熱に浮かされたような張郃が、俺に口付けを求めてくる。
嫌悪感から顔を逸らしたが、引き戻されてしまった。
自分のものを咥えたから嫌だ、などとは言わない。馬超や趙雲とは、平気で口付けられる。口の中に精液が残っていたとて気にしたこともない。
二人共に平気だったもんだから、俺はそういうことは気にしない性質なのだと思って居たのだが、してみるとあの二人(曹丕を含めると三人)は別格なんだな、と改めて感じた。
醒めた目で張郃を見下している。
けれど、張郃は気にした様子もなく、逆に挑発的に俺を見詰め返してきた。
ほんの数センチの距離で絡む視線は、きつ過ぎる酒のように鼻に付く。
唇を離した張郃が、耳元でひっそりと笑った。
「いけませんね、本当に止められなくなってきました……、申し訳ありませんが、もう少しお付き合い下さいね」
申し訳ないもクソも、もう最後までやる気になっているのは猛ったものの感触で先刻承知だ。無駄口叩く暇があるなら、披露宴が終わる前にさっさと済ましたらいい。
披露宴が終われば、このトイレもまた社交場の一つと化すだろう。
和やかに挨拶しあういい年した親父達に、トイレの薄い壁越しに囲まれる。男同士で強姦云々などという話自体が馬鹿げているのに、そんな薄ら寒い状況でケツに突っ込まれている自分など考えるだけで萎える。
膝を肩に抱え上げられ、秘部が晒される。
指で慣らされてはいるが、ローションなしでいきなり突っ込まれる痛みを想像するとげんなりした。
コンコン、と硬質な音が響いた。
水入りもいいところだった。
張郃はあからさまにむっとして、俺の足を下ろす。
俺はむしろ、ノックされたとは言え馬鹿正直にドアを開ける張郃に呆れた。
細くドアを開け、ノックした誰かとぼそぼそと話し込んでいる。
ドアを閉め、鍵を掛け直した張郃がくるりとこちらに向き直った。
「何と言うことでしょう!」
その顔からは、既に退廃的な色艶の影は消え失せていた。
むぅ、と唇を尖らせた顔は、妙に芝居掛かっている。いつもの(会ったのは今日が初めてだが)張郃だ。
「折角、人がその気になって盛り上がった、正にその瞬間を狙って邪魔が入るとは。ああ、私は不幸のどん底で打ちひしがれていますよ、!」
勝手にひしがれているといい。
張郃は俺の足元に膝を着くと、項垂れた俺のものに恭しくキスをして、足首に絡んだままになっていたビキニを穿き直させる。
名残惜しげに俺のものを押し込むと、また靴を脱がせてスラックスを取り出した。
「……なぁ」
「はい?」
後ろ手の手錠をがちゃがちゃと鳴らす。
外してくれれば自分で穿く、という俺の主張は、張郃に即座に却下された。
「嫌です、私が穿かせます」
着せ替え人形のような扱いを受けつつ、しかしこんな状態ではままならないので仕方なしに張郃のしたいようにやらせた。
ファスナーを引き上げる瞬間、恋人に別れを告げるかのようにビキニ越しに口付けられる。
そんなにコレが好きか。
呆れて冷たい視線を送っていると、張郃は悪戯っぽく笑った。
「だって、もうしばらくは会えないでしょう?」
二度と会えるか。会わすつもりも毛頭ない。
俺の内心の悪口を嗅ぎ取ってか、指先で突付かれた。変に刺激されると勃ってしまいそうで、眉を寄せる。
「は、敏感ですね。まるで思春期の少年のようです」
阿呆な感想は聞き流し、再度手錠を鳴らす。
いい加減に外せと焦れた。
張郃は、駄々っ子をあやす母親のようにハイハイとおざなりに頷くと、上着の内ポケットから鍵を取り出して手錠を外した。
拘束が解け、安堵する。手首を見ると、擦れた為か赤い痣が輪のように残っていた。指で撫で回すと、微かな痛みを覚える。抵抗しないようにしたつもりだが、力が入ってしまったらしい。
「では、戻りましょうか」
一人で戻れ。
じと目で睨め付けると、張郃は軽く肩を竦めて出て行った。
すぐに鍵を掛け、一人きりの空間を確保する。ようやく文字通りの個室に戻ったと思うと、体がいきなり重たくなった。
意識はしていなかったが、妙に緊張していたらしい。
ドアの外で何か話し声がしていたが、顔を出す気にもなれず、便座に腰を下ろして項垂れた。
酷く憂鬱で、しかも疲労困憊だった。
誰にも会いたくなくて、けれど一人で居るのが堪らなく嫌だった。
目を閉じると、瞼に無邪気な面影が蘇る。
深い溜息が漏れた。
早く帰ろうと思った。
ドアを開けると、まだ披露宴は終わっていないらしく、人の気配は遠かった。
洗面台の脇に、張遼が一人で佇んでいる。
先程ノックしたのは、恐らく張遼なのだろう。予想の範囲内ではあった。
こういう、俺が人に見られたら嫌だなと思う時には、だいたい張遼が居る。魏のフロア然り、曹丕に殴られていた時然り、甄姫を傷つけてしまった時然り。
そういう役割なのだろうと思うが、同情してご苦労様ですなどと言ってやるつもりにはなれない。
言葉を交わすこともなく、無言で手を洗う。念入りに、爪の先まで洗うと、今度は口に水を含んでうがいをした。下品な、ガラガラと言う音がトイレに響いた。
ぺっと吐き出すと、洗面台の藤籠に綺麗に並べられたタオルを取る。口元を拭って、手を拭くと、使用済みのタオルが積み上がった籠の中に投げ込んだ。
「……何処か傷めたりはなさらなかったか」
張遼の物言いに、何をしていたか知っているのだと実感する。
我が事ながら止める間もなく、嫌悪の表情を露にした。
別に、張遼が悪い訳ではない。張遼が俺に圧し掛かった訳でも、張郃をそそのかした訳でもない。こんな風に俺に八つ当たりをされるいわれはないはずだ。
しかし、張遼の態度は何と言うか、人の気持ちをささくれ立たせる。普通の奴なら、もっと胡散臭げに見るとか哀れむとかするだろうに、そういうものが一切ない。
淡々としていると言えば聞こえはいいが、淡々と言うよりは無感動に思えて仕方ないのだ。この世のありとあらゆる物事で、張遼を驚かせることなどあるのだろうかと疑ってしまうようなところが、張遼にはあった。
ふと思い出す。
だから、さっきはあんなに驚いたのだ。曹操に、武道の通だと言われた時、恥ずかしそうに赤面した張遼にとてつもない違和感を感じた。
無感動だと決め付けていたのはそれこそ俺の勝手で、いわゆる見た目で損をするタイプなのかもしれない。
「……すいません」
ばつが悪くなって詫びると、張遼は少し驚いたように目を剥いた。小さく、いや、と呟くと、後は口を閉ざす。
会話が途切れ、俺は間を持て余して考えなしに口を開いた。
「今日はもう、家に帰りたいんですけど、俺の服ってどうなってますかね」
甄姫の部屋に置いてあるのだと言うと、張遼はこくりと頷いた。
「鍵は預かっている、私が取ってこよう。貴公は、一度会場に戻られよ。そこで私が戻るまで、待って居られるといい」
そうは言っても、着替えなくてはならないし、会場に戻るのは何だかはばかられた。もう披露宴も終わった頃だろうし、会場から出る客と逆行することになる。新郎新婦の見送りもあろうから、出入り口の辺りは相当混雑するはずだ。
俺が躊躇う素振りを見せると、張遼も数瞬考え、結局一緒に部屋に行くことになった。
部屋の鍵を開ける時、張遼は妙に辺りを警戒していた。
トイレから出る時も、まるで牢から脱出するような按配できょろきょろしていた。
何かあるのかとぼんやり考えていると、張遼はドアを開け素早く俺を中に押し込む。
「荷物だけお持ちになるといい」
「え、でも」
着替えるつもりで来たのだが、張遼が妙に焦っていて言い出せなくなる。
紙袋を何処からか引っ張り出してくると、俺が手に持っていた着替えを突っ込んでしまった。
張遼の前で下着まで替えるのも何だし、どのみちタキシードもクリーニングに出して返さなくてはならない。まぁいいかとのんびりしている俺の手を、張遼は気忙しく引っ張った。
ドアを出て、エレベーターホールに向かう。
ちょうど下からエレベーターが上がってきて、ドアが開いた。
張遼の足が止まる。
中に立っていたのは、隻眼の男だった。張遼を見て、何か声を掛けようと口を開く。
その顔が、壁に遮られた。
男が隠れたのではなく、俺が引っ張られて視界がずれたのだ。
「こちらへ」
突然俺を引っ張った張遼は、ホールの手前で右に折れた。
階段が上下に延々と続いている。
俺の手を引いたまま階段を駆け下りる張遼に、俺はもつれかける足を必死に制さなければならなかった。
頭上から、先程の男が何か叫んでいる声が聞こえたが、反響と足音に紛れてしまってよく聞き取れない。
喋ると舌を噛みそうで、俺は張遼に問い掛けることも出来なかった。
地下駐車場まで無言で駆け続け、息が上がる。
静まり返った駐車場を、張遼は柱の影から伺った。
どんな逃避行だ。
悪ふざけにも程があると、俺は張遼を振り仰ぐ。しかし、張遼は酷く真面目な顔をして、本当にぴりぴりとしていた。
「張遼さん」
事情を問おうとした俺を、張遼は『しっ』と短く制した。
足音が響く。
張遼を探しているらしい、彼の名を呼んでいる。聞いた事のない声だったが、張遼の知り合いではないのだろうか。
呼んでますけど、と言い掛けた俺の口を、張遼の手が塞ぐ。むが、とおかしな声が漏れた。
俺の声に気が付いたのか、足音はこちらに駆け寄ってくる。
張遼は俺の体を自分に押し付け、表情も険しく気配を殺し、柱の影に身を潜める。緊張が走った。
足音はしばらくそこら辺をうろうろとしていたが、しばらくして遠ざかっていった。
本当に、何なのだ。
張遼は足音が聞こえなくなるまで柱の影に身を潜めていたが、頃や良しと取ったか俺の手を引き、静かに車の間を駆け抜ける。
駐車場出口から徒歩で出るという暴挙を成し遂げると、やはり辺りをきょろきょろと見回し、人気のない建物の裏手へと滑り込んだ。
いい加減、本当に何なのか説明して欲しい。
俺が張遼の手を引っ張ると、張遼は初めて俺に気が付いたように目を丸くした。
用心深く辺りを見回し、建物の影の更に奥へと足を進める。
「失礼した」
もう大丈夫だと踏んだのか、張遼は声は潜めつつも小さく頭を下げた。
「曹丕殿から、貴公を殿に渡すなと命じられていた故」
「はぁ?」
殿、つまり曹操のことだ。
披露宴会場であれば、曹操の周りには人垣が出来るし、人目もあるから無理に拉致できる状況でもない。俺は変に人見知りだから、知らない人間に連れ出される心配もないと思ったのだが、一旦会場を出てしまうとどうなるか分からない。
それで、おかしな逃避行と相成ったそうだ。
「……拉致って、そんな阿呆な」
「貴公は、殿を御存知ないからそのようなことを言われるのだ」
張遼は一度言葉を切り、影から首を伸ばすようにして辺りを伺う。
「私の思考は殿に見切られている。ここからは、貴公一人で行かれるといい」
建物の間の細い道を抜ければ、駅の前に出るそうだ。電車なりタクシーなりで帰るといい、と手の中に万札突っ込まれた。
「ご無事で」
言うなり、張遼は駆け戻っていった。
一人残された俺は、何が何だか分からず呆然とするより他なかった。
しばらくその場に留まり、張遼が行けと指した薄暗い道を見ていた。
何だか物騒な予感がして、俺は張遼が戻った道を用心しいしい戻ることにした。
一応きょろきょろと辺りを見回してはみるものの、そんなことで危ないかどうか判断など付かない。何せ、TEAM魏の面子の顔などほとんど知らないのだ。
すぐに嫌になって、止めてしまった。ホテルの方へてろてろと歩いていると、ちょうど良く空車が通りかかったので、それに乗り込んで帰ってきた。
その後も、別に何もなかった。何だか馬鹿馬鹿しくなって、腹が立ってきた。今日一日、徹頭徹尾でTEAM魏に振り回されたような気がする。
玄関のドア前まで来ると、折り良くドアが開いて馬超が顔を出した。
俺の格好を見て、驚いている。間抜けだと断じるような顔をしていた。
出かけた時はジーンズだったのだから、まぁ当たり前といったら当たり前の反応かもしれない。
けれど、俺にはそれが最上の犠牲が自ら罠にはまりに来たようにしか思えなかった。
俺は馬超の肩を押して玄関に入ると、そのまま馬超の唇を貪った。
酷く乱雑で、猛り狂う感情があって止まらなかった。
馬超が困っている。困るだろう。困ればいい。
俺だって、困ったのだから。
一度馬超から離れて玄関の鍵を掛けると、馬超のジーンズのファスナーを下ろし、馬超のものを引き摺り出した。項垂れているそれに、軽い口付けを何度となく落とす。
「ちょ、ちょっと待て。何、何がどうした」
「何も。ただ、俺がお前の××××舐めたいってだけ」
下劣な言葉に、馬超の顔が見る見る赤くなる。
「嫌か?」
「い、嫌ではないが……その」
するならちゃんとしたいという馬超の主張は、もっともだ。
けど、それはとりあえずシャワーを浴びてからで、その前に俺が馬超のものをイビリ倒してからだ。
俺の傲慢極まりない宣言にも関わらず、馬超は不可解ながらも従うことにしたようだ。おずおずと足を広げてみせる。
口の中に咥えて甘噛みすると、馬超は艶やかに啼いた。興が乗る。
馬超が切れ切れに漏らす熱い溜息と嬌声を聞きながら、俺は今日の記憶をリセットするべく熱心に舌を閃かせた。
終