それは、初めてのことだった。
と言って、滅多にあることではないとは思う。あっては困る。
は、時間や距離、その他の何か色々なものを飛び越えてここに『落ちた』。
下が枯れ葉の深く積もる地面でなければ、はそれ相応に怪我をしていたことだろう。結構な高さから、背面飛びの陸上選手よろしくぼすんと音を立てて落ちた。
受身など教わったこともなかったから、それでもそれなりの痛みに見舞われて声にならない悲鳴を上げる。
痛みの衝撃がもたらす硬直からようやく立ち返ると、今度は喉元に何か冷たい金属のようなものが押し当てられた。
「そのまま、動かぬよう。動けば、私はこの柄を引かねばならなくなる。動かぬ方が、御身の為です」
優しげな声だったが、姿は闇に溶け、長い棒の向こうに居るだろう人は見えなかった。
良く分からぬ恐怖が、から力を奪っていた。
こんな深い闇を見るのも初めてだったし、こんなシチュエーションも初めてだった。
目だけを忙しなく動かすと、金属のようなものは『ようなもの』ではなく、まま金属だと知れる。
金属の正体が刃だと知った途端、の意識もまた闇に溶けて消えた。
次にが目を覚ましたのは、薄暗い部屋の中だった。
粗末なベッドに寝かされていた。
起き上がると、部屋の中には小さな丸い木のテーブルと椅子、そして重そうな木板で出来た扉が目に入る。窓は、やはり木で出来ていてガラスがはめ込まれている様子はない。
壁際に立て掛けられた屏風を、何処かで見たような、と考え、無双の中で見たエディットの使っている部屋の様子に似ていることに思い当たった。
まさかな、とは思うのだが、今の日本でこんなたたずまいの部屋があるとも思えず、は自身の記憶力の良さと想像力のたくましさとを否定しきれずに居た。
突然扉が開かれ、びくりと身を縮込まらせたの前に進み出る男が居た。
その男の顔を見て、は想像が間違っていなかったことを覚る。
男は、諸葛孔明その人だった。
の話を聞き終えた諸葛亮は、気怠げに羽扇をひらめかせた。
その形は間違いなく無双の諸葛亮が愛用していた白羽扇に相違ない。
居心地の悪い興奮に包まれ、は体を固くした。
「……にわかには信じかねますが」
諸葛亮の言葉はもっともだろう。とて、未だ信じられない。話を最後まで聞いてもらえたことだけでも御の字の一言に尽きる。
いきなり目の前に現れた怪しげな格好の女が、貴方達はゲームのキャラです、などと言って信じてもらえるわけもない。
ゲームだのキャラだのいう言葉でさえ、どう言い換えていいものかパニックしたにはわからなかったのだ。諸葛亮が如何に根気強くの話に耳を傾けてくれたかが知れよう。
「嘘は吐かれていないようですし」
え、とは顔を上げた。
どうして諸葛亮が信じてくれるのか、それこそ理解が出来なかった。
「貴女がお持ちだったこの四角い石」
諸葛亮が胸元から取り出したのは、何処にでもある(あった)百円ライターだった。
薄緑の透明なケースの中で、オイルがちゃぷちゃぷ揺れているのが分かる、あまりにも安っぽい作りのライターだ。
「こちらを、失礼ながら拝見させていただきました。結果、この世の品ではなかろうと、判断いたしまして」
は、この時程自分の喫煙の習慣に感謝したことはない。
「それに、貴女がこの地に降り立った瞬間を見た者が居りまして。その言と照らし合わせれば、貴女の言葉を信じざるを得ません」
降り立ったとは、ずいぶん控えめな描写だ。詩的と言ってもいい。の落ち方は、本人からしてみてもかなり無様だった筈だ。
「貴女の言葉は、けれど、普通に在る者には到底受け入れられないに違いありません。ですから、どうぞ」
諸葛亮の指がすっと伸び、唇を封じる。
もまた真似をして、自らの唇を封じた。
その様に満足したのか、諸葛亮は柔らかな笑みを浮かべた。扉を振り返ると、誰かに向けて声を掛ける。
「貴女を見つけた者に、しばらく貴女を託そうと思います。貴女は、その者を頼ってこの地にやってきた遠縁の者として、しばらくこの地のことを覚えるとよろしいでしょう」
「あの、でも」
は、この地に長居するつもりはさらさらない。
出来れば、すぐにでも帰りたいのだ。
諸葛亮の目が細く顰められる。意味もなくどきりとした。綺麗で、透き通った、怖い目だった。
「帰り方は、お分かりになるのですか?」
「……いえ」
痛いところを突く。
に口答えが出来よう筈もない。
扉の向こうから入室の許可を求める声がする。
はっとした。
この声は、間違いない。
扉が開くと、そこには声に相応しい柔和な印象の青年が立っていた。
けれど、は知らぬ間に竦んでいた。
恐ろしくて、舌が強張る。
――そのまま。
彼の声は闇の衣をまとうが如く冷え冷えとして、の恐怖を容易く煽る。
青年が優しげならば優しげな分、穏やかそうに微笑めば微笑む分、の心臓は冷たい手で鷲掴みにされるような恐怖に苛まれる。
喉元に未だ刃が突きつけられているような、そんな妄想に駆られた。
青年は、馬岱と言った。
あの時声音を発した時も、恐らくはこのような顔をしていただろうと思わせる苦い笑みを浮かべてを見ていた。
諸葛亮の命どおり、は西涼の奥地に隠れ潜んでいた親類の子として馬家へと引き取られた。
生活が生活だっただけに礼や立ち居振る舞いに奇妙なところがあると言い含められていたせいか、家人には概ね何事もなしに受け入れられた。
家人の見習いとして、気は回らないけれど懸命に動くの様は、家人達の気を緩めるのに十二分だった。
細かな礼を知らぬ者など、蜀はいざ知らず他国の者ならば平凡な程に多い。
温暖な気候がそうさせるのか、高い教育の賜物なのか、馬家の人々はに優しかった。
家長たる馬超ですら、の出自に深く同情し、何くれとなく世話を見てくれた。馬岱の親類だと聞くが、ならば同じ親類としてが居たかどうかすら覚えていないと言うのは、如何なものだろう。
この際、有難いと思うべきかも知れなかった。
「何であれば、俺の嫁に迎えようか」
馬超の言葉にが真っ赤になると、馬超は愉快そうに笑ったものだ。
やや気の短いところはあるが、馬超がそうしてくれると言うなら、本当にそうなってもいいかもしれない。
そんなことを考えると、次の瞬間には馬岱の温和な顔を思い出し怖気が走った。馬超の嫁になることは、イコールで馬岱と本当の姻戚関係を結ぶことになる。
それだけは御免被りたかった。
当初、家人からは何故それ程馬岱を嫌うのか理解できないと責められたこともある。
馬岱は温和で、家人にも優しい。嫌っているの方がおかしいと言われた。
もっともである。
とて、最初の出会いがなければ馬岱をこれ程苦手としなくて済んだだろう。
理屈ではないのだ。
深い闇の中に落とされ、冷たく凝った刃を喉元に突き付けられた。
動けば、馬岱は本当にあの柄を引いていたことだろう。
殺されかかった。
その事実はを恐怖に駆り立てる。
夜中、息が出来なくなって飛び起きることもあった。
気を使われて個室を与えられていたので、辛うじて他の人に迷惑を掛けずに済んでいる。諸葛亮の勧めもあったそうだが、案外見抜かれていたのかもしれない。
親類を頼って蜀の地に落ちた女が、当の馬岱を苦手としているわ夜中に悲鳴を上げて飛び起きるわでは嫌って下さいと言っているようなものだ。
自分の好きな人を悪しく言われることだけでも堪らないのに、仕事で疲れた体を休める安寧の時間まで奪われる。どちらか片方、と考慮して、何とかできるのは必然的に後者に違いなかった。
馬岱もどうやら察してくれたようで、家人達にもそれとなく言ってくれたらしい。いつの間にか、が馬岱に刃を突き付けられた一件が知れ渡っていた。
やっと蜀に着いたと気が緩んだところじゃあ、驚いて嫌にもなってしまうわねぇ、と年かさの家人が慰めるように言ってくれたので分かった。
馬岱は、外面通りにいい人なのだ。
それなのに、恐怖に駆られてしまう自分を不甲斐ないと思う。
勇気を出そうと思ってはみるものの、馬岱の姿を遠くから窺うだけで足が竦む。
やはり、理屈ではないのだ。
ふと視線を感じて振り返れば、そこに馬岱が立っていた。
ぎょっとする。
馬岱もまた驚き、困ったように眉を顰め、転瞬くるりと背を向ける。
屋敷の影に隠れていく馬岱の影を見送りつつ、の胸は締め付けられるような痛みを発していた。
無性に怖かった。
「嫁に来られるか?」
酒に酔って頬を赤らめた馬超は、いつもの軽口を言い出した。
「俺が存命の限り、食事の不安はない。如何か」
は頬を染めて俯き、馬超は可笑しそうに笑う。
蜀の地には当然煙草はなく、手持ちの煙草はすぐに切れた。
否応なしに禁煙生活を強いられ、は口寂しさから良く食べるようになっていたのを馬超は揶揄したのだろう。
食べると言っても、出されるものは基本的にダイエット食に近い。加えて、家人の仕事は肉体労働で、朝から晩まで働き詰めだものだから、の体型は自然に女らしく見栄えのするものに変わっていった。
肌の艶さえ、しっとりと落ち着いた。化粧水も叩いていないのに、肌を作る栄養源を上手に摂取できているということなのだろうか。
馬家の家人として、振る舞いも女らしくなった。周りの家人に注意されるもので、大胆に足を投げ出したり組んだりすることもない。行儀作法が身に着いてきていた。
思わぬトリップ効果に、はこっそり万歳三唱した。健康的なダイエットと禁煙、立ち居振る舞いなどの行儀作法の習得まで達成してしまったのだから、ならずとも喜んで然るべしだろう。
ところが、の変化は他者の変化をも招いていた。
以前は、『変わり者』のを冷やかすばかりだった男達の目が、何だか熱っぽい、絡みつくようなものに転じた気がする。
それとなく誘われたりもするようになって、最初は浮かれていたも急激な男達の変化に徐々に警戒するようになっていた。
手のひらを返したような露骨さは、上辺だけを見られているようで何だか不快だった。
馬超の軽口は以前からのものだったが、それでもどことなくぎこちなさを感じてしまう。
「また、そんなことを言って」
怒った振りをしてみせてさりげなく場を離れようとしたの手に、馬超の指が噛み付くように掴み掛かってきた。
あまりの勢いに、もつい小さな悲鳴を上げる。
「す、すまん」
馬超はすぐに手を離してくれたが、狼狽して視線を落としている。
そのまま立ち去るのは気が引けて馬超の様子を見守っていると、馬超は何か決心したような顔付きでの面前に立った。
「逃げないで、聞いて欲しい」
後退るより早く、馬超の先を読んだ声がの足を縫い止めてしまった。
「ここ最近のそなたは、眩いばかりに美しくなった。皆もそう言うし、……俺も、そう思う」
嫁に来てもらえないだろうか。
呟くような声は、しかしの胸に焼き込まれるような熱く切ないものだった。
「……今までの、軽口ではなく……本当に、俺は心からそう望んでいる。考えてみてはくれないか」
心情を直接ぶつけて寄越すような、重みのある言葉だった。
嬉しくないと言えば嘘になるが、馬超の告白はの中には染みこんで来ようとしない。心の表面にビニールの膜が出来ているかのようだった。
なってもいいと思っていた筈なのに、どうしてなのかにも量りかねた。
馬岱の姻戚になるからか。
途端、胸がずきんと痛みを発した。やはり、そうなのか。
には、馬超の申し入れは受け入れられない。即答しても構わない程、確固とした答えが胸の内にあった。
けれど、馬超はただ『考えてみて欲しい』と請うたのだ。即答などしては、彼の矜持に傷を付けることになる。
頷くより他になく、は視線を落としながら踵を返した。
そこに、馬岱の姿を見出す。
はっとした。
浮かれていた熱が一気に冷め、血の気が潮のように引いていった。
聞かれただろうか。
心臓がばくばく騒いだ。
馬岱は、笑いたいのに笑みが浮かべられなくて困っているように見えた。複雑な表情をしていた。
少なくとも、馬岱が馬超に見せたことのない顔だろうとは直感した。
「た、岱」
その直感を証すように、馬超もまた馬岱に聞かれたことを焦っているように見えた。
今の馬超は馬岱なしには居られない。かつて居た眷族は皆尽く誅殺され、馬超のすべてを支えているのは馬岱に他ならないと言っても過言ではないのだ。
その馬岱を、は敬遠する程苦手としている。
を取るか馬岱を取るか、それこそ馬超に取っては苦渋の決断に違いなかった。
「……お邪魔を、いたしまして」
頭を下げ、出て行く馬岱の背中に胸が痛くなる。
馬超に馬岱が居なくてはならないように、馬岱にも馬超が必要の筈だ。
何の意向もなく空から落ちてきただけの自分が、深く信頼しあっていた二人の仲を裂いてしまったのかと考えるだけで、の目は潤んでくる。
遠くから時折見かけることがあった。馬岱の、馬超の隣で笑っている顔はとても和やかで幸せそうに見えた。
馬超といる時の馬岱は、とても優しい時間を過ごしているのだと察することが出来たのに。
「」
馬超の声が強張っている。
「……すまぬ、俺は、卑怯だった」
謝る必要はない。謝らなければならないとしたら、のうのうと馬家に居座っていた自分の方だ。
「先程のお話……」
がおずおずと口を開くと、馬超はに皆まで言わせず、ただ深く、深く頷いてみせた。
出て行こうと思った。
馬岱が苦手で、あんなに良くしてくれたにも関わらず素直に厚意を受け入れられない。恩を仇でしか返せないとあっては、自分も申し訳ないし馬岱も辛かろう。
「私」
「岱と、幸せにな」
の申し出を、馬超の祝福が遮った。
馬岱は一人、庭に佇んでいた。
その手に、あの長槍が握られている。
あんなおっかないものを突きつけられたのか。
ぞっとして、心臓がばくばく騒ぎ出す。
けれど、足は前に向けて進んでいた。
「馬岱、さん」
様と呼ばなければ本当は駄目なのだ。良いとこの女の人は、男の人をそう呼んで敬うのだと聞く。
だが、は良いとこのお嬢さんではない。生粋の庶民生まれの庶民育ちだ。親もサラリーマンだし、お受験は高校からと言う至って平凡な経歴だ。
そんな女を、しかも煙草臭くて如何にも不健康な見てくれで、他の男が振り向きもしなかったを、馬岱はずっと好きだったのだと聞かされた。
だから連れ帰ったのだと、だから懸命に面倒を見てくれたのだと、馬超から教えられた時のの居た堪れなさといったらなかった。
穴があったら入りたいとさえ思った。
そんなに好きで居てくれたのに、のしたことと言えば馬岱を見るなり眉を顰める、青褪めてさっさと逃げ出す、そんな惨いことばかりだったのだ。
下心があって親切にしてくれたのだとは、不思議な程に思わなかった。
馬岱がそんな人ではないと、は分かっていた。
ずっと好いていた相手に、自分の想いを承知している筈の従兄がプロポーズをしている。
そんな場面に出くわして尚、馬岱は笑おうと努力し、結果叶わなくても、怒り狂うこともなく静かに退席して行った。
馬超が告白しなければ、きっと永遠に黙っていたことだろう。
馬岱は、そんな人だった。
の声掛けに応え、馬岱はゆっくりと振り返った。
驚かせないようにという気遣いなのか、微かな笑みは、夜露のように儚げで痛々しかった。
「……どうしたのですか、殿。従兄上が、意地の悪いことでも申し上げましたか?」
が首を振ると、馬岱はまた微笑んだ。
「従兄は、意地っ張りですけれど、それに少し短気ですけれど、本当はとても情の細やかな、優しい人なのですよ。どうか、添い遂げて差し上げて下さい」
また首を振ると、馬岱は悲しげに目を細めた。
「……従兄上が、何か詰まらぬことでも申し上げましたか。貴女は何も気になさらず、ただ貴女が一番幸せになれそうな道を選べば良いのですよ」
それが一番嬉しいのだと馬岱は言った。
恐らく本当に嬉しいのだろうとも思う。
だったら、は馬超の元には行けない。
「じゃあ、馬岱さんとこに、行く」
馬岱がはっと息を飲んだ。
困惑したように目線を忙しく揺らし、挙句から逸らして俯いた。
胸が痛くなる。
怖くなる。
「馬岱さんとこに、行く。私、馬岱さんの」
「なりません」
恐怖に駆られるように、馬岱の顔が引き攣った。
何を言っているのか理解できない、したくないという馬岱の表情は、の胸の内をずたずたに切り裂いていく。
恐怖は、いつの間にかその本質を変化させていた。
が恐れていたのは、殺されそうになったことではなく馬岱に置いていかれることだった。
この人に見捨てられたら天も地もない。
そんな思いが、逸らされる馬岱の視線が、恐ろしくて堪らなくなっていた。
暖かな眼差しが、心配そうな目線が、陰日向になってを異国の孤独から守ってくれていた。
馬超に話を聞いて、それでようやく自分の本当の気持ちが分かったのだ。
分からなくってごめんなさい、でも、だから置いていかないで。
の手が、馬岱の服の袖を掴む。
ぼろぼろと大粒の涙を零して泣き出しているに気付いた馬岱は、ぎょっとして立ち竦んだ。
逸らしていた視線を、いつもの労わるような、心配そうな眼差しに変えてに注いでくれる。
「どうしたのです、殿。わ、私が貴女を、傷付けてしまいましたか……?」
そんなことはあってはならぬと厳しく己を戒めていそうな馬岱に、もしもがうんと言えば自らを罰してしまいそうな馬岱に、の心は坂道を転がる玉のように転がり込んでいく。
「馬岱さんが、好き」
言葉に直せば尚切なく、の気持ちは千々に乱れた。
自分がこんなに乙女だとは思いもしなかった。
好きな男を前に、好きだと言うだけで涙が零れてくる。
馬岱が好きで、好きで好きで堪らなくなって、許されるなら飛び掛って押し倒してしまいたかった。
それはあんまり乙女じゃないなと思い当たり、笑みが浮く。
泣きながら微笑むに、馬岱は酷く戸惑っているようだった。
「好きです、馬岱さん。すごく、すごく好き」
馬岱の頬に赤みが差し、どんどんと色を濃くしていく。
「……だって、貴女は、従兄上が」
「私は」
言い訳めいた言葉は聞きたくなかった。
「馬岱さんが、好き」
はっきりと言い切ったに、馬岱は何かを堪えるように固く目を閉じ、歯を食い縛った。
「…………あああ、もう」
不意に。
糸が切れるようにがっくりと肩を落とした馬岱は、唐突にの体を掬い上げるようにして抱き締めた。
「貴女が、好きです。初めてお会いしてからずっと、ずっと好きでした。貴女を不用意に傷付け、失神させてしまったことが、ずっと申し訳なくて、ずっと言えずにおりました……けれど、だからこそずっと言わずに置くつもりだったのですよ!」
逆切れしたように自棄になって告白する馬岱に、はやはり泣きながら、けれど微笑んで何度も頷いた。
「丞相は元より従兄にまで見破られるし、ええ、修行が足りないのは存じておりましたとも! ……でも私は、貴女はきっと従兄上を好いておられるのだと信じて疑わなかったのですよ。それは、従兄の方は、貴女は私を好いておられるなんて言ってましたが、それとて従兄の言ですからちっとも当てにはならぬし、いえその、それに、貴女は私が怖かったのでしょう? 貴女は、私に怯えておられた筈だ。私の姿を見かける度に、怯えて、困っていたのを私が知らぬとでも思っておられたのですか」
怯えてもいたし、困ってもいた。
しかし、にとってはそれこそもうずっと昔の話に過ぎない。
「今は、馬岱さんが、好き」
の言葉に、馬岱はがっくりと項垂れ、の肩口に顔を埋めた。
「……私は、ずっと好きでした」
諦めるつもりだったのに、と呟く馬岱の背に腕を回し、は呟きを返した。
「だめ」
それを聞いた馬岱は、もう一度低く唸って、の体を屠るように力を込めて抱き締めた。
が、諸葛亮に見破られていたという話を何の気なしに問い掛けると、馬岱は酷く苦い顔をしてみせた。
「最初から、あの方はご存知でしたよ」
「え?」
ご存知と言うのは、馬岱の気持ちに、だろうか。
「でなければ、私に貴女を預けて恩を売るような真似などされるものですか。普通に考えれば、月英殿なり、貴女と同じ女性に託すのが自然とお考えにはなりませんか?」
そう言われれば、そうか。
「真っ暗だったでしょう? 貴女とお会いした時。あの時、私も物音に驚いて馳せ参じたもので、相手が貴女とは判らなかったのですよ。でなければ、見るからに害意のない貴女に刃を向けたりは致しません。……貴女を何とか無事にこの地に迎え入れたいと思うあまり、見ていないものを見たの何だの、変に取り繕ってしまったからすぐにそれと悟られてしまったのでしょうね」
思い出してみるに、確かにあの時灯りらしい灯りはなく、からでは馬岱の姿をまともに見ることも叶わなかったのだ。声らしい声も出していなかったから、馬岱の方も人影なりは見えていたとしても、相手を確かめるまでには至らなかったのだろう。
それなのに、馬岱は事の経緯を詳細に話してしまった。無論、大方が作り話である。
「何とかしたいと慌てていたものだから、降り立ったなどと言ってしまったのが決定的だったのです」
「……ああ、そう、だったような……」
でもそれの何処が決定的なのだろう。
が首を傾げると、馬岱はの背中をするすると撫でた。
「落ち葉が、たくさん着いていたでしょう? この辺なんか、特に。貴女の服は表面がとても毛羽立っていて、落ち葉がたくさん着いておられた。だのに、『降り立った』なんて話がおかしいではありませんか」
馬岱の説明を、しかしはくすぐったくて聞いていられなかった。
笑い声を上げながら、敷布と掛け布を蹴り上げ、馬岱の裸の胸へと顔を埋めた。
「……笑い事では、ないのですよ。それに、式を上げる前にこんな……従兄上に、何と言い訳をすれば良いのやら」
真にもって貴女は面倒、と馬岱は溜息を吐いた。
「ですから、もう、離しはいたしません。何処にもやらない、私のです」
「何、それ」
理屈になっていないような気がする。
けれど、暖かな温もりはを幸福に満たした。
「……もう一度、言って」
そして、もう一度、とが馬岱の胸に顔を埋める。
馬岱は顔を赤らめた後、の耳元に望みの言葉を囁いて、その裸体を組み敷いた。
終