趙雲の昇進と共に彼の下に配属が決まり、は思わず眉を顰めた。
 同期の下に就くのが嫌だったのではない。
 退社を決意していたからだった。

 TEAMが違うとは言え、入社当時から付き合ってきた恋人と別れたのは仕方なかったと思う。
 長い春は実ることなく、次第に互いに甘えるようになって、少しずつギクシャクした物を感じるようになっていた。
 切っ掛けは相手の浮気だったが、腹も立たなかった。
 心がそこまで冷えていることを覚って、から別れ話を切り出したのだ。
 このままでは二人の為にもならないから、と。
 同棲していた彼は、とは逆に怒り狂った。
 長い付き合いで馴染んでいたのもあったろうし、が部屋代を出して、浮いた金で新車のローンを払っていたのも大きかったろう。
 どうするんだよと詰め寄られて、は益々冷めていく心を感じた。
 もっぱら同僚や浮気相手と乗り回していた車の面倒まで見てやる気にはならない。
 部屋代だって、同棲を始めた時は折半の約束だったのを、相手が払わなくなっただけの話だ。
 相手が泊まりの出張の時を狙って、は自分の荷物を全部運び出した。
 やり口が気に入らなかったのだろう。同じ会社なのをいいことに、元恋人はのあることないことを社内に言い触れ回っていた。
 噂が夜の話にまで及ぶに至り、は退社を決意したのだ。
 とりあえず手元の仕事を限のいいところまで終わらせようと残業を続け、同時にマニュアルを作り、引継ぎの際に後任の人が困らないようにと段取りをつけていたところに、降って湧いたようなこの人事だ。
 の困惑は深かった。

 突然背後から肩を叩かれ、は驚いて振り返った。
 趙雲が、いつもの爽やかな笑みを浮かべて立っていた。この顔で新規顧客を掴んでいると評判の笑みだ。
「……えと、このたびは昇進オメデトウゴザイマス」
 棒読みだと言いつつ、趙雲は嬉しそうに笑った。
「だが、まぁ、ありがとう。……二人しか居ない係だから、仲良くやっていこう」
 握手を求められるが、受けたものだか悩む。
 が戸惑っている間に、趙雲はさっとの手を掴み、強く握りこんだ。
「これから、よろしく」
 有無を言わさぬ押しの強い言葉に、は曖昧に微笑んだ。
「人事の正式な異動は明日からだから、荷物の整理をしておくといい」
 趙雲はそう言うと、自分も整理するものがあるのかさっさとに背を向けた。
 ふっと振り返り、の耳元に、マニュアル作ってたの、役に立ったなと囁いて寄越した。
 驚いて趙雲の顔を凝視するに、趙雲はただ薄く微笑んだ。

 懇親会兼ねて呑みに行こう、と連れ出されたのは、帰り際、社屋を出てしばらく一人で歩いていた時だった。
 ぼんやりと考え事をしていたら、背後から趙雲に肩を抱かれ、そのままタクシーに押し込まれた。
「ちょ、ちょっとぉ!」
 走り出すタクシーの座席で、崩れた体勢を直しながら文句をつけると、趙雲はにっこり笑ってをじっと見つめた。
「言いたいことがあるなら聞こう。ただし、店に着いてから」
 確かにタクシーの中で揉めるのは、大人として分別がないかもしれない。
 は口をへの字に曲げながら、おとなしく趙雲の言葉に従った。
 趙雲は、くすりと笑ってシートの背もたれに体を沈ませる。
 同じ年とは思えないほど落ち着いた様子だった。
 は未だにヒラなのだが、文句を言わせないだけの業績と雰囲気が趙雲にはあった。
 だから、趙雲の下で働くことには文句はないが、今が辞めてしまえば、趙雲は同期の自分が上司になったからかと気にするかもしれない。
 誰がこの人事を決めたのかは知らないが、正直その人を恨みたい気持ちで一杯だった。

 来たこともない街の、来たことのないビルに趙雲は入っていく。
 慣れた風な足取りを、気後れするのを抑えて追いかける。
 狭いエレベーターの中で、後から入ったに被さるようにして階ボタンを押す。
 の鼻に、趙雲の体臭の混じったコロンの匂いが香った。
 コロンなんかつけるようには見えなかったのだが、彼女のプレゼントか何かだろうか。
 エレベーターが軽く振動して止まり、趙雲は自然にの肩を抱いた。
 廊下に敷かれた厚手の絨毯は、妙に体を浮つかせる。
 エレベーターから降りると、は何気なく趙雲の腕から逃れ、趙雲もまたを追わなかった。
 ビルの一角にある薄暗い店に入ると、趙雲は名前を名乗り、係の案内に従って奥に進む。
 壁一面に設えられた窓から、夜景がパノラマ状に広がる。
 案内してきた係の人に椅子を引かれて、はうろたえながら席に着いた。
 隣に腰掛ける趙雲に、良く来るのかと耳打ちすると、趙雲はくすくすと笑って否定した。
「そんなことしたら、給料が幾らあっても足りない」
 では、相当高いのではないだろうか。
 の不安に、趙雲は楽しそうに笑った。
「二人しか居ない係だからできることだな。それに、同期の私が上司だと、も遣り辛いだろう? そのお詫びも兼ねて、かな」
 趙雲の言葉に思わず俯いてしまう。
「……あの……さ……そのことなんだけど……」
 小さな声は、ソムリエの挨拶の声に打ち消されてしまった。
 趙雲は、手馴れたようにソムリエとワインを決め、またに向き直った。
 話す切っ掛けという、勢いを失くして、は別の話題を探した。
「慣れてない?」
「そんなことはない、前から練習してきた賜物だ。ワインなんか、分かるわけないだろう」
 ソムリエのお奨めに従っただけだ、と趙雲は笑う。
「……何か、言いかけなかったか?」
 顔を覗き込まれて、思わず仰け反った。
 いわゆるカップル席という奴で、席と席とが近いのだ。
「な、何でも、ない、です」
 親しかった同期から上司に代わった男と、どう話していいのかよく分からない。
 趙雲はの迷いを読んで、肩を軽く叩いた。
「職場では敬語、それ以外では今まで通り、ということにしよう。さすがに、一応役職付きだから」
 が早く出世して、タメ口に戻してくれればいいと趙雲は笑った。
「あ、あの、ね」
 今だ、と見切って話をしようとすると、ソムリエが戻ってきて趙雲にワインを見せる。
 は再び口を閉ざし、俯いた。
 趙雲の目が、すっと細められた。

 結局食事が全て終わり、ワインを空けてしまっても、は趙雲に退職の決意を言い出すことが出来なかった。
 緊張からか酒の回りが早く、ただひたすら眠かった。
 趙雲がタクシーを呼び止め、着いたら起こしてくれるというのをただ鵜呑みにして、何時の間にか眠ってしまっていた。
。……
 耳元に囁く声に覚醒する。
 趙雲に支えられて、立ったまま寝こけていた。
「えっ、あっ、ごめんっ!」
 慌てて体を離そうとして、意のままにならない体がふらふらと宙を泳ぐ。
 趙雲が支えてくれなければ、地面に激突していたかもしれない。
「……あれ、ここ……」
「会社」
「……だよね」
 簡潔な趙雲の返事に、やはり寝惚けては居なかったのだと安心した。
 けれど、何故会社なのだ。
が寝こけて家の住所を言わないからだろう。男の一人暮らしの所に連れて帰るわけにもいかないから、会社に戻ってきた」
 そう言って何故か社屋に入ろうとする趙雲に、は疑問の目を向ける。
「……終電、そろそろ出てしまっている時間だ。仮眠室で寝て、帰るとしても朝一で帰ればいいだろう」
 ある施設は使わないと損だ、と趙雲はを連れて社内に入っていく。
 それもそうか、とは深く考えずに趙雲に従った。
 趙雲は、仮眠室ではなく仕事を行うフロアにを運んだ。
 新しい席に座らせると、自販機から冷たい水を買って来てくれた。
 有難く受け取って、口を付ける。
 が水を飲む様を、趙雲はデスクにもたれて見つめている。
「……何?」
「いや」
 が目を向けると、さっと視線を逸らした。
「……、会社を辞めるつもりか?」
 突然、言いたくて言えなかった言葉を趙雲に言われてしまった。
 驚いて固まるに、趙雲はばつの悪そうな表情を浮かべた。
「やはりな」
 趙雲は、もう一本の水のボトルを開けると、半分ほどを一気に飲み干した。
「……私が上司になるのが嫌なのか」
 そうではない。
 は慌てて首を横に振った。反射の行動だったが、頭を振ることでより酔いが回った気がする。
「では、何故。……あの、噂のせいか?」
 趙雲の耳にまで達しているとは思わず、は顔を赤くし、次いで青褪めて俯いた。
 とん、と小さな音がして、が顔を上げると趙雲がの前に回りこんできたところだった。
 え、と思う間もなく唇を塞がれて、アルコールで焼けた舌が絡み付いてくる。
 身を捻り、腕を突っぱねてようやく趙雲の体を押し退ける。
「なっ、何考えてんの、ここ、職場だよ!」
 趙雲はただ、薄く笑うのみだった。
 何事もなかったかのように唇を合わせ、今度は邪魔なの手をまとめて戒め、デスクの上に押し付ける。
 圧し掛かられる体勢が不利を招き、は趙雲の体を退けることが出来なかった。
 唇が離れ、こんこんと咳き込むを、趙雲は複雑な心境を浮かべた瞳で見つめた。
「私がのことをずっと好きだったの、知らなかったろう」
 不意打ちのように告白され、の動きが止まる。
「あんなつまらない男に引っ掛かるから、こんな辛い目に遭う」
 こんな辛い目とは何だ、今こうして圧し掛かられていることか。
 の表情が険しくなるのに対し、趙雲は苦笑いを浮かべ、をあやすように髪を梳いた。
「好きだ」
 耳元に吹き込まれ、鼓膜が痺れるようだった。
「……っ、だから、職場だって、言って……!」
 趙雲の空いた手が、服の上から胸の膨らみを撫で回す。
 ぞくぞくと寒気に似た快楽が走り、は自由を奪われた体を蠢かせた。
「やっぱり、噂は嘘だな」
 の胸を柔らかく揉む手を休めず、趙雲は微笑んだ。
「不感症だなんて、良く言ったものだ」
 事実である。
 別れた恋人とのセックスでは、はほとんど感じることなく、濡れずに突っ込まれる苦痛に何度呻いたことか知れない。
 では、今こうして喘いでいるのはどうしてなのだろう。
 職場という場所に背徳感を覚え、体が反応してしまっているのだろうか。
 それとも……。
「やんっ!」
 するりと撫でられた下腹部の指は、そのままスカートの裾を捲り上げて中に忍び込む。
「ちょっ……駄目、触んないでってばっ!」
 涙目での訴えも虚しく、趙雲の指は濡れた下着をなぞる。
「……このまま放り出して、平気なのか?」
 趙雲の吐息も熱く弾んでいる。
「……へ、いき、だも……っ!」
「本当に?」
 強く押し込まれて、最後まで言葉を言い切ることが出来ない。趙雲の声に笑いが含まれているのに、は眉間に皺を寄せて抗議する。
「……私は、無理だ」
 趙雲が体を摺り寄せてくる。
 足の間に、固く膨れ上がっているものがあるのがわかった。
 体が勝手に反応して潤っていく。
 趙雲が体を揺らし、固い物を押し付けてくる。挿入の仕草にも重なり、は頬を染めた。
「も、や……馬鹿ぁ!」
 ひーん、と喚くの顔は真っ赤だったが、抵抗の素振りはなかった。
「挿れていいか?」
 趙雲が囁くと、は怒ったように顔を背けた。
「挿れて、いい?」
 尚もしつこく尋ねてくる趙雲に、は深く息を継ぎ、こくりと小さく頷いた。
 趙雲の指が、のショーツを手繰り、足から引き摺り下ろす。
 濡れてしまったショーツを丸めて床に落とし、趙雲はの足の間に立った。
「何時か、挿れてほしいと言わせてみせる」
 にっこり笑って馬鹿なことを言い出し、がかっとして飛び起きようとした瞬間、趙雲の昂ぶりが一気に秘裂を貫いた。
 高い声を上げて仰け反るを、趙雲は抱え上げて椅子に座った。
 エアで高さを調節する椅子が、二人分の重さにぎしりと嫌な音を立ててわずかに沈む。
 自重で深く貫かれるが掠れた声を上げるのを聞きながら、趙雲はの腰を揺さぶる。
「こうしてを抱く日を、よく妄想していた」
「い、いつも、こんなこと考えて、たの……っ!」
 揺さぶられながらも、ヘンタイ、と罵るに、やはり趙雲は笑って返す。
「うん、考えていたな」
 下から跳ね上げられ、の声が大きくなる。振り落とされないように趙雲の首に手を回し、大き過ぎる快楽に耐えた。
 まだまだレパートリーは多いから、覚悟しておくといい。
 趙雲はそんなことを言って、に詰られても嬉しそうに笑っていた。
、やはり出世しなくていい」
「……な、んで……!」
「ヒラなら、椅子に手すりがないから、動きやすい」
 趙雲が真面目腐って言った言葉に腹が立って、背中に爪を立ててやった。

 本当は、も主任に昇進予定だったのを趙雲が横槍入れて阻害したのだと、他ならぬ本人が白状した。
 理由が『同じ係になりたいから』で、それがそのまま通ってしまうTEAMの人事に眩暈を覚える。
 社則上だけのこととは言え、役職二人のみの係は許されていない。
 二人きりの係なのも、その我がままを通す代わりという条件だったらしい。
 与えられる業務の多さと忙しさを思うと、今度は頭痛がした。
には、私の槍を入れたかったからな」
 横槍入れるなど、造作もなかったと嘯く。
「……趙雲係長が、その若さでセクハラ親父ギャグ飛ばす人だとは思ってませんでした」
「これから知っていってくれればいい」
 嫌味を言ってやったのに、返ってきた趙雲の笑みはやはり爽やかで、頭にくるくらい綺麗だった。
「もう、これからずっと残業続き決定だって言うのに、何嬉しそうに笑ってんのよ!」
「そうだな、大変だから、いっそ一緒に住もう」
 それなら持ち帰り残業も楽になるし、遅くなっても二人で外食すればいいだけで、食事の支度を気にかける必要もない。うちのマンションは分譲で、私がローンを払っているから家賃の心配もしなくていい。
 いいこと尽くめだと嘯く趙雲に、は念入りにはめられていく自身を呪い、まだあれこれとうるさく言い募る口がやかましくて、キスをして黙らせた。


  終

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