総身を支配する不快さにより、曹丕は正気付いた。
此処は、どこだ。
身を起こそうとして、彼は痛みから来る苦吟を、喉の奥で噛み殺す。ひたり、と冷たいものが、頭上から降りてきて頬を濡らした。
「あ。目が覚めた」
ぱたぱたと軽い足音がして、曹丕はそこに視線を向けた。
「良かった。もう駄目かと思ってた」
若い娘だった。よいしょ、と勇ましい掛け声と共に、手にした桶を彼女は地面に下ろす。
音からして、水が入っているようだった。
「……お前は何者だ」
「そりゃこっちの台詞だよ」
ぞんざいに彼女は言い捨て、曹丕から見ればおぞましいとしか言いようのない、汚らしい布を桶に突っ込んだ。
「水を汲みに来たら、あんたがそこの沢でぶっ倒れててさ。あ、こいつは良いもんめっけた、って」
「……良いもの…」
娘は顎をしゃくう。
「高そうなもん、着てるじゃないか。身ぐるみ剥いで売っ払ったら、一年ぐらいは食えそうだし」
それを聞いて、曹丕はいやな顔をした。
この娘は、盗人か。そう考え、不愉快になる。
「それがさ、まだ生きてるから。いくら何でも、死んでないのに裸にすんのも可哀想じゃん」
ぽんぽん、怒濤のように娘は言葉をぶつけてくる。騒がしい事この上ない。
「此処はどこだ」
伸びてきた娘の腕を払い、そう呟くと、彼女は覚えてないの、と呆れたように腰に手をやった。
視線を巡らすと、固い岩肌が露出した地面に敷かれた藁の上に、自身が横たわっているのが見えた。
血と泥に汚れた右足に、これまた薄汚れた布が巻かれている。
動かそうとしたが、そこは曹丕の意には従わなかった。
ふん、と片頬を歪めた彼の鼻腔に、微かな水の音と匂いが届く。彼は記憶の断片を手繰り寄せた。
間道から雲霞の如く湧いて出た伏兵に対応しつつ山中に進み――折悪しく降り出した雨で地面はぬかるみ、それに足を取られた馬から放り出され――
「……落ちたか」
斬り掛かってきた敵の、恐怖と憎悪が綯い交ぜになった醜い顔を脳裏に浮かべ、曹丕は頭上にそびえ立つ崖を見上げて無様だな、と呟いた。
「いいじゃん」
脳天気な声がした。
「生きてるんだからさ。それに越した事はないよ」
「蒙昧な愚民には分からぬ道理であろう」
「もうま、い…?」
きょとん、と娘は曹丕の言に首を傾げた。
「何それ」
「……愚か、という事だ」
いい加減、面倒くさくなって曹丕はその場に転がって目を閉じた。
こんな事態を招いた自分が嫌になる。己が駆り出されなくとも片が付きそうな、と目論んでいた戦にこれ程までに手こずるなど。
父が知ったら何と言うだろうか。
「あんたは馬鹿じゃないっての」
押し殺したような声が、すぐ傍で聞こえた。
「知ってるよ。あんた、兵隊だろ」
「違う」
自分を、兵卒と間違えたか。
曹丕の口元に浮かんだ憫笑は、すぐに消えた。
「さんざん、あたし達を苛めやがって」
震える声と共に、首元に加わった圧力に、彼は目を開いた。至近距離で、黒々とした大きな瞳が、彼を射抜いていた。
「何さ!兵隊がなんぼのもんだってんだよ!あんた達が好き勝手な事するもんだから、みんな、みんな大迷惑してるんだ!なのに……馬鹿だって?!あんたに偉そうに言う資格なんか、ないんだよ!」
「では何故助けた」
口元を歪め、曹丕は嘲笑う。
「放っておけば良かったろう。私に情けを掛けて、褒美でも期待したか」
睨み据えてくる黒い瞳が、ぎらぎらと光った。次いで。
「……かっ…勝手にしやがれっ!」
頬に走った衝撃に、曹丕は暫く、状況が飲み込めなかった。
殴られたのだ、と悟った時には、娘の姿はなかった。
娘の名は、といった。
「ほら!そっちの腕、出して!布取り替えるから!」
「煩い。喚くな」
「くーっ!どこまで憎たらしいんだろうねこいつは!」
だったら放っておけば良かろう、と曹丕が言うと、は、困っている人を放置は出来ない、とがなるのだった。
「死んだ父ちゃんと母ちゃんが言ってたんだよ!約束させられたんだ、ちゃんと困ってる人の面倒を見るんだ、って!」
じゃなかったら誰があんたの世話なんかするかこのすっとこどっこい、と喚くを、曹丕はつくづくと、奇異な生き物を見るような目で眺めた。
は、騒がしい。
そして、すぐに曹丕を殴る。
このようなむさ苦しい場所にはいられぬ、と呟くと後頭部をはたかれ、これは犬の食い物か、と差し出された椀の中身を見て言えば跳び蹴りをされた。
大嫌いだ、あんたは悪魔のように性格が悪い、と決めつけられた時、曹丕はちょうど自身の肋骨のあたりに風が吹き抜けるのを覚えた。
しかしそれは、乾いていて、不思議と温みがあった。不愉快ではなかった。
「はこの土地の者か」
「そうだよ」
「齢は幾つだ」
「十六」
「……見えぬな」
「な、何だよ!餓鬼っぽいとか言う気だろ!ぶちのめすよ?!」
「騒々しい。お前の側にいると頭が痛む」
「何ぃっ?!」
「今、助けるのではなかった、と後悔しているだろう、」
「いっつもそう思ってるよ!この、おたんちんが!」
勝手にしろ、あんたなんか死んじまえ、と頻繁に口にする割に、はまめまめしく曹丕の介護をした。
卑しく、学の無さ一級品で曹丕をあしらうを、次第に彼は受け入れていった。
心中に侵入を許すのと同時に、面白い女だと思うようになった。
は曹丕を怖れない。
平気であんた呼ばわりし、説教を垂れ、鉄拳を喰らわす。
(このような相手、なかなかざらにはおらぬ)
いつも阿るようにびくびくと自分を見、媚び諂う相手に囲まれていた彼にとって、は未知の生物であり、興味をそそられる対象でもあった。
はいつも、太陽が上る頃に曹丕の前に現れ、日が暮れる前に姿を消す。
彼女が暮らす村では、めぼしい大人は皆兵に取られるか死ぬかして、老人と子供しかいないそうな。
「どっかの誰かのせいでね。あたしみたいなんでも大事な働き手なんだよ」
曹丕の看護をする傍ら、はよく、藁などを持ち込み、何かを作っていた。
それは何だ、と訊くと、笊だという。
「見た事無いの?あんた、どこのお坊ちゃんだよ」
ふん、とは笑い、次々と、曹丕が見知らぬ品々を、素早く、作り上げていく。
「ホントはあんたを村に連れてった方が、何かと都合が良いんだろうけど。あんた、武器持ってるだろ。みんな怖がっちゃうよ。まだその足、動かせないだろうし」
「お前の村とやらになど、足を踏み入れたくもない」
そう言うと、作成途中の笊が飛んできた。
「この、根性悪ー!いっぺん死んでこいー!」
ぷりぷりしてが座を蹴って走り去っていくのを見送り、曹丕は笊を拾い上げて一人ごちる。
お前だけで良い。
村に紛れ込んでいらぬ詮索を受けるより、騒がしく、無教養だけれど、自分を真っ直ぐに見つめるが一人いれば良い。
口汚く罵るけれど、けっして「嘘」は言わないがいてくれれば、それで良い。
曹丕はそう思った。
数日もすると、曹丕は立ち上がってゆっくりとではあるが、辺りを歩けるようになっていた。
「良かったじゃん」
は開けっぴろげに喜んでいた。
「あたしの看病の賜物だね」
「時が経てば治癒はする。何も不可思議な事ではない」
そう言うと、は心底うんざりしたようで、ホントにヤな奴と呟いた。
「」
「何だよ」
「私の許に来い」
その曹丕の発言に、はぽかん、となった。
「何それ」
「私と共に来い…さすれば、望みは何でも叶えてやる」
「どうしてあんたと一緒に行かなけりゃなんないのさ。あたしには村があるもん。行かないよ。それに、あたしあんたなんか大嫌いだし」
そう、無造作に続けられた言葉に、曹丕は口の端を下げた。
には、何度もあんた嫌い、と叫ばれている。
それに伴う応酬は、彼にとってこころよいものだった。ふわり、と軽い羽根で胸奥をくすぐられるような。
しかし、何故かその時、嫌い、という一言が、身の内の、どこか小さい、柔らかいところを刺したような気が、曹丕にはしていた。
不意に湧いた「それ」の正体を、曹丕は掴み損ねた。名前も、分からなかった。
じゃぶじゃぶと、近くの川で鼻歌交じりに包帯代わりにしていた布を洗い、戻ってきたの手を、曹丕は掴んだ。
無意識に。
おそらく、香料をまぶされる事も、薄絹を纏わされる事もその十六年の生涯で、一度たりとも無かったであろう、その肌を。
抱き寄せたの躯からは、ほんのりと、日なたの匂いがした。
幼い頃、宮城の端で見付け、こっそりと飼っていた――そして、それを知られて無理矢理取り上げられてしまった、子犬の事をふと思い出した。
あの犬は、どうして、しまっただろうか。
飢えて、きゅんきゅん啼いていたそれを、物欲しげなと嘲笑いつつ、どうしても、様子を見に行かずにはいられなかった。餌を放り投げ、離れた場所で座っていると、おずおずと、近寄ってきていた。慣れぬ手つきで不器用に抱き上げると、子犬は我慢するように、怖いのを抑えるかのように曹丕の腕の中で踏ん張っていた――
そうだ。
あの犬も、確か、こんな匂いをしていた。
やっと触れる事が出来るようになったのに、そんな物を、と大人達に叱られて、さらわれてしまった。
(確か……)
あの日が最後だったのではないか。
曹丕はの髪に頬を埋めて目を閉じた。
あの日が最後だったのだ。涙を流したのは。
つまみ上げられて、連れて行かれる子犬を、じっと見送った、あの日が――最後。
「何、するんだよっ!」
突き飛ばされて、曹丕はよろけた。
大きな黒い目を瞠って、は彼をじっと見つめていた。
そこに、明らかな色が……はっきりと、濃い怯えが浮かんでいるのを、曹丕は悟った。
「……嫌い」
あんたなんか、嫌いだよ。
やや血の気が引いた唇を戦慄かせ、はそう吐いて後じさった。
こけつまろびつ走り去っていくの後ろ姿を、曹丕は、あの日と同じように黙って見送っていた。
日なたの匂いは、彼の腕からすばやく、消えて失くなっていった。
翌日は、ぐずついた天気だった。
その次の日も、同じようにぱっとしなかった。
は、来ない。
あれから来なくなった。
姦雄の子がこのような場で果てるか。
それも悪くない、と曹丕は嘯いて茫洋と天を見上げた。
(は、何をしているだろうか)
相変わらず、あの魔法のような手の動きで、見た事もないような物をせっせと作っているのだろうか。自分を追い立てていたように、村に遺された子供の面倒をみているのだろうか…。
飢えてはいないだろうか。
寒くは、ないだろうか。
痛くは、ないだろうか。
怖い思いを、していないだろうか。
他者に対して、そのような事を慮る自分の気が、曹丕は知れなかった。
自分は忘れたのではなかっただろうか。
あの日、子犬を連れ去られてより、そういう感情は自分には無縁、棄てたのだ、と信じていたのに。
遠くから、規則正しい物音がしてくる。
曹丕はそのままの格好で、手だけ動かし、傍らの得物を探った。
首を与える前に、道連れを一人でも多く。
そう思ったからだった。
「曹丕様――!」
複数の馬蹄の音と共に現れた麾下に、彼は肩を下ろした。
申し訳ありません、そう口々に叫び、馬から転がり落ちるようにして地べたにぬかづいた部下達を、彼は無感動な目差しで見やった。
この者達は、こうして彼の前に拝跪する。
それはもう、見事なまでに。
地に伏せたその顔がどんなものになっているのか、曹丕は確かめる事は出来ない。
上から見下ろしている限りは。
(……は)
真っ向から曹丕の顔を見据えてきた。
土下座も、しなかった。露骨なまでに己の思い、感情を晒してきた。
二度と、ああいう具合に振る舞う人間には出逢えない。配下に助けられながら騎乗し、曹丕は、心の中で呟いた。
望みの物を与える、と自分は言った。
本当は、自分がそうしたかった。それが、彼の「望み」だった。
来て欲しい、それが望みだったのだ、と。
「……この近在に」
あれこれと無事を言祝ぐ部下の横を素通りし、彼は訊いた。
この近くに、村はないか、と。
そう尋ねたのはただの未練。滑稽な、と我が身を笑う曹丕の表情は、次の言葉で凍り付く。
村は、焼かれたと。
自分達があるじを探し歩いている時、ちょうど、盗賊達が、村を、襲った、と。
曹丕の目裏に、ありありと、まざまざと、ぶらさがった子犬の残像が、ちらついた――それを知覚するより早く、彼は高く、鞭を馬の尻に向かって振り下ろしていた。
は自身の意志で此処に来なかったのではない。
来られなかったのだ。
村が襲われて、焼かれて、動く事が出来なかったのだ。
彼女の言葉通り、村には老いた者と子供しかいなかった。これでは、防ぐ手だてもない。
あんた達のせいで、村は駄目になったんだよ。はいつもそう言って、曹丕を詰った。
その彼が、今まさに血走った目をして、なまぐさい血と煙の匂いに燻る村に立ち、長老と思しき老人から的を得ぬ、要領を掴めない説明を受けている。
死人は、運良く出なかったのだ、という事が知れた。
「そちらの将軍様がたに、助けて頂いて……」
老人は震える身体を揉み絞り、慌てて曹丕に追随してきた部下達にも平身低頭をする。
もう良い、はどこだ、と告げようとした時、曹丕は老人が、娘っ子が何人か、賊に連れて行かれたと悲しそうに呟いた。
「未だ子供じゃったのに……むごい事を……」
か。
が、連れて行かれてしまったのか。
声にならない呻きを、曹丕は上げた。
痛みには耐えられた、苦痛の声を。
やっと触れる事が出来たのに。
大事だと思える事が、出来たのに。
その淡い想いは、形をなし色を付けるより早く、溶けて消えたのだ。
連れて行かれてしまった。
あの日と同じように。
あたたかだった、日なたの匂いは、もう二度と帰ってこない…。
「何してんのあんた」
その時。
怒りっぽい、口汚い罵りを耳にし、顔を上げた。
が、泥だらけの手足のまま、曹丕の前に立っていた。きっ、と、彼を睨んでいた。
「こんなとこに来んな馬鹿!」
の顔は、芸術的なまでに煤だらけだった。思わず、曹丕は見蕩れてしまう。
まっすぐ射抜く、その瞳に。
悪し様に、さっさと帰れ、おたんちん、と叫びまくる、その口元に。
彼女の雑言に、抜刀しかけた配下の手を、曹丕は止めた。
「生きていたか」
「へっ!生きてて悪かったね!あんた達がここらへんを荒らすもんだから、ロクでもない盗人まで来やがんだよ、この疫病神!さっさと帰りやがれ!この、馬鹿野郎!」
「拉致された者がいると聞くが」
たちまち、は萎んだ。
「二人…あいつらに連れてかれちゃったよ」
「連れ戻してやる」
え、とは虚を突かれた顔になる。
「ホント?ホントに?」
「無事に連れ戻してやろう。お前が私と来るならば」
引き攣るその顔を、まじまじと眺めて曹丕は重ねて、その者を保護するゆえ、私と来いと告げた。
「こ、交換条件なの、それ……」
「どう捉えても構わない。来い」
「え、偉そうに…!」
「偉そうに、ではない。偉いのだ。お前の望みは何でも叶えると言ったろう」
暫し、は妙な声を上げ続け、そして、奥歯を噛みしめて再度俯いた。
「……あんたなんかに叶えられっこないよ」
「不可能と言うか」
眉を上げた曹丕に、は、じゃあ死んだ父ちゃんと母ちゃんをあたしに返してよ、と喚いた。
「あんたが戦をするせいで、父ちゃんも母ちゃんも死んだんだよ!何でもくれるんだろ、じゃああたしの親を返せ!」
「そんなものが欲しいのか」
「そっ…そんなものってなんだ!馬鹿にして!」
「もっと良いものを望め、」
曹丕はそう言いながら、に腕を伸ばす。
触れたぬくもりは、やはり、日なたの匂いを彼に与えた。
「私を、やる」
「はっ?!」
お前に、「私」をやろう。
有り難く、受け取るがいい。
そう囁くと、の顔が朱に染まった。
「ばっ!ばっかじゃないの!」
「父母より良いものだ」
「いっ、良いわけがあるかー!」
死ね、馬鹿、降ろせ、このど畜生、と喚くを難なく馬上に引き摺り上げ、曹丕は固まっている部下に下知を与え、悠々と馬に鞭を当てた。
手に入れた日だまりは、きっと、これからも自分に心地よさを与えてくれるに違いない。
さすれば、それに見合うものを返すのが礼儀というものだ。
曹丕は、その取引に心底満足して、のがなりを聴きつつ、帰還の途についた。
FIN.
■以前にリンクのお礼として何か書かせて下さいとお願いしたところ、じゃあお返しに何か書きますよと逆に申し出ていただいた次第です。棚ぼたラッキー(何)
書きあがったらリクエストお願いしますねと約束してもらい、早もう(言いたくない)。
新城様は早かったです…リクエスト適当でしかも候補複数出して誰でもいいっていう曖昧さにも関わらず、素晴らしい品を書き上げて下さいました(人様にリクエスト出すの苦手ですみません…)。
曹丕が『私をやろう』って言うんだ…想像しただけでもあのボイスが耳元で囁いちゃう訳です。
頭の中で声が再生できる台詞書くのって凄いことですよ!?
どんだけ(2007年流行語)よ!ってなもんです。
新城様の書くヒロインちゃんは性格が可愛くてたまらないのです。この後甄姫にいびられるといい!(ぇ)
でもこのヒロインちゃんならきっとやり返す。やり返してくれる。素敵!
妄想の国にいって帰ってこられなくなりそうなのでとりあえずこの辺で。
いつも思うのですが、戴く品戴く品裏サイトに載せるの勿体ねぇな!と思います。
自分も精進出来るよう粉骨砕身いたします。
新城様、本当に有難うございました!
■新城様のステキサイトはこちら→ ■
他の賜り物を見る →
夢小説分岐へ →