みを浮かべて委細自分に任せるよう言い残し、陽子さんを帰宅させたのだそうだった。
 諸葛亮課長は、その『委細』とやらを趙雲と馬超に丸投げしたのだろう。思い込みと言われても、そうに違いないと確信に足るものがあった。
 何処まで知っていて、何を知らないで居てくれるんだろう。否、あの人に知らないことなんかないんじゃないだろうか。
 心底ぞっとして、何だか薄ら寒いものを感じて背後を振り返ってしまう。
 そこに、諸葛亮課長が立っていそうな気がしたのだ。
 勿論そんなことはない。
 何かあったの、と不安げに訊ねてくる陽子さんに苦笑いを向けて、俺は休日含む二泊三日の間に起きた出来事を、どう説明したものだかと頭を掻いた。

 寝込んだ後遺症で体の節々が痛んだけれど、業務に差し支えない程度には収まっていた。
 今朝まで泊まり込んでいた馬岱の手作り弁当(本当に何処まで器用なのだろうか)を持参していたので、俺は外出せずフロアで昼食を取ることにした。
 見れば、陽子さんは昼食を食べる気配もない。
 今まで昼食は外か食堂で取っていた俺は知らなかったのだが、慣れた様子にこれが陽子さんの常なのだろうと知らしめられる。
 昼食も取らずに仕事に勤しむ陽子さんの姿に、その陽子さんより先に帰ることの多い俺は酷く申し訳ないような気がしてしまって、ランチボックスの蓋を閉じた。
「あら」
 構わないのよ、と却って申し訳なさそうな陽子さんに、今更食堂に移動するのも気が引ける。そうかと言って、じゃあ遠慮なくと食べられる筈もない。
 少し悩んで、俺は陽子さんを手招いて簡易応接のソファに移動した。
「仕事の邪魔をして申し訳ないんですが、食べるの、少し手伝ってもらえると助かるんですが」
 馬岱が用意してくれた弁当は、色取り取りの具材を挟んだサンドイッチが主だった。ノーマルに耳を落とした食パンに挟んだものからベーグルサンド、バゲットやバターロールを使ったオープンサンド、ピタパンを使ったポケットサンドなど、種類も数も尋常でない。
 これに加えて、サラダやらデザートにと飾り切りを施され彩り良く並べられたフルーツを詰めたものもあって、そちらの量も半端ないのだ。
 一緒に持たされたステンレスの保温ボトルの大きさから言って、馬超(おまけで趙雲も入れてくれているかもしれないが)と一緒に食えと暗に含んでいると思うのだが、ただでさえ多忙な営業なんかを待っていたら、事務職の俺は確実に食いっぱぐれてしまう。
 小さめのスポーツバッグに目一杯詰め込まれている全部を、ローテーブルに並べる。デスクの上に出ていた分は四分の一にも満たないと分かって、陽子さんは呆れたようにペンを置いた。
「コーヒーは、たぶん口に合うと思いますよ」
 淹れ立てよりは落ちるかもしれないが、一応本職紛いの馬岱の淹れたコーヒーだ。ポットから備品の紙コップに注ぎ込むと、湯気と共に芳ばしい香りが漂う。
「ちょっと待って」
 小さく鼻を蠢かせて、陽子さんは席を立った。
 自前の白磁のカップを手にすると、こちらにと差し出してくる。
「紙コップだと、匂いがして、どうも」
 そんなものかと陽子さんのカップにコーヒーを注ぎ、なし崩しに二人でサンドイッチを頬張る。
 コーヒーとサンドイッチ、共に味が良いのは、柔らかな陽子さんの表情が証明していた。
「料理、上手なのね」
「作ったのは俺じゃないんですけどね」
「彼女?」
 問い掛けた陽子さんは、俺が答える前に素早く自身の口を押さえる。
「ごめんなさい、詮索するつもりじゃなかったの」
 詮索されるつもりもなかったのだが、俺は何となく、陽子さんが人の諸事情を耳に入れたがらないのは、自分の諸事情を明かしたくないからではないかと感じた。
 言いたくないから訊かない、だから訊かないでと牽制しているような気がしたのだ。
 それだけ、何か複雑な事情があるのかもしれない。
 ならば聞かないでおこう。
 誘い受けをするような人ではないと理解していたから、俺は陽子さんの無言の要求をむげにしようとは思わなかった。
「嫌いな奴あったら、避けてくれて構いませんからね。俺、好き嫌いないんで」
「……私もないから、気にしないで」
 どこかほっとしたような陽子さんに、俺は気が付かない振りをする。
 陽子さんにとってはその方が楽だろう。
 半ば無意識の行動に、俺は陽子さんのことが(性的な意味でなく)結構好きなんだな、と自覚した。
 その時、けたたましい足音に俺の下らない思考は中断を余儀なくされた。
 何事かと振り返ると、閉ざされて居た筈のドアが大きく跳ね返って何かにぶつかる。
 勢い良く弾かれたドアがもう一度開いて、そこに間抜けの他に言いようのない馬超の醜態を晒す。寸劇の道化役者のような大袈裟な仰け反り様に、陽子さんは驚き俺は大いに呆れてしまった。
 その馬超のエビ反りを戻してやったのは、趙雲だった。
 片手を反った背中に差し入れるようにして、ひょいと前の方に投げ遣る。
 馬超は二三歩、よろめくように進んだが、転げて見せるまでの無様には至らず、何とかバランスを取り戻した。
 顔を赤くして(羞恥からだけでなく単純に顔面強打のせいもあると思う)取り繕うように咳払いしながら顔を上げた馬超の顔が、ぎょっと歪む。
 視線の先には陽子さんが居て、陽子さんも馬超の大袈裟極まりない驚き振りに困惑しているようだった。
「何」
 フォローしようもなくつっけんどんになる俺に、馬超は不機嫌そうに眉を顰める。
「馬岱殿が、に弁当を預けたからと。早めに切り上げて来たのですが」
 代わって趙雲がフォローに回る。手の平を反す勢いで、抜け目なく陽子さんに『よろしいですか』と声を掛ける辺り、趙雲の性格の良さが出ていると思う。
「俺、聞いてないけど」
に言ったら、何で自分が人の弁当までとか文句を言うでしょう。だからですよ」
 否、それだけではないだろう。何だかんだ言って、俺との接触を増やしてやろうという馬岱の(非常に余計な)心遣いに相違ない。
 俺が黙った一瞬の隙に、趙雲はちゃっかり俺の隣に座り込み、二人掛けのソファを埋めてしまう。
 馬超は無言で俺の椅子を引いて来て、反対側に座った。
 陽子さんの横にも一人掛けのソファが置いてあるのだから、そちらに座ればいいようなものだが、陽子さんの気質を考えればこの方がいいのかもしれない。
 だいたい、馬超も意外に人見知りなのだ。
 しかし、無駄にぽっかり席が空いているのもまた落ち着かない。
 理由はどうあれ、キャスター付きのオフィスチェアよりソファの方がこの場に用意された『席』としては格が上な訳だし、それをわざわざ空けているという矛盾は容赦なく空気を白けさせる。
 困った。
 敢えて見ない振りをするのもおかしなもので、俺はどうしたものかと眉を顰める。
 いっそ俺が移るか、だけども、馬超趙雲は元より陽子さんがどう思うのか分からない。
 本気で困った。
「おや、美味しそうですね」
 俺の憂悶を察したかどうかは分からないが、絶妙のタイミングで現れたのは諸葛亮課長だった。
 馬超の顔が引き攣るのが分かる。馬超は、諸葛亮課長があまり得意ではないのだ。
 とは言え、『美味しそうですね』と言われて『でしょう?』で流せる雰囲気でもなく、俺は笑みを浮かべて敬愛する上司を賑々しいランチの席にお誘い申し上げた。
 諸葛亮課長も俺の申し出を素直にお受け下さり、奇妙な昼食会が始まってしまう。
「……そう言えば、課長がこいつらに連絡入れてくれたんでしたっけ?」
 話すこともなくお通夜のような席になりかけて、俺は堪らず口を開く。
 本当にそうだったのなら(そうとしか思えないが)どのみち礼の一つも言わねばならない。さすがに死にはしなかったとは思うが、下手をすれば脱水症状だのでしばらく入院、という羽目になっていたかもしれないのだ。
 諸葛亮課長は、口元に薄ら笑みを浮かべて頷いた。
「いいえ、私は趙雲殿に様子を見に行ってもらえるようお願いしたまでです」
 趙雲が横目で俺を睨んでいるのが目の端に止まる。余計なことを言って下さいましたね、と詰っているのがモロに伝わってきた。
 趙雲に『だけ』連絡を入れた筈なのに、わざわざ馬超を連れて二人で様子を見に行ったという事実を、諸葛亮課長は俺の言葉尻から目敏く(耳聡く?)察したのだろう。
 馬超殿も御一緒に、それは仲のよろしいことでと意味ありげに微笑みながら、諸葛亮課長はサンドイッチを頬張った。
 俺と馬超の仲に関しては、恐らく疾っくにバレているだろう。
 問題は、馬超と趙雲が親しい関係にあると課長の頭に完璧にインプットされてしまったことで、それは趙雲の感情を甚く傷付けたに違いない。
 趙雲は、馬超と親しい関係に見られるのを酷く嫌っているらしいところがあって、正直俺にもそれがどうしてなのかはよく分からない。
 分からないが、とにかく何だか嫌がっていて、なのに諸葛亮課長から『仲良し』認定されてしまって、その原因は今さっき俺が吐いた『こいつら』という複数形の表現のせいな訳だ。
 ちらりと趙雲に目を遣れば、にっこりと微笑み返してくる。
 だが、その目は笑ってない。
 おっかない。
 途端に、折角の馬岱特製サンドイッチも、砂を噛むように味気なくなった。

 病み上がり(+α)で食欲はあまりないが、食うものは食っておかないとだし、ということで鍋にすることにした。
 材料を買いこんで自宅に戻ると、居ると思い込んでいた馬岱の姿がない。
 テーブルの上にメモが残されていて、講義があるから帰ります、だいぶ良くなったとお見受けしますし、また折を見て伺います、と記してある。
 そう言えば大学生だった。
 けれど、たぶんそれは名目だけで、実際は俺に遠慮してのことだと思われた。友達とは言い難い立場でいつまでも居座って居られる程、厚顔無恥ではないということだろう。
 細やかな気遣いが出来る馬岱らしいな、と思う。
 エアコンを付けていつもより少し高めに部屋を暖め、台所に向かった。
 念の為、体調を悪化させないようにという用心だったが、エコの観点から言えば少々問題かもしれない。
 だし汁を作り、鍋にぶち込む材料を切り刻む。
 セッティングが終わる頃、こちらは予想に違わず、厚顔無恥を地で行く二人が帰ってきた。
「今夜は、鍋か」
 嬉しげに、今度はしっかり俺の定位置の隣を確保した馬超の後から、趙雲が当たり前の顔で上がり込んで来る。
 材料が無駄にならなかったのは大変結構だが、こうも堂々と我が物顔に振舞われると何だか無性に腹立たしい。
 それでも、馬超が放り出した鞄やら上着やらをこまめに片付けてしまうのは、実は綺麗好きな俺の恨めしい性分だ。
。放り出しておけばいいんです、癖になりますよ」
 趙雲が嫌みを口にすると、馬超が眉を吊り上げて噛み付く。
自身がやりたくてやっていることだ。赤の他人のお前が、俺達のことに口を出すな」
「お前とは赤の他人に違いないが、私とが他人の関係であろう筈がない。が私に何と言ったか、お前には想像もつくまい」
「な……! ば、は、俺を好きだと言ったのだぞ! お前に何を言ったかは知らんが、これが事実だ! いい加減、お前は現実を見ろ!!」
「……好きだ、などと。そんなおざなりな、幅広い好意で、よくもそれ程浮かれられるものだ。恥ずかしくはないのか」
 コンロを挟んでぎゃんぎゃん言い争いを始めた二人を他所に、俺は黙々と食事の支度に勤しむ。
 箸から取り皿、箸休めのアボカドのペースト、漬物の盛り合わせまで揃えた辺りで、ようやく馬超と趙雲の諍いも途切れた。
! 黙ってないで、何か言ってやれ!」
 馬超が喚き、趙雲はむっとした顔で俺を見上げる。
 どちらも、俺が味方になってくれるに違いないと確信した目をしていた。
「やだよ。俺、お前らがそうやってイチャイチャしてんの見てるの、好きだし」
 二人同時にぱかっと口が開く。
 俺は平静を装いながら、込み上げる笑みにひしゃげようとする口を必死に引き結ぶ。
「「!!」」
 綺麗にハモった二人の声に、俺は遂に堪え切れず、盛大に吹き出して笑い転げた。

  終

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