「…よう」
「伯符…」

遮られた月光に、聞き慣れた声音に、が天を仰いだ。
鉄格子の向こうに、孫策の姿があった。

「此処、夜になったら誰も居なくなるのな。…態々屋根上る必要もなかったか」

潜められた其の声も、夜の静けさからか、良く通る。
今日は満月だった。
下を向いている孫策の表情は窺えなかったが、偶に顔を上げたりする時、其の面が、良く見えた。

「でもまさか、堂々と入ってくる訳にもいかねぇしなぁ」

はは、と笑う孫策の瞳は、を真直ぐに見詰めていた。
最初は何かを探すように視線を彷わせていたようだが、今は其れもない。

「…今日は満月だ。其れに、雲一つない。の望みを…叶えてやれる」
「………」
「俺と一緒に、来てくれ」

鉄格子を掴んだ孫策が、天を仰いだ。
其の顔に、蒼白い月の光が無数に零れ落ちている。
だが、其の蒼白さを肌に受けても、弱々しい白ではなく力強い輝きに見えるのは、やはり孫策の発する気がそうさせるからか。

「何も心配する事はねぇ。は、身一つで俺について来てくれれば良い。後は俺に任せてくれれば…」

孫策が再び下を向いた。
沢山の花々で形作られた二重円の其の中央に、が立っている。
顔を上向け孫策の瞳をじっと見詰めている其の顔にもやはり月の光は落ちており、いっそ透明感すら覚えさせる其の蒼白さは、孫策に不安を与えた。
其の姿が、今にも揺らいで消えてしまうのではないか、と。
其の一方で、其の透明な白さに神々しさすら覚えても居る。
孫策は、鉄格子を掴む手を、両手に増やした。

「其の手を…俺に伸ばしてくれ」

鉄格子の隙間から、孫策がに向かって手を伸ばす。
しかし、どんなに手を伸ばしても…例え肩当てを外したとしても…に其の手が届く筈がなかった。
が懸命に手を伸ばしても、其の手が触れ合う事はない。

「…ごめんなさい」

は伸ばされた孫策の手を、痛いほどに見詰めながら、ぽつりと、しかし確りとした口調で言った。
其れを受けた孫策は、ぴくり、と指先を跳ねさせたが、やがてゆっくりと其の手を戻していく。
天窓の縁に腰掛けると、少し気が抜けたように、笑った。

「はは…そうか。いや、な、荷物も何もねぇし…椅子もなかったからな。そんな気は、してた」

この部屋の真上に辿り着いた瞬間、の姿を探した…居た。
其の次に荷物を探した…なかった。
しかし、には纏めるべき荷などないのかも知れない、そう、期待を篭めて信じて…そして、椅子を探し
た。
…なかった。
孫策は、荷物よりも椅子がなかった事で、の意思を覚った。
椅子は、この部屋から…屋敷から出るのに必要なもの。
其の椅子がなければ、孫策がどんなに手を伸ばそうと、が手を伸ばそうと、外には出られない。
と外界とを繋ぐ道具は、自身の意思によって用意されなかった。

「あんまり聞かねぇほうが良い、ってのは判ってんだけど…。やっぱり、馬超のが良いか?」
「…私は、孟起の事が好きだと思うんです」

其の言葉に、孫策の顔が色を失った。
覚悟をしていたとは言え、其れをの口から聞かされるのは、とても…酷。
しかし、そんな孫策の顔と夜空を交互に見ながら、は尚も続けた。

「其れは、伯符も同じです。私は伯符の事、好きだと思います。あの三日間は信じられないほど楽しかった…今思い返しても、夢のようなんです」
「そうか…。俺の事も、好き…か」
「…はい。私はどちらかを選ぶなんて事を出来るほどに、自分の気持ちに自信がありません。…だから、私は孟起のところに居ます。助けてくれたお礼もまだ出来ていないし、何より、正直に…何も話せていないから」

そう、心の裡を説明して行くは、とても力強く見えた。
花の中で笑うには力強さがない、と思っていたが、しかし今花に囲まれながら言葉を紡ぐを見れば、とてもそんな事は言えそうにない。

「伯符へのお礼もしなければなりません。私に外の世界を見せてくれた…外に出る勇気をくれた。何より、望みを叶えてくれました」
「俺は、礼を言われるような事はしてねぇし、望みも叶えてやれてねぇ。…、あの場所、もう覚えたよ
な?今度は馬超の野郎に連れてって貰え。頼めば幾らなんでも連れてってくれるだろ」
「いえ」

何処か、何かを諦めたような声音で、孫策が言った。
約束を叶えてやれない、ならば、自分から馬超に托してしまったほうが、があの場所へ行く事に気兼ねする事もない。
しかし、は緩く首を振って否定の言葉を出した。

「私が約束をしたのは、伯符ですから。だから、私は待ちます。伯符が何時かまた時間が出来て、来てくれた時…その時に、連れて行ってくれませんか?」

それまでは、自分で行く事も、誰かに連れて行って貰う事もしません、とが言う。
でも、その約束を重たく感じる時が来たら、直ぐに忘れてください、とも付け加えた。

「俺で、良いのか」
「伯符が良いです。私の望みに気付いてくれました」
「待ってて、くれんのか」
「はい。私が約束をしたのは、伯符です」

そう言って頷いたの瞳は、晴れ渡った空に鏤められた星屑よりも輝いていて。
孫策は天を仰いで目頭を抑えた。
数瞬後、再び下を向いた時、の顔には未だ穏やかな笑みが浮かんでいた。

「好きだぜ、

鉄格子越しに伝えられる想い。
月の光は孫策の背ばかりを照らして、下に向けている顔を照らしてはくれない。
顔が見たかった。
孫策がどんな顔をして言葉を紡ぐのか、もっと近くで見たかった。

「黙ってようかとも思ったけどよ、やっぱ駄目だ。言わずには、帰れねぇ」

頭を掻きながら、はは、と笑う。

「好きだ。本音は、愛してる…だな。けどよ、三日しか一緒に居なかった俺が使ったら薄っぺらな言葉になっちまうから。だから、今は使わねぇ。…、大好きだ」
「…私も、好きです。伯符」
「何時かまた、絶対ぇ来るから。其の時は…」
「…はい」

其の時は。
其れ以上は、紡がなかった。
もまた、孫策の言わんとする事を汲んで、頷く。
の瞳が星屑だけではない輝きを湛えて来た事を見て、孫策は立ち上がった。
少し遠くなった孫策に向かって手を伸ばそうとしたが、其れは許されないから止めた。
自分で自分を制するように、胸の下で手を組む。

、またな」

其の声が聞こえたと思ったら、既に孫策の姿はなかった。
またな…まるで、また明日も来んとせんが言葉の響き。
だが、孫策は来ない。
明日も、明後日も、明々後日も。
来ない日が何時まで続くかは判らないが、少なくとも、明日は来ない。

「はい、また…」

屋根を走っている筈の孫策の足音は聞こえない。
もう既に孫策が居たと言う痕跡も残っていない空に向かって、は漸く返事を返した。
伝わる筈はない。
しかし。

「お気をつけて」

馬の嘶きが小さく、聞こえた気がした。





「…何だ?」
「お待ちしていました…が」
「俺を?」
「いえ、を」

突然嘶きを上げた馬を慌てて黙らせながら、孫策は城門へとひた駆けた。
門兵に適当に挨拶をして城を出ようとした孫策を待ち受けていたのは、しかし趙雲だった。
閉じた門に凭れかかるようにして立っている趙雲に、門兵は酷く緊張しているようだったが、趙雲は其れを気にした様子も無く、走ってきた孫策のほうへと数歩歩むと、手を合わせ、挨拶をした。

「誰だ?御前」
「失礼しました、孫策殿。私は劉備殿が配下、趙子龍と申します」
「あ、御前が趙雲!?おう、そりゃ、手合わせしてぇな!!」
「はは、今度御時間がある時にでも」
「そうだな…残念だぜ。で、よ、趙雲。御前、の事知ってんのか?」
「私は馬超殿の屋敷に入れる人間の一人…と言えば御分かり頂けますか」
「…ああ」

自分も身を以て体験しているだけに、良く判る。
しかし、何故其の趙雲が此処で自分を待っているのか、孫策は判らなかった。
を待っていた、と言うが。

が孫策殿について行くのなら、別れぐらい、したいと思いまして」

孫策が口を開く前に、言わんとする事を察して趙雲が先に話す。
今日、馬超の屋敷に行く訳には行かなかったから。
が別れを告げる告げないは抜きにしても、自分が邪魔をする訳には行かないだろう、とそう思った。

「…は、行かなかったんですね」
「おう。選べないから、行けない…だってな」
「そうですか」
「…嬉しそうだな」
「…まぁ…には蜀に残って欲しかったですから。出来るなら、離れたくはなかったので」
「御前も俺と同じようなもんか」
「そう…ですね。私には想いを語る資格はありませんが」
「資格?…まぁ、良いや。其れよりよ、何で俺とが一緒に行くかも知れない、って知ってたんだ?」

思い出したように、孫策が今更ながら疑問を口にする。

「偶然、ですね。偶然と偶然の重なり合いだと思います」
「ふぅん…?で、が出て行くかも知れないから、止めに来た…んじゃねぇのか。別れを言いに、って言ってたな、御前」
「ええ。止める心算はありません。の決めた事ですし、何より…孫策殿、貴方ならばを任せても大丈夫だと…そう思えましたから」
「…。ん?俺、御前とどっかで会ったりした事あったっけ?」
「ないですね」
「ならよ、何で」
「はは、余り気にされないでください。私は只、がとても楽しそうに笑っているのを見ただけです。貴方の隣で」

孫策の傍で、趙雲が見た事のない類の笑顔をは浮かべていたから。
其の理由だけで、任せるに価する。

「…御前、嫌な奴だな」
「……は?私がですか?」

突然の孫策の言葉に、趙雲の目が点になる。
何か失礼な事でも言っただろうか、と交わした言葉を思い返すが、思い当たらない。
趙雲が答えを求めて思考の海に潜っていると、孫策が馬を下りた。
そして、懐を探って取り出した何かを、趙雲の胸に押し付ける。
上品な細工が施された、小さな木箱。
蓋には鉤がついていて、首に掛けられる程度の長さの紐が通してあった。
箱には沢山の切れ目が入っている…と言うよりは、幾つかの木材で複雑に構成してあるように見えた。

「渡す心算だった。けど、約束が出来たから…此れは必要ねぇと思った。だから、渡さなかった」
「…に、ですね」
「ああ。其の侭持って帰ろうって思ったんだけどよ、御前と話してる内に、如何しても渡したくなった。何でか解んねぇけど」

頼んで良いか、と訊ねている割には、有無を言わさぬ雰囲気がある。
趙雲は苦笑しながら受け取ると、そっと懐に仕舞った。
受け取った時に、からり、と何かが中で転がる音がしたが、中身は判らなかった。

「じゃ、俺は行くぜ。…を、頼んだ」
「…はい」

趙雲が手を合わせ、頭を下げる。
孫策はひらり、と馬に跨ると、夜間通行する為の、馬一頭が如何にか通れる程度の小さな門を開けて貰って、通って行った。
其の門も閉じられてしまえば、孫策の姿は既に見えない。
蹄の音が、夜の空に響くのみ。

趙雲はもう一度、頭を下げた。





孫策が去った。
判っているのに、は其処から動けずに居た。
孫策が花だらけのこの部屋で座っていた場所をじっと眺めるも、其の痕跡は何もない。
胸の下で組んでいた両手を解いて、じっと見てみた。
手の中には月の光が零れ落ちてくるばかりで、孫策と手を繋いだ痕跡もなかった。
孫策の体温は、疾うの昔に消え失せている。

――何も、ない

孫策の居た四日間の痕跡は何もなく、夢だったと言われてしまえば信じてしまいそうになる。
それ程までに楽しく、幸せな四日間だった。
泣かない、そう決めた訳ではない。
だが、何もないと実感すればする程、孫策の前では流さなかった涙が、溢れそうになった。
其れを堪えるようにして、は天を仰いだ。

「あ…っ」

――ありました、伯符

思わず声に出していた。
一つだけ見付けた、孫策の居た痕跡。
…ずれた、鉄格子。
これから先、あの鉄格子を動かす人間は、居ないだろう。
僅かにずれた鉄格子の存在に気付く人間など、本人が言っていた通り、趙雲しか居ない。
だから、約束を思い出した時、この部屋で空を見上げれば孫策が居る。
土を弄りながら天を仰げば、其処に孫策が居るのだ。

あの四日間は夢ではない。
もう、大丈夫だと思えた。
は緩く頭を振ると、踵を返して戸を開く。

「っ!!?」

「話し声が聞こえた…気がしてな」

「孟起……」

戸の先に、馬超が佇んでいた。
突然目の前へ現れた馬超に、が肩を跳ねさせて身体を硬直させる。
しかし、馬超の発した何処か弱々しさすら感じさせる声に、の硬直も少し解けた。
が恐る恐る馬超の瞳を覗き込むと、しかし、視線が合って瞳を揺らしたのは馬超のほうで、其の姿には心臓を跳ねさせた。
そんな表情を見せられるとは、思っていなかったから。

「だが、…気のせいだったようだな。人間が出て行く気配はなかった」

言うと、馬超は踵を返した。
部屋の戸口で、は其の後姿を見ながら動けないでいる。
そんな顔をさせる心算はなかった。
…否、馬超に全てを黙っていたのは、怒られたり怒鳴られたりするのが怖かったから。
其ればかりに怯えていて、馬超が哀しむ顔を見せるなど、考えた事もなかった。

――人肌の温かさ、もう、感じる事はないと思っていた

自分の体温で、馬超は温もりを感じてくれた。
心底安堵した表情は、今でも鮮明に思い出せる。
そんな馬超の心を、自分は…疵付けた。

「孟起!!」

気付けば歩いて行く馬超の背に向かって叫んでいた。
馬超が驚いたように、振り向く。
其の、普段からは考えられないような、の声量に。

「如何した、。俺も明日は流石に休みじゃないからな。そろそろ眠らねば」

そう言いながらも、廊下に一歩踏み出したまま足を縫い取られたように立ち尽くすの元へ、馬超は歩を進めた。
近付いてくる馬超の顔からは、何時ものような覇気が見出せなくて、は気付けば拳を握り締めていた。
馬超が何処まで気付いたかは判らない。
だけれど。

――黙ってようかとも思ったけどよ、やっぱ駄目だ

そう言って伝えてくれた、孫策の想い。
黙っているべきなのは、の為か、孫策自身の為か。
しかし、としては、伝えて貰えて良かったから。
だから、馬超にも…全てを伝えるべきなのだと、そう思った。

「…?」

何時までも動こうとしないに、馬超が怪訝そうに眉を顰めた。
また頭が痛くなったのか、との顔を覗き込みさえする。
馬超がの腕を優しく掴んだ。
大丈夫か、ともう一度声を掛けられる。
は、腕に置かれた馬超の右手をそっと両手で包み込むと、真直ぐに馬超の瞳を見詰めた。
自分が残った理由を、改めて思い出す。

今の気持ちでは、どちらか一人を選べないから。
だから、馬超への恩を返す為と言う理由で此方に残った。
其れに何より、全てを話さぬまま出て行く訳には行かなかったから。
自分に誰かを、何かを選ぶ資格が与えられるのは、馬超に全てを話してからだ。

…違う。
其れも理由の一つではある。
だが其れは、の中にある理由のほんの一角に過ぎない。
何時かまた選択肢を与えられた時の為とか、そんな事は正直なところ、如何でも良かった。
今は只、兎に角。

何も知らないで居る内に、馬超にそんな顔をして欲しくないから。



「孟起…お話が、あるんです」



一騎の人馬が夜の成都を駆け行く。
蹄の音は、二人には届かない。







『御相手・『孫策・馬超・趙雲』の誰か。』という、実に適当な指定でキリ番のリクエストをしたのですが、
贈ってくださったこの大作に、双屋の動揺が激しいの激しくないのって…!
また、双屋のツボ突きまくりで悶え死ぬかと思いました…これで修羅場も乗り切りました。本当に有難い事です…!
やっぱり結菜さんの書く夢小説は絶品です(>▽<)ノシ
双屋が夢小説に興味を持ったのも、元はと言えば結菜さんのサイトに偶然訪れてからです。結菜さんがいなかったら夢小説書いてなかったかもしれません。心のお師匠様ですv(また嫌がられますよ)
贈呈並びに掲載許可、本当に有難うございました!!

■結菜様のステキサイトはこちら(休止中)→ 

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