今年のバレンタインデーは土曜日である。
 よって、通常同じ職場に居る相手に渡すには、その前日たる金曜日に渡す者が多い。
 K.A.Nは週休二日制で、土日は基本的に休日だ。中には、休日何それ美味しいのと言う切ない状況の者も居ないではないが、義理チョコ渡しにわざわざ出勤してくる物好きは居ない。
 TEAM間は仲良くないのが通例なので、TEAMの外にチョコレートが出回ることは(傍目には、であるが)ほとんどなかったが、代わりに各TEAM内では、大きさも色も取り取りの箱や包みが忙しく飛び交っている。
 ここTEAM魏であっても、その光景は他TEAMとは変わらない。
 男性陣のデスクや足元には、山のようなチョコレートが積まれている。
 司馬懿のところにもそれなりの数のチョコレートが集まっているが、当の司馬懿は苦虫噛み潰したような表情を崩さない。
 製菓会社の陰謀を快く思わないのはお約束として、多忙の身の上でお返しを考え探し買い求めるといった一連の行為を考えると、今からぐったりしてしまうのだ。
 未だに三倍返しなどとたわけた妄想を口にする者も少なくなく、プライドの高い司馬懿は己の矜持と相手からの賛辞を引き出す為に掛ける労苦のバランスに、毎年四苦八苦する訳である。
 中にはそのバランス結果のレベルの高さに狙いを付けて、その気もないのに送り付けるというような不届き者も紛れているのだが、これはこの際蛇足の話だった。
 ともあれ、朝からほぼひっきりなしに届けられるチョコレートを、司馬懿は横目で見遣る。
 数の多さにうんざりしている訳ではない(多少はそれもある)。
 むしろ、その中にあるべきチョコレートがないことに苛立っている。
 誰よりもまず真っ先に届けられると思っていたのに、結局届かぬまま一日が終わってしまった。
 時計の針が一日の終わりに近づくにつれ、司馬懿の眉間の皺は数と深度を増していく。
 終業時間を告げる時計の鐘の音が響き、司馬懿は最後の書類に印を押す。
 時間配分としてはまずまずだ。
 定められた労働時間外の労働を厭う傾向にある職場だったから、この時点でほとんどの者が帰り支度を始めていた。
「お疲れ様でぃす、お先に失礼しまーっす」
 元気良く挨拶を(一方的に)して帰っていくの背を、司馬懿は横目で追う。
 取り出した鞄が滑って机の上に落ち、大きな音を立てた。

 司馬懿が自宅のマンションに戻ると、二月中旬の冷え冷えとした空気が出迎えてくれる。
 チョコレートが詰まった紙袋を投げ出すと、エアコンのスイッチを入れ、コートを片し棚からグラスとブランデーを出す。
 別の段の棚に置かれたつまみ用のキスチョコに気付き、司馬懿は不機嫌そうに眉を顰めた。
 好きなレコードを掛けて、ソファに腰掛ける。
 革張りの感触が冷やかに司馬懿を出迎えるが、体温の温もりを吸ってすぐに程良く温まる。
 実用的かつ重厚な作りのこのソファは、司馬懿の気に入りの逸品だった。
「ただいまー」
 鍵が開く音と同時に、マイペースな声が響いてくる。
 レコードの音量をものともしない癖に、決して怒鳴っている訳ではない。
 それでも聞こえる辺り、と言う女の不思議な人となりの一片を表しているような気もする。
 司馬懿は敢えて反応することなく、レコードの奏でる音色に聞き入っている振りをした。
「すぐご飯にするね。今日、お鍋だから」
 無視されているのに、は気にした様子もない。
 慣れているからと言えばそうなのかもしれないが、一緒に住むようになってからずっと、はこんなだった。
 気にすまいと健気に立ち働いているつもりもなさそうだし、意地を張っているようでもない。
 極々自然体に、女性に極ありがちなマイナス思考というものを一切持ち合わせてないかのようにも見える。
 音楽に身を委ねていても、漂ってくる出汁の香りが司馬懿を現実に引き戻す。
 換気が悪い筈はない。
 けれど、実際に鼻をくすぐる匂いは強くなるばかりだ。
 壮麗なレコードの楽曲と、鍋で煮えているのだろう具材の香りの相反する組み合わせに違和感を感じ、それ以上は耐えられなくなって、溜息を吐きつつレコードの針を止めた。

 鍋は美味かった。
 の料理はそこそこ上手い。
 以前にケーキやらクッキーやらを作って食わせられたが、それらもなかなか美味だった。
 ならば、チョコレートを作るのだけは苦手、ということもあるまい。
 最初は司馬懿も、バレンタインはあくまで14日だから、同じ家に住んでいて前日にチョコレートと言うのもおかしな話だ、などと考えてみたのだが、食事が済んでもが菓子作りに取り掛かる気配は微塵もない。
 どころか、司馬懿が密かに確認した限り、それらしき材料が一切見当たらなかった。
 チョコレートを作るにはチョコレートが必須な訳だから、そのチョコレートが今ない以上、がチョコレートを作る算段は薄いと見なければならない。
 明日材料を買ってくるのかもしれないと考えてもみたが、よくよく考えればは明日の昼から出張が決まっている。
 買い物に出たとして、そこからチョコレートを作成する時間まではないだろう。
 ひょっとしたら何処かに仕舞いこんでいて、司馬懿を驚かせるつもりかもしれないが、がその手のサプライズにとんと興味がないのはこれまでの付き合いから判明している。
 どれだけ考えても、結局『からのチョコレートはナシ』という推論に落ち着いてしまうのだった。
「……馬鹿め」
 誰に言うでなく呟くと、スリッパのぱたぱたという音が近付いてくる。
「どしたの、機嫌悪いね」
 司馬懿は返事をしない。
 元々期待していなかったのか、も気にもしない。
 その『当たり前』にイラついて、司馬懿は唇を噛んだ。
 コーヒーの匂いが司馬懿の鼻をくすぐり、ソファが軽く揺れる。
 司馬懿の真横に腰掛けたは、一旦テーブルの上に置いたカップとソーサーを司馬懿の前に差し出した。
 それをちらりと見遣ると、横目でを見る。
「……これで終いとするつもりか」
 コーヒーの横には、カードタイプのチョコレートが添えられていた。
 小さな、しかもたった一枚のチョコレートに、司馬懿は何故かくすぐったさを感じて笑ってしまう。
「……何が?」
 司馬懿の笑みが消えた。
 無言でカップを受け取ると、むっつりしてコーヒーを啜る。
 その横顔を見詰めていたは、ああ、と不意に声を上げた。
「バレンタインのチョコ、欲しかった? 去年、迷惑だって言ってたから自粛しちゃった」
 コーヒーに添えたチョコレートは、ランチに入った店で頼んだコーヒーに付いていたものだと言う。いつもはこんなサービスないのに、と思いながら、ランチの方でちょうど満腹になったのを、折角だからと持ち帰って来たのだ。
 迷惑は迷惑だろう。その気もないのに好きでもない菓子を大量に送られて、受け取ったり礼を言ったりで仕事を中断させるだけでも大変な迷惑だ。
 特に去年は、チョコレートを渡す前から『今年のお返し予定は何ですか』などとしゃあしゃあと訊ねた女まで居たもので、司馬懿を酷く怒らせた。お返し目当てで渡すか渡さないかを決めるくらいなら寄越さんでいいと嫌味を挟んで説教すると、そんなつもりはないのにと執拗に言い訳して泣き喚き、非常に鬱陶しかった。
 後でトイレで散々文句垂れていた、やっぱりお返しが目当てだったと言っていた等とわざわざ報告してくる輩もあって、司馬懿の苛立ちはそれは酷いものだったのだ。
 に言ったのは、その余波での話だろう。
「……別に、あれはお前に言った訳ではない」
 むっとしてぼそりと呟く司馬懿に、は呑み掛けのカップを置いた。
 ソファの上に上がり、司馬懿に向けて膝を揃え、正座する。
「司馬懿が欲しいなら、いつでも何でも上げるよ。でも、チョコレートが欲しい訳じゃ、ないんでしょ?」
 その通りだ。
 だが、ご指摘通りと頷くのは腹立たしくて、司馬懿は沈黙を守る。
 の手が司馬懿からコーヒーのカップとソーサーを奪い取り、ローテーブルに下げてしまう。
 おもむろに口付けられて、司馬懿は拒否することもなく、けれど喜んで受け容れる気にもなれず、複雑な面持ちでを迎えた。
「でも、みんながみんな誰かにチョコとか上げてる日に、私だけ司馬懿に何も上げないのもちょっと悔しいね」
 上手く言い替えるものだ。
 あくまでも自身の問題にして、もらえないですねていた(あくまで客観的にだ)司馬懿には、何ら含みがないように言葉を選んでいた。
 だからこそ司馬懿は、を手元に置いているのかもしれない。
 笑って、は司馬懿の腕を引く。
 嫌々を装って立ち上がる司馬懿は、が向かう先に寝室があることも織り込み済みだ。
「何処へ行くつもりだ」
 わざと訊ねる。
 振り返ったは頬を薄らと染め、無言で司馬懿を引っ張る。
 滅多に見られない表情に、司馬懿は『まぁ良かろう』と笑みを浮かべた。
 来月は、同じ『もの』を返してやろう。

  終

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