いつも通り出勤する。
 寝不足と疲労でだるくて仕方なかったが、仕事で甘えてもいられないのでドリンク剤を飲んで自分を誤魔化す。
「あれ、さん。珍しいッスねー」
 Jが目敏くソレを見咎める。俺は普段からこういうものは極力飲まないようにしていたから、珍しいのだろう。
 空き瓶をゴミ箱に捨てると、食道の奥の方から焼け爛れた甘いげっぷが込み上げてくる。
「あー、でもやっぱ慣れないわ、こういうの」
 この後味の悪さが苦手なのだ。
 口元を押さえてJと無駄話をしていると、普段から俺に突っかかってくる売り上げNo.2の奴が睨みつけているのに気がついた。
 肩をすくめ、ローカールームを出る。
 事情がわからないJも、不思議そうに俺を見ながら追っかけてきた。
 開店前の店に入ると、カウンターの中ではバーテンダーが既にグラスの点検を始めていた。
 今朝あれだけ念入りに磨いていたのに、熱心なことだ。
 俺がスツールに座ってそれを眺めていると、バーテンダーは冷たいウーロン茶を淹れてくれた。
、ここ、辞めるんだって?」
 隣に腰掛けていたJが、引っくり返りそうな声を上げた。
「え、さん、辞めちゃうんですか!? ど、どうして!」
 どうしてもくそも、ホモ(本当はバイなのだが)なんてばらされた日には、ホストなんて続けていけるはずもない。せめてショバ変えくらいはしないと、話にもならないだろう。
「黙っててごめんな。本決まりになるまではって思ってて。あ、でも、じゃあオーナー了承してくれたんだ」
 考えておくと言ったきり、オーナーはうんともすんとも言ってこないでいた。俺も催促するのははばかられて、黙って沙汰を待っていたのだ。
「了承はしてないみたいだ。困った困ったってぼやいてたからな。別に、次の店が決まったとかじゃないんだろ。辞めるなとは言わないから、もうしばらく居てやってくれないか」
 このバーテンダーには世話になっている。この店で勤め始めてずっとここに居るし、俺としても立ち去り難くはある。
「でも、やっぱな」
 ホモだということを面白がる客が居ないではない。
 けれど、やはり何となくではあったが居辛かった。
「あんた、辞めるんだ」
 先程ガン飛ばしてきたNo.2が、面白そうに顔を突っ込んできた。
「へぇ。何時辞めるの。今日? 明日?」
 バーテンダーが注意しても、No.2は素知らぬ顔だ。ぷいっと顔を逸らし、お気に入りの定位置に行ってしまった。
「ああいうのが居るからさ」
 バーテンダーは苦い顔をして笑った。
「こういう店で、俺みたいなバーテンが居るのって珍しいだろ。俺としても、ここ結構気に入ってるしさ。できるだけ、居心地よくしたいわけだよ」
 それに俺が貢献できるのは嬉しいが、だがどうしても立ち去らなければという強迫観念みたいなものが俺にはあった。

 店が開き、お姫様達がちらほらと入店してきた。
 この時間は割引等のサービスもあるせいか、初めてホストを買うお姫様達も多い。俺はどちらかというと常連客に人気がある方なので、ヘルプに専念していた。
 No.2の席にヘルプで呼ばれ、少し嫌な予感を覚えたがすぐに出向いた。万事売り上げ順が物を言う決まりである。No.3から6をちょろちょろしている俺に拒否権はない。
 口車に乗せられて、割引対象外のワインを奮発したお姫様達に愛想を振りまき、いつもの調子でコルクを抜く。
 隣に居たお姫様の目が輝いた。
「スゴイですね」
 敬語だ。ずいぶん擦れてない子が来ちゃったな、と少し可哀想になった。グループ三人で初めて来たそうで、一度だけ来てみたかったのだという話だった。
「一度なんて言わず、また来てよ。サービスするから、ね」
 No.2が甘ったるい声で囁くと、お姫様達は恥ずかしそうに顔を見合わせて笑った。
「おい、お前もなんかやれよ」
 タメ口以上の横柄な口の聞き方に、おとなしそうなお姫様達が少し引いたのがわかった。それを宥めるように俺は笑い、手品でも、とカードを取りに行った。
 簡単なトランプ手品だが、仕草がスマートなら割とサマになる。
「え、すごーい、何でそうなるの!?」
「種明かしは後でしてあげる。次はね、じゃあカードを選んでもらおうかな」
 遊び慣れないお姫様達も緊張が解れたのか、笑みが自然になってきた。No.2は面白くもなさそうに俺を睨んでいる。
 参ったな、とこっそり苦笑が漏れた。
「……じゃあ、ちょっと新しいグラス取ってくるから、ごめんね」
 俺が中座しようと席を立つと、No.2が突然怒鳴った。
「どこ行く気だよ、勝手してんじゃねぇよテメェ!」
 お姫様達が驚いて体をすくめたのがわかった。まずい。
「グラス、取ってくるだけですよ。すぐ戻りますから」
「勝手すんなって言ってんだろ、ふざけんなこのホモ野郎!」
 我ながら不思議だ。
 怒りはまったく沸かなかった。哀れみみたいなぐずついた感情があるだけだった。
「何、笑ってんだよ」
 どうにかしてこの状況を収めなければ、とお姫様達に目を向ける。
 と、突然目の上に何かが破裂するような衝撃が走った。
 悲鳴が迸る。
 No.2が、俺にワイングラスを投げつけたのだ。薄いグラスは呆気ないほど簡単に割れ、俺の額から熱くてぬるっとしたものが溢れ出すのがわかった。
 周りのホスト達が慌ててNo.2を取り押さえる。No.2は怒号を撒き散らし、手に負えない。暴れてテーブルをひっくり返すと、他の席からも悲鳴が上がった。
「お止めなさい!」
 凛とした声が場の空気を引き裂いた。
 女王然とした命令することに慣れきった声が、辺りを一気に支配していた。
「お下がりなさい、無礼な。貴方のような方、同じ空気を吸うのも汚らわしいですわ」
 No.2は怒鳴り返そうと口を大きく開いたが、そのひとの鋭い視線に射抜かれて身動ぎもできなくなってしまったかのようだった。
 五人がかりでNo.2が退場させられると、辺りがざわざわと落ち着かない空気になった。
「皆様」
 そのひとは、先程の厳しい態度が嘘のように、華やかな笑みを浮かべて周囲を見回した。
「ご気分直しに、私からのささやかな心遣いを受け取っていただきたいと思いますわ。……そこの貴方、皆様にシャンパンをご用意して」
 Jがびっくりして自分の顔を指差す。
「ええ、貴方ですわ。人数分、勿論貴方方の分も用意して構いませんことよ」
「あ、あのぅ、シャンパンの、何を……」
 Jがおどおどして伺いを立てる。
 そのひとはおかしそうにくすりと笑った。それだけで、まるで空気が変わったようになる。
「ドンペリでもヴーヴ・クリコでも、好きなのをお入れなさい」
 その言葉にJは脱兎の如く走り出す。
 この景気に、気前のいい客もいたものだ。
 俺が礼を言う代わりに頭を下げると、そのひとは俺の手を取り空いている席に腰掛けさせた。
「傷はそれほど深くないようですけれど。ガラスの破片が残っていては、危ないですわね」
 薄暗い照明を頼りに、じっと傷口を覗き込んでいるようだ。目の上の傷だから俺には見えないし、このひとの手が俺の顔を包んでしまっているから身動きも取れない。鼻先にとてもいい香りが漂った。香水らしい。甘い香りだった。
「痛みもそれほどないですし、洗って絆創膏でも張っておけば大丈夫でしょう」
「絆創膏?」
 くすくすと笑う。色っぽい人だった。
「では、私が手当てして差し上げるわ」
 それはさすがに申し訳ない。辞退しようとすると、そのひとの手は柔らかく俺を拘束した。
「今、控え室に行ったら先程の無礼者と鉢合わせてしまうでしょう? 救急箱をお持ちなさい。私、お医者さんごっこをさせていただくわ」
 それならいいでしょう、と悩ましく見上げる瞳が怪しく潤んでいる。
 俺は困惑して、さっきのテーブルに居たお姫様達を心配する振りをして視線を逸らした。

 No.1になれない苛立ちや、マイペースな俺に対する苛立ち、周囲の者にやつ当たる気質から認められず陰口を叩かれる孤独感に苛まれ、溜まっていたストレスが爆発したらしい。
 考えれば考えるほどいい迷惑なのだが、そういうプライドだけは一人前の奴は吐いて捨てるほどいる。
 あのまま出て行ってしまったらしいから、奴はもう店には戻らないだろう。
 とは言え、居心地は更に悪くなった。努力して取り戻せるといった職場でないだけに、俺の退職の決意は固くなった。
 修羅場を治めてくれたあのひとの名前は、聞けず仕舞いだった。
 今度来た時に教えて差し上げますわ、と耳元で囁かれたが、俺はあの美しいひとに不思議な恐怖を抱いている自分に気がついていた。
 このひとに関わってはいけない。
 直感だったが、外れる気がしない。
 二つ理由が増えて、俺はオーナーに頼んで今日付けで退職をさせてもらうことにした。
 ずいぶん引き止めてくれたけれど、気持ちだけ有難く受け取った。

 朝日が道を照らしている中を、俺はのろのろと歩いていた。
 プライベート用の携帯が鳴って、見たことのない番号に俺は首を傾げた。ワン切りかと思ったが、よく見たらちゃんと局番がついている番号だったし、コールは続いている。
 思い切って出ると、劉備さんだった。コケそうになった。
「朝早くからすまない。いつ掛けていいかわからなかったもので……昨日の話の続きなんだが、今日、空いている時間はないだろうか。良ければ食事でも一緒に……」
 ナンパみたいだなぁ、と俺はとぼけたことを考えながら、酒を呑まないならという前提で約束した。
 今日が駄目なら明日、明日が駄目なら明後日、いつでもいいのだがと言われては断り切れなかったのだ。
 陥落させられそうな予感に、俺はこれも外しそうにないと溜息を吐きながら携帯を切った。


  終

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