昼の間ほとんど居なかった償いではないが、俺が残業したいと申し出ると、諸葛亮課長はさらりと却下した。
 貴方は十二分に働いた、とは、随分意味深長な言葉だと思う。
 ともかく、年下ながら上役の諸葛亮課長から駄目と言われれば、そこを何とかと粘るようなことでもない。
 重ねて、直に繁忙日になるのだから、暇な期間は帰って体を休めなさいと言われてしまった。
 社会人の心得という奴だろうか、道理には違いなかったので俺は頭を下げて帰宅の途に付いた。
 曹丕から呼び出しがあったのは、そんな時だった。

 駅のホームから引き返すのも馬鹿馬鹿しかったが、何となく真っ直ぐ家に帰る気にもなれず、俺は曹丕の誘い出しに乗った。
 もう手出しはされないと分かっていても、さすがに曹丕で二人でいるところを見られてはまずいかもしれなかった。第二のスキャンダル(内容は色々と考えられるが)に発展されても困る。
 場所に困って、馬岱のバイトしている喫茶店(コーヒー店?)を覗く。
 幸いにも『爺様』は今日もお留守で、馬岱に少し訳ありなのだと打ち明けると、何も訊かずに奥の個室を用意してくれた。
 カウンターでコーヒーを受け取ると、俺は自分で盆に載せて運ぶ。
 この手の作業は実に久し振りで、しかしすぐに手に馴染む盆の感触が、長年つちかってきたスキルの高さを物語っていた。
 自分でそんな風に言ってしまうのが何だが、俺はこういう職の方が合っているのかも知れない。
 戻ってきた俺に、曹丕は目付きの悪い視線を惜しむことなく浴びせかけてくる。
「何だ、ホストに逆戻りするつもりか」
 一々嫌味たらしい。
 コーヒーを差し出すと、俺も対面に腰掛け、しばらく薫り高いコーヒーの芳香を楽しんだ。
 時価のコーヒーだと思うと、尚更貴重に思えてくる。
 曹丕は、さも当たり前のようにコーヒーを啜っていた。
 情緒のない奴だ。
「高いんだぞ、もっと味わったらどうだ」
「コーヒーを楽しむ時に、値段など気にするな」
 言い返されてしまい、その通りだから文句も言えない。
 黙ったままコーヒーを啜りあう。
「……用は?」
「飲み終わってからにしろ」
 よくよく見れば、曹丕の方がよっぽどコーヒーを楽しんでいる。
 熱い内に飲み干すことが最低限のマナーで、冷めたコーヒーなど飲む価値もないと辛辣だ。
 曹丕に言われるままにコーヒーを飲み干し、カップを置く。
 こちらからは切り出しにくく、曹丕がカップを置くのをおとなしく待つことにした。
 ところが、曹丕がカップを置く気配が更々ない。
 もう飲み干しただろう空のカップを指に引っ掛けたまま、その底をじっと見詰めているようだった。
 壁際に置かれた古い柱時計が、律儀に音を立て続けている。
 眠気を誘う音は、まるで遠い過去の記憶をスプーンでかき回しているかのような重みがあった。
「すまなかった」
 小さな声だった。
 時計の刻む音と音のちょうど真ん中に聞こえた。
 言い出すタイミングを計っていたかのような、絶妙な間だった。
 あまりの絶妙さに、俺は曹丕の言葉を反芻することもなく、ぼぅっと曹丕を見詰めていた。
 苦いものを噛み砕くような曹丕の表情が、ほんのわずかだけ緩んだ。
 目が覚めたような心持ちになって、俺はテーブルに手を付いた。
 置かれていたカップが、ソーサーの上で小さく跳ねる。
「え、何でお前が謝る?」
 曹丕が詫びを入れるなど、青天の霹靂と言っていい。しかし、その理由が分からないではただただ驚かされるに過ぎない。
 何のことやら心当たりがない俺に、曹丕は疲れたようにカップを置くと、背もたれにもたれた。
「そうだな、やはり貴様はそういう男だ」
 罵倒されているようだが、心当たりがないものはない。
 眉を寄せた俺に、曹丕は苛立ったように髪を掻き上げた。
「……今回の、一連の騒動。お前は既に我ら魏の仕組んだことと知っているのではなかったのか」
「一連の騒動……って、あぁ、まぁ、そうだけど」
 それが曹丕とどう繋がるのか分からない。
 イマイチ不明瞭な俺に、曹丕は深い溜息を吐いた。
「お前が常人であったなら、まず私を責めるものだと思うがな。TEAM魏の上席にありながら、お前に忠告もせず放置していたと」
「え、だってお前関係ないだろ」
 即答すると、曹丕は悩ましく眉を引き攣らせた。
 馬鹿な教え子を前に悶絶する教師と言ったところだろうか。
「私は、魏の、上席に在ると言っているだろう」
「それは知ってるけど……だから、TEAM魏ったってただでさえでかいんだから、お前が知らなくて手出しできなかったとしても仕方ないだろ」
「知っていたとしたら、どうする」
 畳み掛けるように鋭く言葉をぶつけてくる曹丕を、俺は上目遣いに見詰めた。
「知ってたって、手出しできなかったんなら、やっぱりしょうがないだろ?」
 曹丕は呆れたように絶句して、空のカップを持ち上げた。
「……お代わり?」
「……いらん」
 やや未練がましげにカップの底を見ていた曹丕は、腹立たしそうにカップをソーサーへ戻した。
 視線を逸らし、曹丕にしては珍しく荒れた表情を露にする。
 謝ることなど早々にしないだろう曹丕が、俺に何もしてやれなかったといって申し訳ない気持ちに駆られていたとしたら、こちらの方こそ申し訳ない。
「悪いな、却って気ぃ遣わせたみたいで」
「気など遣っておらん」
 相変わらずのふてぶてしい態度に、けれど俺の顔は緩んでいた。
 俺の顔を見た曹丕は、薄気味悪そうに肩をすくめた。
「お前の詫びなど、口先だけだろう。どうせ同じなら、別のことに使うがいい」
 曹丕の言わんとするところに気が付いて、俺は口をへの字に曲げた。
「新婚の旦那にちょっかい出す程、困ってやしねぇよ」
 だが、曹丕は俺の言い分に耳を貸すこともなく、あっという間の早業で俺の口を封じてしまった。
 舌を差し込まれてもがくと、曹丕の指が俺の足の間を探る。
 脅迫と変わらない仕草に、俺は渋々と曹丕の舌を受け入れた。

 曹丕を先に返し、カウンターに腰掛ける。
 突っ伏した俺に、同情でもしたのか馬岱が新しいコーヒーを差し出してくれた。
「お疲れのご様子ですね」
 見ていたような口振りに目を剥くが、馬岱は常の温厚な笑みを浮かべているのみだ。
 個室だったし、大騒ぎしたという訳でもなかったから、馬岱が俺と曹丕のキスを見ている筈がない。
 そう思っても、何だか落ち着かなかった。
 出されたコーヒーを啜る。
 焦っていても美味いものは美味い。
 鼻から抜けるようなコーヒーの香りに、少しばかり落ち着きを取り戻した。
 先程まではまばらに座っていた客も、もう引けていた。
 この時間は混みそうなものだが、こうも人が入らないでは心配になる。
 儲かってんのかなぁと考え掛け、そう言えば伝票をもらってなかったことに気が付いた。
「幾ら?」
 気安く訊ね、胸元のポケットから財布を取り出す。
「三十万円になります」
 馬岱の静かな声が、俺の耳に弾丸を撃ち込んだような衝撃を与える。
「……何?」
「コーヒー三杯で、三十万円になります」
 ちょっと待て。
 三杯で三十万と言う金額もさりながら、三杯目のコーヒーは頼みもしないのに出されたものだ。それに金を払えと言われても、何だか承服しかねるものが在る。
「でも、何も言わずに口を付けられたのは、さんの方でしょう?」
 確かにそうなのだが、しかし納得がいかない。
 どんな希少品だか知らないが、そもそも俺にそんな金がある訳がない。
 馬岱の顔が、ふっと緩んだ。
「先刻の方と同じことをしてくれたら、奢りにしてあげます。無論、三杯とも」
「お前ね」
 呆れる。
 時価ですらなく、店員の謀略で金額が決まるコーヒー屋など潰れてしまえ。
「どうします?」
 無邪気に笑っている馬岱に、俺は憮然とした顔を隠せない。
「……何してたか、分かって言ってんのか?」
「分かってますよ?」
「見てたのかよ」
 俺が突っ込むと、馬岱は一際にっこり笑って、カウンターの中から出て俺の横に並んだ。
「いいですか?」
 馬岱の指が俺の頬に触れ、馬岱の言っていることがフェイクでも何でもないと雄弁に語る。
「従兄上には、内緒にして差し上げますから」
 内緒にしないと困るのはお前も一緒だろう。
 俺は自分の頬に掛かった手を軽く押し退けた。
 馬岱の目が、やや険しく細められる。
「……俺からしないと、奢りにならないんだろ」
 馬岱の頬に指を添えると、馬岱は一瞬驚きながらも、柔和な、如何にも優しげな笑みを浮かべた。
 男相手は初めてなのか、触れ合った瞬間、馬岱の体が強張る。
 けれど、次の瞬間には馬岱から舌を差し出していた。

 疲れきって家に辿り着くと、ポストの中に綺麗な薄青の封筒が突っ込まれていた。
 細い金の刻印が施された、下世話な話高そうな封筒だった。
 宛先は俺、差出人は張郃になっている。
「…………」
 嫌な予感に駆られ、早々に家の中に飛び込む。
 手で封を破ると、中から一枚のディスクが転がり出てきた。
 ディスクの表面に、『綺麗に撮れたので、是非貴方にも見ていただきたく』とだけ書かれている。
 何なのだろうと考え込んだが、ディスクのケースにDVDという文字があるのを見て、ようやく正体が分かった。
 テレビを点け、DVDプレイヤーのトレイを開ける。
 再生のボタンを押すと、黒い画面が切り替わった。
『ここでいいのか』
 目が点になる。
 そこに映っているのは、俺だった。
 しかも、今日の昼、張郃に足を開いたまさにその時の映像だ。
 シャワーから上がったばかりの俺は、非常に憮然と、また面倒臭そうにタオルを放り出す。
 生まれたままの姿になってベッドの上に上がると、座り込んで何処かを見ている。
 張郃が来るのを待っているのだ。
 俺はようやく立ち直って、DVDを止めるべくリモコンを取り上げる。
 何つう恐ろしいもんを送ってきやがるのだ、張郃め。
 停止ボタンを押そうとした瞬間、俺の手の中からリモコンが消えた。
 へ、と間抜けな声を上げ、リモコンが消えた方に目を遣る。
 そこには、顔を強張らせた馬超が佇んでいた。
「……ば……」
 テレビから、変に鼻から抜ける声が上がる。
 張郃が俺の愚息を口に含んでいた。
「馬超、ちょっ……せ、説明する、説明するからとにかく一回」
 DVDを止めろとリモコンに手を伸ばした俺だが、逆に馬超に腕を捻られ、ソファの上に引っ繰り返されてしまった。
 馬超はリモコンを床に滑らせ、俺の手の届かない位置に置く。
 切なげな声が止まず室内に響き、俺は羞恥と怒りと困惑が入り混じり、訳もなく顔を真っ赤に染め上げた。
 熱が一気に上がって、思考能力が恐ろしく落ちていく。
 どうしたらいいのか、まったく分からなくなっていた。
 怖い顔で俺を見下ろしていた馬超が、不意に堰を切ったように雪崩れ落ちてくる。
 押し付けるように口付けられ、口腔を弄られた。
 息が上がる。
 眩暈がした。
 馬超の、見た目よりも遥かに重い引き締まった体に押し潰されながら、俺はこんな状態で馬鹿みたいに興奮している愚息を恨めしく思っていた。

  終

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