孫堅が遠乗りに行こうと言った。
 は、くるりと首を巡らした。
 半分だけ開けてある格子からは、美しい星々が瞬いて見えた。
「……まだ夜だよね」
 寝惚けた頭で、何とかそれだけ言った。
「もうすぐ、明けるぞ」
 爽やかに言い放つ孫堅に、はこれはきっと夢だ夢なんだよははは、と独り言を言いながら上掛けの中に潜り込んだ。
 突然体が宙に浮く。
 視界は上掛けに覆われていて、一体何が起こったのか分からない。
 パニックから意識は覚醒したが、事態が好転するわけではない。
「なっ、ななっ」
 じたばたと手足をばたつかせると、孫堅の声がした。
「暴れると、兵士達に足やら腿やらを見られる羽目になるぞ」
 孫堅が上掛けごと担ぎ上げて運んでいるのだと分かった。
 は、むきーっと怒声を挙げたが、孫堅はさも楽しそうに笑うのみだった。

「いつまで不貞腐れている。もう夜明けが近いぞ」
 馬を駆けさせながら、孫堅はいなすようにの体を軽く揺さぶった。
 孫堅にしっかりと抱えられながら、はぶすっと膨れた顔を東の空に向けた。
 空が薄明るくなってきている。孫堅の言うとおり、夜明けが近いのだろう。
 しばらく行くと河岸に出た。そのまままたしばらく馬駆け、止めた。孫堅は自分が先に降りてから、次いでを支えて降ろしてやる。
 は現代人で、馬には乗ったことはおろか触ったことすらない。こんな時は、どんなに腹を立てていても言いなりになるしかなかった。
「見ていろ」
 孫堅が河の向こうを指差す。
 と、まるで孫堅の合図を待っていたと言わんばかりのタイミングで地平線にすぅっと光が射し、零れんばかりの勢いで太陽が顔を出した。
 川面にきらきらと金粉を撒いたかのように光が乱射する。薄紫の雲が金の光に眩く輝き、空一面が鮮やかに輝いた。
 息を飲む。
 何処までも何処までも広い大地の隅々にまで、光はさっと広がり全てを包み込んだ。
 やがて太陽がその姿を現すまで、は呆然として美しい色彩の変貌を見つめ続けた。
「これを見せたかった」
 孫堅が、の肩を抱き微笑みかける。
「眠っていては、見られない景色であろう?」
 は、まだ何となく納得できないものを感じながら、それでも黙って頷いた。

 馬をゆっくりと歩かせている。
 早く帰らなくていいのかな、とは孫堅を見上げた。
 日は昇りきって、朝の涼しい風が吹いている。そろそろ朝の仕事が始まる時間ではないだろうか。
 孫堅はに安心させるように微笑みかけ、二股の道で右の手綱を引いた。
 馬は右側の道を行く。ほどなくして徐々に木が増え、林の中に入っていっているように思えた。
 行きがけに、林の中など通っただろうか。
 は首を傾げ、再び孫堅を見上げた。
「腹が空かないか」
 そう言われてみれば、朝飯もまだ食べていないのだ。
 弁当でも持参しているのかと思ったが、孫堅は手ぶらだ。では、食堂なり孫堅の知人の家なりがここにあるのだろうか。どうも、人気が段々なくなっている気がするのだが、気のせいなのだろうか。
 そのうち、ごうごうという地響きめいた音が聞こえてきた。
 おや、と訝しく思って目を凝らす。
 ひんやりとした空気が流れてきて、茂みを幾つか抜けると小さな滝のようなものが現れた。
 孫堅が馬から降り、を降ろす。
 は、恐々と滝壺を覗く。思った以上に綺麗な水が、波紋を描いて波打っていた。
「……え、まさか、魚でも取るの? これから?」
 現代と違って、おなかがすいたからと言ってすぐにご飯が食べらないのは理解しているつもりだ。けれど、これから獲物を捕らえるのと城に帰って支度が整うのを待つのとでは雲泥の差があるのではないだろうか。
 言い出したら聞かないのも分かっていたから、孫堅が薄く笑うのを見て早々に諦めた。
 は岸から身を乗り出し、水の中に魚影でも見つけられないかと目を凝らす。
 突然背後から腕を引かれ、あっという間もなく孫堅の腕の中に捕らえられた。
「え」
 落ちそうに見えたのかと孫堅を振り返ると、唇が塞がれた。
 眼前に、孫堅の睫がそれこそ一本一本良く見えた。
 な。
 な。
 なに――――――――――――――――――っっっ!!!!!!
 突然我に返って暴れ出すを、孫堅はいとも軽くいなして押し倒す。
 まだしつこく巻いていた上掛けがはらりと広がり、茂った草むらがスプリングのようにの背を受け止めた。
「ちょ」
「ん?」
「なに」
「ああ」
 愛しているぞ。
 孫堅は、の耳元にそっと囁いて、その体をぐっと抱き締める。
 違う、そんなことを聞いているんじゃない。
 けれど、の体は力が抜けきったようにぐんにゃりと伸びていた。
 孫堅の低い笑みが耳から侵入して、から抵抗する気力を奪った。

 破瓜の痛みに浮いた涙を、孫堅は指で掬って舐めた。
 は、恨みがましく孫堅を見上げた。
「どうした?」
 孫堅はまだ半裸の状態で、にいたってはほぼ全裸の状態だ。
「……服……」
 の着ていた夜着は、孫堅によって剥かれての手が届かないところに投げ出されている。腰がだるくて起き上がれず、取りに行くことも出来ない。
「もう少し、いいだろう」
 何がいいんだ、と呻くに、孫堅はけろりとして言い放った。
「もう少し、お前の肌を眺めていたい」
 は怒りだか羞恥だか分からない感情に、顔を赤く染めた。見られるのも腹立たしくて、手で覆い隠した。
「……おなか空いてたんじゃなかったの」
 が責めるように言うと、孫堅は笑って言い返す。
「うむ、俺はどうも、腹が空いていたのではなくお前に飢えていたようだ」
 満たされた、と満足げに頷く孫堅に、は罵声を浴びせた。
 何が景色を見せたかっただ、夜は見張りの目が厳しいから、朝の人気のない時間を狙っただけ
じゃないか、朝日なんかで人の気を逸らして、よくも騙したな! 人の純潔、返せぇ!
 孫堅は、ただからからと笑い、愛しそうにを見る。
「お前が悪い」
「何でよ!」
「そんな薄い夜着一枚にお前の汗を吸った上掛けを掛けただけで、俺にもたれているからだ。男として見られていないのかと思うだろう。それに、俺はそんなに我慢強い方ではない」
 とってつけたような言い訳を、とが唸る。
 孫堅は悪びれもせず、まぁ、いい機会だとは思ったな、とけろりと白状してみせた。

 孫堅が遠乗りに行こうと言った。
 は、くるりと首を巡らした。
 半分だけ開けてある格子からは、美しい星々が瞬いて見えた。
「……まだ夜だよね」
 寝惚けた頭で、何とかそれだけ言った。
「もうすぐ、明けるぞ」
 爽やかに言い放つ孫堅に、はぼんやりと視線を向けた。
 人の処女奪っといて、まだ一日と経っていない。もう二度と顔も見たくない、と言っておいたのに、
しゃあしゃあと顔を出せる孫堅の神経が知れない。
「また変なことする気でしょう」
 孫堅は、困った、というように首を傾げた。
「俺にとっては、変な事ではないのだがな」
 寝台に腰掛け、指での髪を梳いた。
「……したいの?」
 寝惚けているのか、の言葉は唐突で衝撃的だった。
「……と、したくない時など、ないぞ?」
 落ち着き払って答える孫堅を、は軽く睨みつけた。
 しばらく目を合わせてから、は溜息を吐いた。馬鹿、と詰って、孫堅の肩に頭を乗せる。
 孫堅はの頬を撫ぜながら、顔を上げさせた。

 今朝の朝食は、ちゃんと食べられそうだ。


  終

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