二十歳になったら、年上の男性に金の指輪を贈ってもらうと幸せになれる。
 もういい加減に古い噂話だ。
 それでも、二十歳の誕生日を迎える頃になると、何となく気になる話だった。
 と言っても、此処じゃさすがに無理だろうな、と諦めていた。
 が生まれ暮らしてきた時代より1800年も前の、土地さえ違う呉という国。それが、の今いる場所だった。

 が二十歳の誕生日を迎えて、一月も経った頃、突然孫権に呼び出された。
 何だろう、と慌てて孫権の部屋に向かう。
 呉の人々は皆、に親切で優しかった。だが、だからこそは、皆の行為に甘えるだけではいけないと、自分に出来る限りのことをしようと思った。
 出来ることなど、本当に少なかったのだが。
 孫権の呼び出しに、走って出向いているのもそういった気持ちの表れなのだ。
「お、どーしたー」
 気の抜けた声で名前を呼ばれる。
 急ブレーキをかけて振り返ると、孫策が立っていた。
「あっ、伯符さま!」
 孫策は、いつも気軽にの髪に触れる。この時代、普通の女性は髪を結っているもので、のように髪を下ろしているのは珍しいと言って、指で弄繰り回すのだ。
 最初は困っていたも、もういい加減慣れてしまった。
 今日も、孫策はやはりまずの髪に触れ、指に絡めて梳く。
「どうしたんだよ、んな急いで」
「あ、いけない。仲謀さまに呼ばれてるんですよー」
 言うなり、身を翻す。孫策の指からの髪がするりと外れた。駆け出すには、孫策が一瞬口元を歪めたのが見えない。
 の視界の端に、赤い何かが映った。
 不思議に思って横目で見ると、孫策がに並行して走っている。
「如何したんですか、伯符さま」
「俺も一緒に行く」
 にかっと笑う孫策に、はきょとんと目を見開いたが、何か用があるのだろうと勝手に納得した。
 考えがすべて顔に出るに、孫策は少しだけ笑って、後は無言でについて行く。
 孫権の部屋には、すぐ辿り着いた。

 扉の外から呼びかけようとしたを制して、孫策が勝手に扉を開けてしまう。
「権ー、いるかぁ?」
 竹簡に目を通していた孫権が顔を上げ、いぶかしげな顔をする。が、孫策の背後にを見つけて、喜色を隠せず微笑む。も、応えて孫権に微笑みかけた。
 孫策の目が、少し面白くなさそうに顰められる。一瞬のことで、二人には気付かれなかったようだった。
「兄上、兄上は何か私に御用でしょうか」
 孫権にしては少し落ち着きなく、わざとらしい咳払いまでしている。
「ん、いや、がお前に呼ばれたって言うから、暇潰しに」
 お暇なら仕事をして下され、とげんなりとした孫権の呟きに、孫策はそっぽを向いて聞かない振りをする。
 仲いいなぁと微笑ましく見守っていただったが、ふと当初の目的を思い出した。
「仲謀さま、私に御用ってなんですか?」
 孫権は、ちらりと孫策に目を向けたが、諦めたように懐から小さな布包みを取り出した。

 おいでおいでをされて、首をかしげながらが孫権の前に出向くと、孫権は布包みを解いた。
 濃紫の布の中から、金色に輝く小さな環が出てきた。
 は思わず感嘆の声を上げた。
「わ、わ、仲謀さま、これって……!」
 無意識なのだろうが、その場で跳ねるに、孫権は照れ臭そうに髭を撫でた。
「……いや、二十歳の誕生日に、年上の男から金の指輪を贈られると、幸せになれるという話だったろう? 誕生日には間に合わなかったが、さえ良ければ……その、もらって欲しい」
「いいんですかぁっ!」
 文字通り、飛び上がって喜ぶに、孫権も嬉しそうだ。
 そっと布から取り上げて、合う指を探す。右手の薬指にすっぽりとはまり、は嬉しそうに掲げて見せた。指輪は窓から差し込む光を受け、きらきらと輝く。
 嬉しそうなを見つめる孫権の顔もまた和やかに緩み、穏やかに微笑んでいた。
「気にいらねぇな」
 鋭い声が、空気を冷たく切り裂いた。
「……伯符さま?」
 振り返った二人の目に、ぶすっとしていかにも機嫌の悪い孫策が腕組みして立っているのが見えた。
「結局、まじないとかそういう類だろ。俺は、そういうのは嫌いだ」
 言うだけ言ってぷい、と出て行ってしまう。
 残された二人は、怪訝な顔を見合わせて、申し合わせたように孫策の出て行った扉を見遣った。

 イライラする。
 原因は分からないが、こんな時に誰かと顔を合わすのは御免だ。
 孫策は一人になれる場所を探し当て、ごろりと横になった。空が青い。
「……あー」
 腹にわだかまるもやもやを吐き出すかのように、声を出す。
「あ―――っ!」
 下っ腹に力を篭めて叫ぶと、少しすっきりした気になる。だが、もやもやはすぐさま沸いて出て、孫策の腹の中にわだかまる。
「……何だよ、チクショウ」
 目の中に、微笑みあう二人の姿が焼きついて離れない。
 ごろりごろりと転がっていたが、すっきりしなくて起き上がった。
 ふと、目線の先に白い手が見えた。
 ふるふると震えた手が、へたっと折れて、また伸び上がる。よくよく注視してみれば、『ぅむ〜〜〜』という間抜けな声も聞こえてきた。
 四つん這いでのこのこと近付けば、が手すりに登って背伸びしていたところだった。
 顔を真っ赤にして、顔をくちゃっと顰めている様に、孫策は吹き出した。力を入れ過ぎて、ぶるぶると震えている様がまたおかしくて笑いが止まらない。
「ひぃ、笑ってないで、助けて下さいよぉ〜」
 孫策は笑いながら、半泣きのの両手首を掴んで引き上げた。
「何、何してんだ
 ようやく一息つけたと言わんばかりに、ぜはぜは言っているに、孫策は手を叩いて笑う。
「わ、笑い事じゃありませんよぉ、伯符さまがこんなとこにいるからいけないんじゃないですかぁ」
 こんなとこ、つまり屋根の上にぺったりと座り込んだ孫策は、自分がここに来た理由を思い出してむっつりと黙り込んだ。
 の指には、金の環がはまっている。
 すごい探してたんですよ、声がしたからやっと見つけて、頑張って登ろうと思ったんですけど等と無理に明るく振舞っていただったが、孫策の視線に気がついて、何となく指輪を隠した。それがまた、孫策の気に入らない。
「何か用か」
 常にはなくぶっきらぼうに言い捨てる孫策に、は戸惑いを隠せない。
「え……と……さっき、伯符さま、ちょっと変だったから……」
「別に、変じゃないだろ。いつもと同じだ」
 変だというのは、孫策も自覚している。だが、どうしても素直に認める気になれない。
 沈黙が落ちた。
「……指輪、気に入りませんか……?」
 いきなり核心を突かれて、孫策は口をへの字に曲げる。は困ったように首を傾げ、指先で金の環を撫でた。
 そんなの仕草が自分を責めているようで、孫策は落ち着かなくなった。ぼりぼりと頭を掻くと、足を胡坐に組んで前後に揺する。
「……俺ぁ、そういうまじないとか、好かないんだって。幸せとか、自分で掴んでナンボって奴じゃねぇか。そんな、ちっちぇ環っか一つで幸せになれるとか、おかしいじゃねぇか」
 我ながら言い訳にしか聞こえず、孫策は口を尖らせた。言い訳だって、好かないのだ、孫策は。
 孫策の気性を承知しながら、は言葉を選んでゆっくりと話し出した。
「……うーん……。あの、私もね、別に、これで幸せになれるとかは、思ってないですよ?」
 驚いて何か言いかけた孫策を制して、は言葉を続けた。
「でも、指輪をくれる人って、『幸せになってほしい』って思って贈ってくれたんだと思うんですよね。それって嬉しいじゃないですか。そういう気持ちでいてくれる人がいるってだけで、何か幸せじゃないですか」
 孫策は黙って聞いている。
「応えよう、頑張って幸せになろうって、約束の印みたいなものじゃないかなぁ……」
 が指輪をかざす。部屋の中で見た時よりも、何処となく清く輝いて見えるのは、空の青との対比のせいか。
「……そっか」
 孫策は指輪から目を逸らし、頬杖をつく。
 の理屈は分かる。けれど、本当はそうではない。難癖をつけただけだ。と孫権が、誰にも入れない空気の中で穏やかに笑い合っている、そんな光景が見たくなかっただけだ。
 子供っぽい、馬鹿みたいな嫉妬に、他ならぬ孫策自身が呆れかえった。俺はこんなちゃちい男だったかよ、と情けなくなったのだ。
 だから、逃げ出した。それだけだ。
 左隣に温もりを感じて、顔を上げるとがいた。
「な、何だよ」
 焦ったのを隠すように声を荒げる。
「ごめんなさい」
 は? と間抜けな声を上げて、口元を押さえる。
 そんな孫策を見て、が笑う。
「……別に、伯符さまの考え方を否定したわけじゃないんですよ? けど、やっぱり、否定しているように思われても仕方ないなって。だから、ごめんなさい」
 でも、とは続ける。
「伯符さまに嫌われたくないって、やっぱり思うから。それも兼ねて、ごめんなさい」
 が孫策の目を見上げる。孫策は、胸を衝かれたような衝撃を受けた。
「……ずっりぃぞ、お前」
「え、ず、ずるいですか」
 思いがけない孫策の言葉に、今度はが慌てだした。
「ずるいだろ。ずるいって、ぜってーずるい」
 え、え、と目を丸くするの顔に、孫策がぐっと顔を寄せる。
 あっと思わず声を上げて仰け反るが、いち早く孫策がの顔に手を添えて逃げられないようにしてしまった。
「何かないのか」
「はっ!?」
 思わず素っ頓狂な声を上げるにお構いなく、ずいずいと顔を寄せる。子供みたいなあどけない顔だが、その分性質が悪いとは胸の内で焦りまくった。
「印。何か、他にないのかよ。俺も、お前にやる」
 急に言われても、とがあわあわするが、孫策は『何かあんだろ、何か』と譲らない。
「えっ……と、十九の時に銀の指輪をもらうとか……」
 ごにょごにょと、ようやくひねり出したの言葉に、孫策はよっしゃと立ち上がった。
「銀の指輪だな、任せとけ」
 言うなり、小走りに走り出し、屋根の上からひょいっと飛び降りた。
「ぎゃあ!? は、伯符さま!?」
 慌てて屋根の端に走り寄ると、どうやって着地したのか、孫策が凄い速さで走り去る姿が見えた。
 ほっと安堵したのも束の間、は重大な事実に気がついた。
「……え、私はどうやって降りたら……」
 ただでさえ人気のない楼閣の上、は事の重大さを未だ分からずにいた……むしろ、分かりたくなかったのかもしれない。

 蛇足ではあるが。
 が屋根の上から降りられたのは、日も落ちきった頃だった。濃い紫の帳が空を覆い、寒さにがたがたと震えていたを、どうやってか周泰が見つけ出したのだ。
 周泰のマントを借り受け、その暖かさにようやく助かったと実感したは、今更のように半べそかいた。
「うぇぇ、幼平さま、ありがとうございますぅ〜」
 無口な周泰は、小さく『いや』と呟くのみだった。
「しかし、何故あんなところにいたのだ」
 呆れたように孫権が尋ね、は事の次第を若干の嘘を取り混ぜながら大まかに説明した。
 孫権の顔は複雑だ。孫策の気持ちに、薄々気がついたのかもしれない。
「そんな、いくつもつけてもいいものなのか?」
 言い難そうに孫権が訊く。しかしは、『本当は十九の誕生日にもらうものなんですけどね』と、あっけらかんと見当違いな答えを言い放った。
「話だと、『年上の男性』になってるけど、私、実際は『お父さん』なんじゃないかと思ってるし……ほら、お父さんがいない人に気遣って、年上ってしたんじゃないかと思うんですよー」
 さらに止めと言わんばかりの言葉に、孫権はがっくりと項垂れた。
「……鈍いな……」
 仕える相手を慮ってか、周泰の声はいつもより更に小さく、誰の耳にも届かなかった。

  終 

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